「ゲルマントのほうへ」まで読み終えた。吉川訳だと7巻めで、全14巻のちょうど半分になる。
19世紀フランスの貴族社会フォーブール・サンジェルマンに君臨する大貴族ゲルマント公爵夫妻とその豪華なサロンを描く。
描写は全て微に入り細に入り、多数の人物像、会話、蘊蓄、文学美術音楽、贅を尽くした料理にヨーロッパ王家ほとんどの系図と逸話伝説、歴史を織り込み、文章じたい、まさに絢爛としている。
訳者の丁寧な割注を参照しないと、登場する貴族たちの会話や地口、洒落や皮肉、引用などは理解できない。
読みながら私は日本の古典文学「源氏物語」や、最近読んだ「栄花物語」などを思い出した。源氏物語は、多数の優れた現代語訳が著されているが、古語原文の醍醐味は、文章に散りばめられた和歌や漢詩、引用、また掛詞や縁語などの修辞を味わい、歴史的背景を理解した上で、音楽のような韻律を伴う美文を楽しむことでもある。残念ながら、現代語訳では雅語修辞のほとんどは、反映することができない。
きっと、プルーストの作品も、訳注どころか、フランス語原文ならではの妙味があるに違いないが、それこそ到底私には手の届かないエレガントな世界だ。。。
物語の内容の大部分は、サロンの午後のお茶会や、昼食、豪華な晩餐などでの貴族たちの会話なのだが、その話題がふるっている。
ばっさりと抽象的な総括をするなら、虚栄と物欲、自己顕示欲のせめぎ合いなのだが、
ゲルマント公爵夫人オリヤーヌの才気話柄のほとんどが1000年前に遡るヨーロッパの歴史から、各国王家の系譜に伝説、文学芸術を網羅し、自在に知識を繰り出し、駄洒落に、また皮肉やユーモアに仕立て上げる。周囲の貴族たちもそれを理解し、面白がり、オリヤーヌの巧みな発言に賛嘆する共通の知識や教養を持っている。
これを別な角度から読むと、かなり不愉快な虚栄心とべダンチズム、飽食の坩堝に過ぎないのではないかと思う。
作者は公平かつ辛辣に、各人の偽善や見栄っぱりな本性を暴く描写も忘れていない。
にもかかわらず、このように美的で高度な会話、飛び交う地口駄洒落にしても欧州数百年の歴史を踏まえ、ギリシャ哲学からフランス文豪たちの作品を引用しながら繰り出す会話は、それ自体が二つとない芸術作品のように感じられる。
この会話は、まるで19世紀当時の貴婦人たちの衣装やアクセサリーのように緻密で装飾過剰で、洗練され、長い裳裾や羽飾り、ふんわりした帽子をかぶっている。
衣装は、ことに女性の装束はその時代の文化を象るものだが、「ゲルマントのほうへ」ではまさにその感が強かった。プルーストは女性の衣装や色彩にもこの上なく正確で繊細な観察を及ぼし、優雅華麗な情景をいくつも描いている。
話し下手な私は、貴族たちの多弁と臆面のない自己礼賛に辟易したのだが、果たして現代、このように多面的にハイレベルな対話がどこでなされているだろうと考えて首を振った。
貴族たちの俗物性をプルーストは喝破しているが、莫大な富に支えられた彼らの暇潰しは、それ自体が文化だった。
夜通しの晩餐会、仮面舞踏会、音楽会にサロンイベント。。。おびただしい華麗な虚飾は、だがプルーストの晩年には「失われた時」になっていたのだろう。先走るが、プルーストはこのながい物語の最後で嘆いている。現代の男たちは無帽で歩き、女たちの衣装にはエレガントが失われ。。。うろ覚えだから、違う文言かもしれない。
まだこれから先は長い。楽しみながら、ゆるゆる読んでゆこう。
愛と感謝。