昨日、観世華雪五十回忌・観世栄夫一回忌追善能、渋谷の観世会館で上演。
雨もよいのしめやかな空。
ひさしぶりに落ち着いてお舞台を鑑賞できる、ほんとにうれしい。
出演の方々、それぞれ老練な名人。素人のわたしには、そのよしあし、褒貶などとても及ばないこと…。
なつかしかったのは、浅見真州さん。数年前に青山の銕仙会能楽堂で、安達原を上演されたとき、印象深かった方。
どう表現したらよいものか……毅然とした舞や所作はもちろんのこと、すり足、立ち居、声づかい、そのすべてが精確なのに、やわらかくて角がない気がする。
ムーヴメントはひとそれぞれ個性があって、同じ動作をしても、感じる印象がまったく違う。舞やバレエといった非日常の「舞踊」だけでなく、家常茶飯の仕草も同じ。
浅見さんの足運びをみていると、空気のようにかるい。それでいてしっかりと地軸を踏んでゆく、能独得のしんねりとした強さも。
舞われたのが三番目、鬘ものの「井筒」だからだろうか?
在原業平を恋い慕う女人のなよびが優雅で。
同じく仕舞の「山姥」 山本順之さんも、所作がおおきくはれやかで、大地母神を彷彿とさせる山姥にふさわしいひろがりを拝見しました。
能はつきるところ抽象表現だから、いちいちの所作をあてぶりとして「感情移入」の尺度で測ることはできない。
わたしはお能を専門にお稽古したわけではないから、ひろく舞踊表現の流れ、一連のムーヴメント、所作の連なりによって、おのおのの演者の個性を、主観的に漠然と推し量っているだけ。
「西行桜」、「砧」……どれもどれもなつかしい。ひところは毎月どこかのお舞台を観ていたっけ。
「砧」は観世栄夫さんのお舞台の記憶がある。もうおからだの具合、よくはない頃だったろうか。季節は秋だった。うち捨てられ、ひたすら夫の帰りを待つ女のあはれを、さびさびと上演されて、感慨深かった。
最後、「求塚」
ふたりの男に懸想された乙女が懊悩のはてに入水、男ふたりは乙女の墓の前で刺し違えて死ぬ。そうして死後も乙女を争う三つ巴の愛執、地獄の業火にくるしむ、という救いのない世界。
前シテ、銕之丞さん、シテツレのふたりとともに水衣女出立(みすごろもおんないでたち)。
面がうつくしい。小面? 若女?
いずれにせよ、うらわかい乙女の貌。
その白いみずごろもの裾からのぞく唐織が、しづかな浅緑いろ、あるいは青磁いろに見えた。シテツレふたりはあざやかな紅入(いろいり)。
バレエの「ジゼル」を思い出す。
悲劇の死を運命づけられている少女ジゼルは、最初の登場から、仲間の村娘たちのまとう陽気な赤い衣装とは違う、青と白をまとっている。
ロミオとジュリエットも。
愛執の地獄、冥界から救済を求めて現れた乙女の姿は、その正体をほのめかす哀しみの彩りをまとうている。
舞台衣装は、そのキャラクターの人格・運命を表現する。
クラシックバレエはそれがはっきりしているし、お能でもそうなのだろう。
後シテになり、前シテとはがらりと変って痩女の面が凄艶。苦悩にやせ衰えた女の面。こけた頬の翳が、強い照明のために薄い青紫に見える。
白練大口出立(しろねりおおくちいでたち)。
色彩を抑え、もはや乙女よりは年たけた上臈という風情。
死後も、乙女は地獄で年を重ねていったのだろうか。でも老残ではない。
痩女のやつれは、なお嫋嫋とたおやかだ。
白い衣のしたの大口袴は、やはりつめたいあおみどり。
照明が黄色いから、もとの地いろはもっと青い…秘色か、浅黄なのかもしれない。
愛欲のもつれ、地獄の業火に焼かれ苦しむ、と訴える乙女のいでたちは、あまりにしらじらと清楚で、ひややかな哀しみを湛えている。
動きのすくない、わずかな所作のなかに、乙女の苦悩を凝縮するような深い演技、銕之丞さん、何度か拝見した数年前より、声音、所作など渋く、ねびまさっておいででした。
その重い足取り。
救済をもとめつつ、得られぬ乙女のうらみと嘆きを背負うて、また幽界にもどりゆく亡霊の後姿。
舞台幻想は深く、秘色にかがようて、橋掛かりへ続く。
乙女の愛を求めて修羅の血みどろ、死後その愛ゆえに縛められて、救いを求めて得られぬ「もとめづか」
求めてもとめて……得られぬ、それで「求塚」の世界。
いずれにせよ、これはわたしのながすぎる問はずがたり。
さまざまなうろおぼえ、見当違いなどもあるでしょう。とがめないでください。