シネマ日記

超映画オタクによるオタク的になり過ぎないシネマ日記。基本的にネタバレありですのでご注意ください。

敵こそ、我が友~戦犯クラウスバルビーの3つの人生

2008-09-04 | シネマ た行
クラウスバルビーという人のことはまったく知らなかったんですが、予告を見ておもしろそうだったので見に行ってきました。思ったより、観客は多かったです。

常々「戦犯」というものの定義はとてもむずかしいなと思っています。彼らは戦争というイカレタ状況の中で国に洗脳され上官に命令されるがまま非人道的な行為を行ってしまったのか?それとも、自分から率先してそんな行為におよんだのか?その罪は誰が償うべきものなのか?これを的確に定義することは人類には不可能だとは思いますが、このクラウスバルビーという人個人の場合はどうだったのでしょうか?

彼はナチスの親衛隊でフランスのリヨンでレジスタンスを殲滅する任務につき、“リヨンの虐殺者(ブッチャー)”と呼ばれた。また、(本人は否定していたが)孤児院にいた44人のユダヤ人の子供たちを収容所送りにした。そんな彼が戦後、戦犯として裁かれることはなかった。それはなぜか?

第二次世界大戦直後から、アメリカとソ連は対立を始め冷戦の幕開けとなる。“敵の敵は友人”という言葉がある通り、大戦中にソ連と戦ったナチスはアメリカよりもソ連の内情に詳しかった。そんなナチスをアメリカは対ソ連の戦略を立てるために保護し雇った。その中心人物がクラウスバルビーだった。彼はスパイ活動に詳しく、有効な拷問の方法の知識が深く、ソ連の情報を持っていたので、アメリカからしてみるとものすごく有益な人物だったわけだ。アメリカの上層部はもちろん彼が戦犯に値する人物だということは知っていたが、自国の利益のためにそれをもみ消し、バルビーが名前を変え、南米に逃れる手伝いをした。アメリカのスパイとして働いたナチスの残党たちは、自分たちの存在価値を高めるため、事実以上にソ連の脅威を高めるような情報をアメリカに流し、それによってさらに冷戦状態がひどくなっていったと語っていたアメリカの元議員がいた。世界を二分した冷戦にもナチスの影響があったなんていままで考えもしなかった。

南米に逃れてからもバルビーは政治の世界に近づき、そこにヒトラーがなしえなかった第三帝国の夢の続きである“第四帝国”を築くことを夢見たという。南米ボリビアで彼はチェゲバラの暗殺に関わったということだが、この映画の中ではこの部分はさして詳しくは語られなかった。見に行く前にワタクシがもっとも興味を抱いたのはこの部分だったので、それに関しては残念だった。

世界の左翼化、共産化を恐れるアメリカ、西欧がバルビーたちを操って南米に軍事政権を誕生させたりと、世界政治の裏に大国の思惑がひしめいているという事実が明らかにされる。

そして、ついに大戦終結から約40年が過ぎた1987年にバルビーはフランスで“人道に対する罪”で終身刑に処される。おそらく、このときにはすでに冷戦は終結しており、アメリカにとっても西欧にとってもバルビーの利用価値はまったくなくなっていたのだろう。バルビーをかくまってくれる政府はどこもなく、彼はフランスに突き出され、裁判の場へと引きずり出される。ここで、数々の証人が登場し、バルビーの罪を告発するが、バルビーは「あれは戦争だった。そして、戦争はもう終わった」と主張する。最初に書いたように、戦犯という定義は難しい。バルビーが主張するようにあれは戦争だったからなのか?この映画を見て勝手に思ったことだけれど、あれは確かに戦争でその中でバルビーは“するべきこと”をしただけかもしれない。だが、実際彼がそこに快楽を感じていたことは否定できないんじゃないかと思った。それが、彼の人間性なのか、それとも誰しもが陥ってしまうようなことなのかは分からない。そういうことができる人間という生き物を国家が承認してしまうとそういうことが起こるということなのかもしれない。

バルビーの言う「みんなが私を必要としたのに、裁かれるのは私一人だけだ」という言葉は、確かにそうだなぁと思う。だからといって、彼の罪が消えるわけではないし彼を正当化することはできないけど、大国の政府は彼を利用するだけ利用してポイした。結局は、利用できるものはすべて利用して、自分たちの思惑を実現させるのが、大国の政府というものなんだろうな。そういう部分を明らかにするという意味で彼の人生をこのようにドキュメンタリーにすることには大いに意味があると感じた。