植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

サクサク三国志:董卓

2011年06月26日 20時01分26秒 | ゲームシステム
所属:後漢→独立
年齢:約61歳(200年の時 ※53歳で死亡)

 董卓も年代の都合から基本から除いている群雄です。

 朝廷を欲しいままにし、暴虐の限りを尽くし、最後は養子とした呂布に殺されると言った三国志の悪役の代表ですが、それだけではない一面も見えてきます。
 董卓は若いときは畑を耕したりと自給自足のような生活を行っており、さらに異民族の羌族と親しく交流し、羌族の顔役が来ると農耕に使う牛を殺してもてなし、相手はそのことに感激し、逆に牛などを千頭あまり贈ったと言います。その後、役人になり盗賊を取り締まり、さらには騎兵を率いて異民族の胡と戦います。董卓は武勇に秀で馬術もかなり巧みで、馬上で左右どちらからも弓を引くことが出来たといわれます。その武勇をもってこの戦いで数千の首級をあげたとされます。
 その後、中央に召され并州征伐軍に軍司馬として参加し、反乱を起こした族長を斬り、1万もの捕虜を得ます。董卓はこういった武功の数々をあげて、西域を監督する戌己校尉や太守、刺史などを歴任します。反乱を起こした部族との戦いは100を越えたとされますから、かなりの武勇を誇る猛者と言えるでしょう。
 184年におきた黄巾の乱では敗戦して免職となります。その後、涼州で韓遂が羌族と共に反乱を起こすと張温の元で勝利を収めます。さらに追撃すると羌族数万の反撃を受け包囲されてしまいます。その際、董卓は兵糧不足を偽り、川を堰き止め魚を取るフリをすると、堰き止めた川を下ることで包囲を突破し、董卓が率いる軍のみが脱出に成功します。
 この武勇から張温が都に帰った後を任され、前将軍となります。その後、少常や并州牧の地位を与えるので兵を手放すように命令を受けますがこれを拒絶します。そうしているうちに大将軍の何進が暗殺され、袁紹が首謀者の宦官を一掃すると言う政変が起きると、宦官の1人が少帝弁とその弟 陳留王を連れ出して逃亡してしまいます。ちょうど何進の呼びかけで兵を率いて洛陽近郊まで来ていた董卓はこれを発見して、少帝弁と陳留王を保護します。そして洛陽に入ると殺された何進の軍を取り込み、さらに丁原の部下の呂布を抱きこむと丁原を殺させてその兵も取り込み、その強大な兵力を背景に朝廷を牛耳ります。さらには少帝弁を廃して陳留王を帝(献帝)に据えると、少帝弁とその母 何太后を殺害し、権力を完全に掌握します。
 一方、洛陽を脱した袁紹を盟主に反董卓連合が結成されます。中でも孫堅軍は果敢に洛陽に迫っており、向かわせた軍も陽人の戦いで敗戦し、和睦交渉も拒絶された為、董卓は洛陽の財の一切を奪って要害の地である長安に遷都します。これによって孫堅も洛陽から追撃することが出来ず、董卓は危機を回避します。
 しかし、董卓の暴虐を危惧していた司徒 王允により呂布が離反し、その呂布によって殺害されてしまいます。その肥満した死体からは油が流れ、へそに灯心を挿したところ、火は数日間燃え続けたと言います。
 
 その能力は悩みました。統率は1度黄巾の乱には負けていますが、それ以外では連戦連勝しています。皇甫嵩の元で戦った際に、皇甫嵩が臨機応変な作戦を立てたのに対して、董卓はセオリーどおりの作戦を進言し、結局皇甫嵩の策が的中して大勝利を収めたことから、董卓の作戦は駄目だとの評価を得ています。皇甫嵩や孫堅が戦争が上手過ぎるだけで、統率は率いていた軍の精強さも含め4ぐらいは与えても良いかと言う判断です。自身の武力は洛陽・長安で贅沢して肥満した分をどう差し引くかです。差し引かないで4、差し引いて3ぐらいかと思います。
 政治は一応名士の取り込みを行い、太守や刺史に任命したりしているのですが、これが逆に反董卓連合を結成させると言う裏目に出ていることや、住民統治が圧政だったので1、知力は演義では李儒が参謀となっていますが、史実では呂布の取り込みや長安遷都などの策を自らで行っており、また自軍を多数に見せるために昼に派手に入京して、夜中にこそこそと出るのを数日繰り返して、毎日のように董卓の軍勢が入京しているようにみせたりと頭脳プレイも多いので3としました。
コメント (2)
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