電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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単なる知識の所有は、知恵や理解力を身につけることとはまったくの別物だ。知恵や理解力は、読書よりもはるかに高度な訓練を通じてのみ得られる。一方、読書から知識を吸収するのは、他人の思想をうのみにするようなもので、自分の考えを積極的に発展させようとする姿勢とは大違いだ。つまり、いくら万巻(ばんかん)の書物を読もうとも、それは酒をちびちび飲むような、知的たしなみにすぎない。その時は快適なよい心地を味わえるものの、少しも心の滋養にはならないし、人格を高める役にも立たない。
◆「真の知識」と「にせの知識」
『自助論』
( サミュエル・スマイルズ、三笠書房(2002/3/21)、p210 )
8章 自己修養――最高の知的素養は一日の仕事から生まれる
3 「真の知識」と「にせの知識」
今日では、活字文化の重要性は、いささか誇張されすぎるきらいがある。
たとえばわれわれは、「図書館や教育施設がたくさんあるから、人間は大きな進歩を遂げてきた」と考えがちだ。だが、そのような施設がむしろ高い自己修養の妨げとなる場合さえある。金持が必ずしも寛大ではないのと同様、立派な図書館があり、それを自由に利用できるからといって、それで学識が高まるわけではない。立派な施設の有無にかかわらず、先達と同じように注意深くものごとを観察し、ねばり強く努力していく以外に、知恵と理解力を獲得する道はない。
単なる知識の所有は、知恵や理解力を身につけることとはまったくの別物だ。知恵や理解力は、読書よりもはるかに高度な訓練を通じてのみ得られる。一方、読書から知識を吸収するのは、他人の思想をうのみにするようなもので、自分の考えを積極的に発展させようとする姿勢とは大違いだ。
つまり、いくら万巻(ばんかん)の書物を読もうとも、それは酒をちびちび飲むような、知的たしなみにすぎない。その時は快適なよい心地を味わえるものの、少しも心の滋養にはならないし、人格を高める役にも立たない。
読書を自己啓発の手段と思い込んでいる人は多い。だが実際には、本を読んで時間をつぶしているだけの話だ。この時間つぶしに何か有意義な点があるとすれば、せいぜい悪事を働くゆとりをその人から奪うことくらいなものだ。
もう一つ忘れてはならないのは、本からいくら貴重な経験を学んだとしても、しょせんは耳学問の域を出ないという点だ。それに反して、現実生活から得た経験は真の知恵となる。わずかな知恵でさえ、膨大な量の耳学問よりはるかに値打ちが高い。政治家ボリングブロークはこう述べている。
「直接的にせよ間接的にせよ、われわれを、よい人間、ひいてはよい国民に高めていけないような学問は、もっともらしく仕組まれた精神のままごとである。そんな学問から知識を得たところで、それはまさしく無知を学ぶことにほかならない」
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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単なる知識の所有は、知恵や理解力を身につけることとはまったくの別物だ。知恵や理解力は、読書よりもはるかに高度な訓練を通じてのみ得られる。一方、読書から知識を吸収するのは、他人の思想をうのみにするようなもので、自分の考えを積極的に発展させようとする姿勢とは大違いだ。つまり、いくら万巻(ばんかん)の書物を読もうとも、それは酒をちびちび飲むような、知的たしなみにすぎない。その時は快適なよい心地を味わえるものの、少しも心の滋養にはならないし、人格を高める役にも立たない。
◆「真の知識」と「にせの知識」
『自助論』
( サミュエル・スマイルズ、三笠書房(2002/3/21)、p210 )
8章 自己修養――最高の知的素養は一日の仕事から生まれる
3 「真の知識」と「にせの知識」
今日では、活字文化の重要性は、いささか誇張されすぎるきらいがある。
たとえばわれわれは、「図書館や教育施設がたくさんあるから、人間は大きな進歩を遂げてきた」と考えがちだ。だが、そのような施設がむしろ高い自己修養の妨げとなる場合さえある。金持が必ずしも寛大ではないのと同様、立派な図書館があり、それを自由に利用できるからといって、それで学識が高まるわけではない。立派な施設の有無にかかわらず、先達と同じように注意深くものごとを観察し、ねばり強く努力していく以外に、知恵と理解力を獲得する道はない。
単なる知識の所有は、知恵や理解力を身につけることとはまったくの別物だ。知恵や理解力は、読書よりもはるかに高度な訓練を通じてのみ得られる。一方、読書から知識を吸収するのは、他人の思想をうのみにするようなもので、自分の考えを積極的に発展させようとする姿勢とは大違いだ。
つまり、いくら万巻(ばんかん)の書物を読もうとも、それは酒をちびちび飲むような、知的たしなみにすぎない。その時は快適なよい心地を味わえるものの、少しも心の滋養にはならないし、人格を高める役にも立たない。
読書を自己啓発の手段と思い込んでいる人は多い。だが実際には、本を読んで時間をつぶしているだけの話だ。この時間つぶしに何か有意義な点があるとすれば、せいぜい悪事を働くゆとりをその人から奪うことくらいなものだ。
もう一つ忘れてはならないのは、本からいくら貴重な経験を学んだとしても、しょせんは耳学問の域を出ないという点だ。それに反して、現実生活から得た経験は真の知恵となる。わずかな知恵でさえ、膨大な量の耳学問よりはるかに値打ちが高い。政治家ボリングブロークはこう述べている。
「直接的にせよ間接的にせよ、われわれを、よい人間、ひいてはよい国民に高めていけないような学問は、もっともらしく仕組まれた精神のままごとである。そんな学問から知識を得たところで、それはまさしく無知を学ぶことにほかならない」