ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

ボランティア精神

2008-08-21 08:01:35 | オーラソーマ

 今まで使っていたボトルがなくなったので、自分で4本選んでみて、次に使うボトルを決めました。

 

 今日から私が使うことになったボトル、それは69番の「サウンディング・ベル」。080815_105202 上層部がマゼンタ、下層部がクリアのボトルで、私にしては、我ながらめずらしいボトルを選んだな、という感じです。

  なぜなら、まず私は「色」というものがとっても好き! だからなのか、今まで上層部にも下層部にも色がひしめいているものを選んできたことが多く、

クリアが入っているということ自体私には珍しいことなのです。

  このように実際にボトルを前にすると、なぜかそのとき気になるボトル、目を離せなくなるボトルというものが必ず現れます。それは自分が普段よく身につけたり、色として好き、というものとは別物だったりするので面白いのです。

  そして、マゼンタ。この色も私としては選ぶことが珍しい色です。マゼンタは色としては好きな色なんです。バイオレットという色は高尚すぎる、あるいは一歩間違うとヤンキーのように受け取られるだけ、ピンクはちょっと女の子らしすぎる、甘すぎる、というわけで、その両方のマイナス点を消し去ったのがその間のマゼンタというわけで、色としてはとっても好きなはずなんですよねー。でも今までいざボトルを

前にすると選んだことはありませんでした。

それどころか、コンサルテーションをする際に、この色がでると、比較的苦手だったんです。

内心、(いや~、でちゃったよ。どうする、どうする)ってな感じで。

というのは、色にはいろいろなメッセージがあるわけですが、マゼンタはメッセージとしてもとても高尚。「慈悲深い」とか「奉仕精神にあふれる」とか「命がないものにまで思いやりをそそげる」とか。なんだか、ものすごく立派な感じなんですよね。そのせいか、(この人は立派過ぎて、私しゃ、ついていけないわ)というように一目おいてしまって、悟りを開いた人を見るような目つきになってしまって・・

私自身が「ボランティア精神」というものが皆無なんですわ。

ボランティアってもともとは「志願する(あるいは志願者)」って意味でしょ。

でも、日本だけの傾向かどうか知りませんが、ボランティアには「無償の行為」っていう意味がつきまといますよね。有償の場合はあえて「有償ボランティア」とかいいますもん。

  「無償でする行為」、ましてやそれを「志願して」やるとなると、かなりの選別が必要になってくるように思ってしまうんです。これをやるなら先にあちらをやるべきではないか、とか優先順位を考えてそう思うときもありますし、自分の体がひとつしかないことや時間に限りがあることを考えるともっと重要なことがあるかもしれない、とかおもってしまうわけです。

  こういうことすべてふっきって「私がこれをやりたいのよ!」と突っ走れるものがあるとするとそれはもはや「ボランティア」ではなくて、「ライフワーク」にしたほうがいいのでは、とまた思ってしまいまして・・・

そんなこんなでボランティアを上手に生活に取り入れて、上手に自分の仕事や趣味とも折り合いをつけながらやっている人をみるとあまりにも自分が整理つきかねることをなんでもないことのようにやっている人なわけですから、尊敬とともに「世界が違いすぎる」「次元が違いすぎる」と思うと同時にその人にちょっとでも自分と同じく俗味を感じたりするとこの人にもこんなところがあったのね、という安心感よりはあまりにも滅私奉公的な精神が豊富な人だと思っているせいかがっかりしてしまうことのほうが多くて、そんな感じ方をしてしまう自分をいかん、いかんと戒めはしていたのですが。

ついに、私自身がもう少し深くこの問題と向き合うときがきたようです。

「サウンディング・ベル」とは古来から鐘がなるときは祈りを伴う場面が多いことからスピリットの本来の質につなげることを助ける呼びかけのボトルでもあります。

  そして、鐘の音は共鳴を呼び起こします。

  私自身のなかに、このボトルを使うことによってどんな「共鳴作用」が起こるのかとても楽しみです。


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