母の短い入退院のつきそいで実家に戻る。そのついで、県立美術館の「ミレー展」に立ち寄った。
ポーリーヌ・オノのうら若い肖像は、まるでポーの詩のヒロインのように蒼白で、やさしい。
ミレーのキリスト者としてのつつましさに満ちた筆触の画面に、疲れた心はいやされる。
彼の描いた「無原罪の聖母」は、素朴な農民の乙女の顔をしていて、イノセンスでかわいらしい。
母もまた、しみじみとやさしかった。ケアワーカーのわたしよりも、病院ではすれ違った車いすの患者さんにすばやい気遣いを見せる。
さまざまな来し方行く末を考えながら、数日。
画像は美術館の公園で。晩夏の木漏れ日がきれいでした。
顔がもろだしなんだけれど、このごろ疲れ気味かもしれず、さてどんな面相になったのかな、と心配になった。
年齢を重ねても、きれいでいたい。一生可愛い顔でいたいと誰だって思うでしょ?
それで、写真を見たら、なかなか可愛かったので(殴らないで)、アップ。
フェイスブックなどでは、みんな顔をあっさり出しているので、いいのかしらとも思うけれど。
もしかして、わたしは48歳の今の、ほぼすっぴんの顔が、人生のこれまでの時間のなかでいちばんいい表情をしているかも、と眺めた。かなりうれしいです。とはいえ、化粧をまあまあ丁寧にしていたのは三十半ばから四十歳ジャストまでの五年間くらいしかないのだけれど。
舞台でも、ずっと素顔だった。口紅もつけず、一人芝居を演じていた。
それで通したのは、若かったからかなあ…。
これからも、ますます可愛い顔でいられるように、日々丁寧に。
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海に。
ランボーの詩を思い出して。
見つかった
何が?
海と溶け合う永遠が
さて、いそがしかったけれど今日もよく過ごせたと思う。やり残したことは仕方がない。
まだもうすこし今日をまとめて、感謝しつつ眠る。
どんな夢が見られるだろうか。
みなさん、おつかれさま。ご訪問ありがとう
往来、蝉のなきがらがアスファルトに目につくようになった。
鳴きつくしてこの世のいのちを終える蝉たちのからは、爛けゆく夏の標本のようだ。
日がな、じりじりと彼らの歌声、ときおり野鳥の鋭い囀りが飛ぶ。静かだ。
太陽の真下で、いきものの命はみな等しい。小さいと感じるわたしの今日いちにちを大事に過ごそう。
いろいろ片づけて、ようやく休める。
帰り道、ほのぐもりの空を眺めた。真夜中にしても、消えない町明りに雲がかる星々の光は淡い。
またプラネタリウムに行きたいなあ。朝、コルトォのショパンを聴きながら思った。
ふるいSP版の音色のような、深夜の星影に、また気ままな単語が浮かんだ。
忘れないためにうたっておく。
よい一日を過ごせたと思う。感謝。
残暑に。
路面の輻射熱を浴びてお使いから戻る。きもち、なお涼しくということ。
ひとはみな上に立つ権威にしたがうべきです。神に由来しない権威はなく(ロマ13-1)
このごろ聖書がお友達。いえ先生かしら。
今日も感謝して、丁寧に。
ふと。
桜織(さおり)という言葉が浮かんで。
娘がいたらこんな名前をつけようかなと。
爽風(さやか)とか。
昔の少女漫画ちっくかしら。
一日の終わり近く。
夕陽に。今日はきっとすてきなサンセットが見られそう。
おつかれさま(誰に? みんなにです。