ふと、夜に。
きれいなまなざしでいよう、一生。わたしは。
目力、とはちがうのかもしれないけれど、女優を始める前に言われたことたびたび。
「目千両だね、あなた」
「澄んだまなざしだね」
ひとをにらみつける、とかじろじろ見るとかはしないタイプだが、褒め言葉と思いうれしかった。これは女性からも男性からも言われた。
女性のほうがたくさん褒めてくれたのは、わたしが山口椿さん、という特殊なひとの手の中にいる、という意味で、異性をめぐる競争の「埒外」の存在だったからだろう。
男性は、年配のひとのほうが優しかった。
今はそうしたことの意味合いが、わりあいはっきりと理解できる。
澄んだ湖のような眼でこの世のさまざまを見届けたい。眼は心の窓。
よい一日だった。感謝。
『秘密の花園』という世界的な名作児童文学の作者、フランシス・ホジソン・バネット。
世間ふつうの子供たちと同様、わたしもこの作品が小さい頃好きだった。コマドリロビンが秘密の花園の鍵を土のなかからつつき出すというくだりは、今思い出してもほのぼのとする。
バネットのあまたの著作の中に「白いひと」という中編があった。これは作者自身が我が子を失った悲嘆を創作によってカタルシスするために書いたと言われる。読者対象は児童ではなく、大人向きの心霊幻想小説という印象だ。
幼年期を過ぎていたが、今から思い出すとずいぶん昔にこれを読み、怪奇小説につきもののあくどさ、おどろおどろしさのない、19世紀を生きたバネットらしい優雅な抒情、叙景の美しさに魅了された。
優雅、美、抒情などとわたしは頻用するので、またか、と顔をしかめる読者もいらっしゃるだろう。だが、殺伐とした今の世相を目の当たりにするにつけ、心縮む思いがするわたしは、こころの洗濯、いのちの保養、をもとめてうつくしいもの、華やかな物語に惹かれる。
来年夏に、この物語を一人芝居、チェロ弾き語りで上演しようと思う。
その語りの原稿を小説ブログにさっきアップした。
今月初めに再演したカーミラよりも長く、原稿用紙100枚弱の台本は、おそらく語りだけで二時間を超える。
作品をダイジェストに圧縮したわけだが、バネットの個性である情景描写のこまやかさ、愛する者の死をめぐる哀愁に満ちた叙述など、どうしても割愛できない部分が多かった。
また原作をこまかく読みほぐして気付いたのだが、バネット自身、亡き我が子への鎮魂と嘆きをこめながらいっきに書き下ろしたものなのか、全体的なクロノロジーと帰結が、ややちぐはぐな印象もある。これは翻訳の誤りではないと思う。そういう点も、むしろ原作の美点ではないかと考え、理詰めに整理はしなかった。
19世紀末と言えば、オカルトブームだった。この作品もその流れに添ってはいる。
バネットは節度ある、敬虔なクリスチャンだったろう。信仰と心霊現象とのすり合わせの微妙のために、古代ケルトの汎神論世界を習合させている。
亡き人の姿、魂をいつまでも身近にひきとめておきたい、という母親の哀切な希求が滲む。
この芝居は、今年のカーミラのようなソロのチェロ演奏を加えたら三時間近くなるだろう。
これから一年間、じっくりとまた自分の心と姿を磨きあげ、長広舌の退屈さを感じさせない異次元を舞台空間に出現させたい。
こういうことは、きっと独りだからできるんだろう。
現代とは比較にならないくらい、女性作家には、いや女性の自己実現には制約の多かった19世紀から20世紀初頭を誇り高く、筆一本で生きたバネットの魂に捧げて、失礼のないような上演を、と。
、
暑かった。
今日もよい日だった。ひぐらしが聞こえる。風鈴も。
フェイスブックのさまざまなカラフル魅せられて、出たり入ったり。それはそれで楽しい。
その合間に竹西寛子さんの評論を、これもちらちらと読み返している。
『式子内親王/永福門院』
