特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

きれいごと

2010-01-04 09:54:15 | Weblog
2010年 謹賀新年
東京は、元旦から好天に恵まれ、晴れやか気分で新年がスタート。
が、言うまでもなく、私は、大晦日が仕事納めで、元旦が仕事始め。
休みらしい休みもなく、単調な年末年始であった。
大晦日は都内某所で汚腐呂掃除、元旦は現場業務には出ず、一日中会社で雑用を。
そして、壁に掲げた新しいカレンダーに妙な重さを感じながら、「今年も頑張るしかないな・・・」と疲労感に潰されそうな期待感と、溜息に消されそうな深呼吸をもって自分に気合を入れ直した。

年をとるにしたがって、心の感度が低下してきている私。
仕事の疲れ・金の心配・人間関係のストレスetc・・・
楽しくないことばかりが増え、新年にあたって気持ちを新たにすることもできなくなってきた。
毎日が元旦のように思えれば、生き方も変えられるだろうに・・・
子供の頃の正月に味わっていたリフレッシュ感が懐かしい。
どうあれ、心の鮮度が悪い理由を、上記のような自分の外にあるものに転嫁するのはよくない。
問題の核は、死人のように冷たく硬直した私の心にあるのだろうから。

何はともあれ、今年も始まった。
そして、今日が仕事始めの人は多いだろう。
この年の仕事を溌剌とした気分でスタートした人もいれば、憂鬱な気分でスタートした人もいるだろう。
それでも、“スタート”できればまだいい方で、この時勢には、したくても仕事がない人がごまんといるそう。
そんな人達が抱える苦悩は、いかばかりか・・・

事情がまったく違うけど、かつて、死体業に就く前の私も無職の苦しみを味わったことがある。
ほんの数ヶ月だったけど、あれはあれでかなり辛いものがあった。
それを想うと、今、仕事がない苦しみに遭っている人達の気持ちが少しはわかる。
しかし、どんなに他人を思いやる言葉を発しても、所詮は“きれいごと”。
「自分さえよければ、それでいい」なんて冷たい想いが、私の基にある。


「きれいごとを吐くな!」
私は、頻繁に、そんな罵声を浴びせられる。
そして、そんな声に対して、時に身構え・時に萎縮する。

“きれいごと”という言葉は、あまりいい意味では使われない。
社交辞令・建前・机上論・詭弁・屁理屈・上辺の言葉etc、実が伴わないことのような印象を持つ。
そして、よくないことのように捉えてしまう。
しかし、“きれいごと”とは、そこまで否定されるべきものだろうか。

こんな殺伐とした社会でも、ヒット曲には、歯の浮くようなきれいな歌詞が多いし、人気ドラマや映画には、現実には有り得ないような美談が多い。
そしてまた、人は、フィクションとわかっていても、感動する話・泣ける話が大好きで、いわゆる“きれいごと”を前面に出したものがウケる。
それは何故か・・・
それは、人間は、“きれいごと”を好む動物だから。
つまり、人の心には、“汚い思いは持ちたくない”“きれいな生き方をしたい”という普遍的な本性が潜在しているからなのである。

しかし、そこまで“きれいごと”を好むわりには、普段、汚い想いばかり抱え・汚い行いばかりを繰り返す・・・
欲にめっぽう弱く、“善くない”とわかっていても悪に走る・・・
目や耳から入る“きれいごと”が、実際の自分の生き方に適応できない・・・
人間には、 “きれいに生きたい”と願いながらも汚くしか生きられない、悲しい性があるのである。
そこのところに、“きれいごと”が否定的なニュアンスを持ってしまう由縁があるのだろうと思う。

この私もモロにそう。
きれいに(正しく)生きることを願っているのに、そう生きられない。
ブログの中では“善い男”を演じてはいるが、実のところ、結構“悪い男”。
“クセ”がなさそうに映るかもしれないけど、結構な“クセ者”。
人を斜に見るのが大得意で、長所を褒めず・短所を批判、人がくれる建前を冷淡に受け流し・本音を黒く読む。
それは、仕事に対しても同様。
依頼者や故人を思いやるような態度はとるけど、内心は極めて自分本位。
“きれいごと”を吐くけど、どこまでが本心なのか・・・かなり怪しい。

「本当に、故人の冥福を祈っているか?」
「本当に、故人の尊厳を守ろうとしているか?」
「本当に、故人の死や遺族の苦境を悼んでいるか?」
「本当に、依頼者が癒されることを願っているか?」
「自分の働きは、献身的なものと言えるか?」
自分に問うてみても、残念ながら、その答えはすべて“No”。
そんな気持ちがまったくない訳ではないけど、所詮は、一時的な感傷と区別がつかない程度のもの。
自愛に慈愛の皮を着せ、自分の偽善に浸っているだけ。
結果、私は、自分のため・自分が生きるためにこの仕事をしているのであって、決して、遺族(依頼者)や故人のためではないことを再認識させられる。

私の内面や行いだけではなく、腐乱死体現場も恐ろしく汚い。
液状化する肉体・・・
理性なく流出する腐敗体液・・・
汚物を身にまとい、縦横無尽に徘徊する夥しい数のウジ・・・
糞を撒き散らしながら空間を制す、無数のハエ・・・
腹を突き上げてくる、類をみない悪臭・・・
地獄絵図のような凄惨な光景が、現実のものとなって立ちはだかる。

そんな腐乱死体現場・・・
始めのうちは、現場が不気味さに身構えて、オドオド作業。
しかし、少しすると、何かが燃焼し始める。
始めのうちは、腐敗体液がとてつもなく汚らしく思えて、イヤイヤ作業。
しかし、少しすると、人の世話をしているような気持ちになってくる。
そして、汚物と故人が重なって、“汚いもの”という感覚が薄まってくる。
つまり、私の感性の中で、自分の手にある“汚物”が“人”になるのである。

ある意味で、人間は汚い。腐っている。
どこまでも邪悪で、どこまでも愚かで、どこまでも醜い。
しかし、どこまでも美を求め、どこまでも善を求め、どこまでも生を求める。
だから・・・
人は“きれいごと”を求める。
人は“きれいごと”を言う。
人は“きれいごと”を喜ぶ。
そして、この人生に・この社会に、“きれいごと”は必要なのである。


「きれいごとを吐くな!」
と私に罵声を浴びせるのは、もう一人の私。
悪知恵が働く、なかなかのクセ者。
既に、今年も、そいつとの格闘が始まっているのである。








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