八幡様からの帰り道、なつかしさにリヒターの「マタイ受難曲」を探す。
運よく駅前のお店で見つける。1958年のモノラル録音。これこれ……あのころ聴いていたもの。
フィッシャー・ディースカウのバス。「わが心よ、おのれをきよめよ」
耳にしたとたん、ちからが抜ける。吐息。
さまざま思い浮かぶこと。当時……そして今と。
癒し、という言葉、どこでも頻繁に見聴きする。
哀しみ、いたんでいる心のかたにお勧めしたいと思います。
ひととき、静かなやすらぎを感じるかもしれないから。
あたたかいシャワーのように、音楽の雨。
目にうつるまま。
ひさしぶりにまる一日、休みになったので、雨をぬって八幡宮の牡丹園へ。
今が盛り。丹精された牡丹あまた、折からの小雨になまめかしく濡れる。
間近につくづくと眺めれば、ただその華麗に魅惑される。
どんなみごとな薔薇も、大輪のはなやかさ、牡丹には及ばないだろうと思う。
花を女人になぞらえる。それはたのしい言葉とイメージの〈遊び〉
では、牡丹に誰をと考えれば、ふるめかしいけれど、さしずめ楊貴妃くらいしか思い浮かばない。
どっしりした量感と貫禄、濃い彩り。
白牡丹にしても、清楚よりは凄艶。
かろうじてひきあいにだせば、付け睫毛の濃化粧、鳴り物入りの華舞台、タカラヅカ、の世界かな?
でも花々は無言。
はなびらを風雨から庇う傘に、驟雨がさっと降り注いで、しとしと……。
連休中でも、このお天気のおかげで牡丹園は人少な。
花たちのしづかな微笑だけが、朱赤、紫、くれなゐ、薄紅、白、とりどり七重八重、視線を誘う
どこだったろうか……百年を超える樹齢の藤があると聴いた。
北陸か、京畿か、忘れてしまったけれど。
桜の古木もゆかしいけれど、藤のそれはさらに、この世ならぬ風情で。
山藤が今さかり。
おおきな大木、鎌倉山、また十二所あたりでよく見かける。
淡い藤色、新緑に映り、天人の花簪のように揺れる。
藤の翳は、ふしぎとあかるい気がする。