この女流のどちらも、わたしはことに好きな古典歌人で、昔はよく愛唱していた。
竹西さんの「式子内親王」叙述のなかから、気に入った文章を書きとめておこう。
☆斎院生活の約束ごとに、みずからのあや多い感受性を売り渡すほどの常識人としてではなく、またその感受性への固執から斎院失格になられるほどの非常識人としてでもなく、さまざまの思いを歌の言葉にかけて生きられた方なのであろう。史実が容赦なくうつし出している内親王の現実的な悲運は認めるほかはないが、歌に生きられた内親王には、そうした悲運を超えられる時間もあったはずである。
☆……「忍ぶ恋」の歌を多く詠まれた。だからといって式子内親王の歌を直線的にまとめてしまうには、当の作品はそうでない表情をもち過ぎているように想われる。忍ぶ恋の歌が多いから悲劇的というのこそ直線的な見方であって、題詠の場合もあれば、充実した表現の手段として、忍びの選ばれるときもあろう。また、実生活においても、うちつけの恋では経験されない自己陶酔への意志や無意識のあこがれがそういう形をとることもあり得ると思うのである。
あらためて、竹西氏の言葉は、今のわたしの見方のずっと先を快く掬い取って示してくださるかのようだ。わたしも式子内親王を悲運悲劇というネガでとらえてはいない。ほんとうのネガ、とは、みずからの置かれた境遇にくずおれ、精神を疲弊、劣化させてしまう状態なのではないだろうか。
そして内的な堕落、硬直をもたらす境遇とは、かならずしも現実的な運不運とは一致しないのではあるまいか。
長い文章に向かい合うのをこの頃怠りがちだが、ひさびさに眼垢を落としていただいたような気がする。
夜。
よく頑張った一日。わたしよりずっとハードな日々を過ごすひとはたくさんいる。わたしの年齢、体力、さまざまで、今日は満足な日。
チェロも三味線も弾けたし、お芝居のお稽古もすこしずつこなした。仕事も。
歌はすこし古典浪漫的?
鎌倉花火はことし中止だった。せめて蛍を見たいな。
感謝。
いそがしい一日だったので、歩きながら考え事をしていた。
☆彡似て非なるもの。
霊魂と大根
もろこしと梅干し
えびと蛇
スマホと素直
お茶漬けとおあずけ
恋と樋
運命と本命
納豆と感動
結婚と蓮根
愛と犀
パスタと明日
冗談と象さん
札束と七夕
嘘と歌
まな板とまだいた?
オットセイとおっかない
長ネギと長旅
今日は土用丑の日だから、ウナギと浮気。これは山東京伝かな?戯作の「江戸生まれ浮気の蒲焼」と落ちをつけて戻って来た。
もっといろいろ考えたかもしれない。きっとへんな顔で笑っていただろう。
あ、そうだ。今日のわたしの決め!
明日のジョーと明日もジョーダン
笑いは自己チュー世界を更新する。
ちょっとがんばった日でした。
今日はお休み。
雨音で目が覚めた。
昨日までの猛暑が一段落した感じ。いえ、中休みかしら。
与えられた休息の時間をだいじにしよう。
このところ、フォーレの「パピヨン」に取り組んでいる。蝶々のひらひらしたはばたきを表現するフレーズは、まさにリアルに、こまかくデタシェをかけて、だけどこすらずにかろやかに弾く。ゆびが鈍くなってなかなか前に進まなかったその運動感覚が、昨日くらいから少しずつ戻ってきた。
この実感が大切に感じられる。エネルギーあふれていた若いさかりには気付かなかった指の回復。
感謝。
暑い。
少し昼寝して、短い夢を見た。夢は毎日見る。午睡にも。
いつも、、目覚めてからしばらくはっきりと覚えていられる鮮明な夢だ。
以前のように夢日記はもうつけない。
夢のきれはしを、ときおり歌に織り込む。小説にも使ったり。
今日はララ(インコ)が出てきて、いつものようにわたしにまつわりついて甘えていた。さえずりが聞こえていたんだろうと思う。
これからチェロを少し弾く。
感謝。