植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

魏公と魏王

2009年12月06日 12時01分09秒 | 国:日本・アジア
 「213年、曹操は十州を持って魏公に封じられた。216年、さらに曹操は魏王に封じられた。 当時、皇族以外には「王」の位を与えないという不文律があったのにもかかわらず、曹操 が王位に就いたということは、すなわち簒奪への前段階であった。」(Wikiより)


 この件、前からちょっと気になっていたんですよね。「魏公」の「公」とは何か? 「魏王」の「王」とは何か?

 調べてみると、「王」の方は『諸侯王』と言う地位のようですね。前漢では地方を皇族に半独立国家とも言う統治権を与えました。この地位が諸侯王で、呉王や楚王といった王爵です。
 この諸侯王は、前漢の時代、三国志で言う州ぐらいの地域の統治権を持っていましたが、「呉楚七国の乱」で王側の連合が負けると、三国志が始まる後漢には郡や県ぐらいとなってしまいます。
 この地位が皇族のみに与えられていたことから、上記の曹操の件になる訳です。

 で、「公」の方ですが、曹操が新設した地位のようです。

 一方、近い地位に『列候』と言う地位があります。これは漢の二十等爵の最上位の爵位にであり、皇族以外ではこの列候が最高位となります。
 列候になると、王と同じように封土され、その地域を支配できます。税収は全て取れるけど、統治権は無いというのが諸侯王と違うようです。これも郡・県ぐらいの地域です。

 三国志でも漢王朝から、この列候の地位を与えられた者は何人か出てきます。曹操にクーデター起そうとした董承などもこの地位を持っていました。
 ですので、曹操はいまさら列候になりたいとは思わず、さらに1つ上の地位として「公」を新設して、皇族以外の最高の爵位に就いたことを示したのでは無いでしょうか?
 ちなみに、周王朝では公候伯子男と言う五爵がありました。ですので、列候より上と言う意味で「公」なんだと思います。


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