こどものゆび。
もろくて、ちいさくて、たよりない。
乳歯から永久歯に変るころ……うすいはなびらのような爪、手ゆびのかたち、同時にしっかりしてくるような。
ひとのからだにも季節おりふしがある、ということ。
春から夏へ。
もうじき立夏。
銀杏若葉、さわやかな黄緑。
ドビュッシー「沈める寺」……を聴いて。
あのピアノ譜面は、ながめているだけでふしぎなきもちになる。
まるで関数グラフか、建築設計図のように音符の配列がうつくしい曲線を描く。
陪音の共鳴をたどりながら紡ぐ、海に沈んだ伝説の寺院の幻想。
ドビュッシー、ふしぎなひと。
あまりに聴覚が鋭敏なので、ひとつの音を聴くと、大気中に拡散してゆく陪音までも聞き取れたそうだ。
ふつうの聴覚では聞き取れないはずの音の振動。
雑音でいっぱいの日常生活を暮らすのは、たいへんだったろう。
仏はつねにいませども
うつつならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に
ほのかにゆめに見えたまふ
梁塵秘抄
祈りのこころを「短歌表現」に昇華するのは曲折が要る。
「賛美歌」にしてしまうと、そのユニゾンではすなおすぎて、現代の歌としては「嘘っぽい」と感じる。
かといって、虚偽や空疎な歪曲は冒瀆的に思える。
ひねくれでなく、真摯に、自分のこころの(照り翳り)と信仰の領域をハーモニーさせることはできないだろうか。
歌としても自立しながら、同時に頭でっかちではない自己表白でもあるという……
浜田到さんは、ときどき信仰について詠っておいでだけれど、どこか苦いニュアンスがこびりつく。それはいや。
いずれにせよ、この現代で、イエスさまを信じるということじたい、いたみをともなうことではなかろうか。あるいはいたみを認識すること、とも。
大正エログロナンセンス時代のような奇怪な事件が頻繁に起こる。
そんなニュースを目にするたび、自己の基軸を喪失してしまった魂の行方をいたわしく思う。
この梁塵秘抄の小唄は平安末期の、貧しい庶民の「流行歌」だけれど、いつわりのない哀歓と「祈り」がこもっていると感じる。
願はくば花のもとにて春……西行に倣って。
それと、葛原さん
耳裂きてかへりし猫のよこたはる雪のごとくに苦しまず死ね
こちらは思い切った突き放しようだけれど、べたついた抒情をならべるより、かえって猫に対する思いの深さも感じ取れようという歌。
月下に無くなったのは、かぐや姫か。
あるいは光源氏のふたりの妻、葵の上、また紫の上。
いずれも葉月十五夜のころ、みまかった。
紫式部は、彼女たちの死貌を、唯美的…明晰なほど…に描き尽くしている。
アシジの聖フランシスコに。
小鳥と会話できたという、中世の聖者。
いいなあ、と思う。鳥の視線で地上を眺めることができたんだろうか?
わたしのフランシスは、真上に乗せた。
霊名クララの先生だった聖人の名前をいただいて付けた子だから。
彼をわたしより下座にするのは気がひける。
聖フランシスコの引用画像は、ちょっと深刻。
でもジョニー・デップに似ているかな。