夜に。
あたたかくうららかなまひるま。
手をとって外出介助。
わたしの手より、利用者さんの手はあたたかだった。
相手の歩幅を測りながらいたわって歩く。
そのひとの手は、まるで地図のよう。
生きてきた時間のあかしが、筋目節目となって浮かび出ている。
島影、大陸、回帰線。
手相ではなくって、ふかしぎで誠実なそのひとだけの世界地図。
わたしの手につたう体温。
わたしの手もあたたかであって、と願う。
手をつなぐと、そのひとのまなざしも、ふわっと和らいだ気がした。
雨のあと。
外出したら、あちこちすこし濡れて、いまは曇間からうすく月光。
風のとだえて、しっとりした銀鼠いろの暮れがた。どこかでは、沈丁花のつぼみもゆるみそうなほのあたたかさ。
日々、さまざまな想念にいろどられて時が過ぎる。
わたしのこころを経巡った、そうした想いのいろいろは、やがてちりぢり。
潮の気配を含んだ水滴のようにながれて……消える。
海は、ここからはすこし遠いのだけれど、風向きと湿度で、磯の香りが昇ってくることもある。
心のなかに潮騒。それは耳を澄ませばいつでも聞こえる。
星曇りの夜に。
オリオンは、こんな夜でもくきやかに光る。
季節はうつろい、半球はすこしづつ春めいて……そこかしこ、動き始めるような。
あわただしく、また一日を終える。
ふと手を見る。朝から晩までよくはたらくなあ、と思う。
今のケアワークは、それほど厳しい環境とは言えないけれど、やはり、家事だけよりも手は酷使すると思う。
先日、宅配業者から、荷物を受け取ったら、その男性の手には、空手を相当にたしなんでいる証拠のタコが、手の甲にくっきり。
あ、カワラを割る人、と思った。肉の厚い、頑丈な手をしていた。
がっしりした体型、いかり肩。ことばづかいはごくおだやかで、普通の労働者にしか見えない。
けれど、彼の両手は、雄弁に彼の日常を明かしてくれた。
趣味だろうか? それにしては、この空手ダコはすごいな……とわたしは感心してしまった。
わたしの手は、ちょっと恥ずかしいかも。
ケア先で、介助するわたしの手を見たある利用者さんに、言われたことがある。
「まあ。はたらきものの手だわね」
わたしもよ、とその女性は、しっかりしたご自分の両手をわたしの眼の前にそろえて見せた。
今のわたしは、まだ、ちょっと自分の手を誇れない。
たどたどしく始めたケアワークの中で、手あれを庇ういとまもなく、水をくぐり、利用者さんを支え……などしてきた。
ワーカーさんはみんなそうだと思う。
介護の世界で、「やさしい手」のひとたちはみんな手あれに悩んでいるみたい。
昔から、家事炊事などは、まめにこなすほうだったけれど、今のいそがしさとは比較にならない。
長いともだち、手。
よくお手入れしよう。
よしなしごと。
画像は、メーダ・プリマヴェージ。
利発そうなまなざしの……人生の扉を開きはじめたばかりの少女。
クリムトも、こんなまっすぐな溌剌を描くのね、と思う。
いちにちの終わり。
かんたんなレシピで、玉葱をまるごと、薄口のお出汁で、ことこと煮込んだ。
なにかの片手間にできるから、煮物は便利。
あちこち行ったり来たりしながら日曜日。
それでも今日は、かなり自分の時間が持てた。
玉葱は上手に煮あがった。
ごろんと大きめに人参も添えて。高野豆腐など。
なんとなく、今日一日のぜんぶが、この煮物にかたどられている気がする。
お月様は半月かな……。
忙しく、静かな休日だった。
あっというまに、もう週末。
ふぞろいだったかもしれない日常。できたこと、できなかったこと。
さまざま思いながら、ほっと息を吐く。
明日は、また明日のこと。
まだ今日の片付けごとは残っている。
一歩、一歩踏みしめてゆく時間。その実感。
ささやかなこと、ケアでも、ほかのことでも、昨日より進歩があると思うとうれしい。
ドラセナさんは、一週間咲きつづけて、まだ今夜も花をつけてくれた。
室内にかけておいたあれこれの繊維に、彼女の匂いがほのかに浸みている。
ナチュラルで不思議な贅沢……。