60番のこのボトルは、偉大なマスターがふたりも同時に1本で表現されたボトルです。
老子も観音もどちらも日本人にはなじみぶかく、好かれている存在ですね。
少し、ふたりについて説明しましょう。
まずは、老子から。
老子は実はその履歴については不明な部分が多く、ひょっとしたら実在しなかったのではないか、とまで言われている人物です。
老子がインドに渡り釈迦となったのではないかとまで言われている説もあるくらいですが、さすがにこれは道教の優位性をアピールするためのでっちあげのようです。
でも仏教の「空」と道家思想の「道」には類似点があるため、お互いの教団がそれぞれを参考にするなど、かなり影響はしあっているようですが。
でも大筋のところでは、紀元前5世紀ごろの中国の春秋時代に生きた人であったことになっています。
老子は周の王室の書庫の記録官でしたが、後年、周の衰えを見ることになってから立ち去った、と言われています。この立ち去るとき老子が通過した関所で、関守の尹喜の頼みを受けて書き残したのが有名な「老子」です。
この「老子」の上下巻の最初の一字「道」と「徳」をとって「道徳経」または「老子道徳経」と呼ばれています。
老子の思想は神秘主義から処世訓まで多岐にわたりますが、その原理は万物の根本である「道」によって表わされています。
「道」とは全ての存在を規定する原理であると同時に、それらすべてを生み出した母なる存在でもあります。
「道」はあまりに広大で漠然としているので、定義や解釈を超えていますが、人為を廃し、自然であることが「道」に通ずるとされます。
老子はこれを処世から統治にいたるすべてのことに適用すべきだと考えたのです。
日本人は、自然に勝るものはない、雲や山や空にも神が宿っている、それらを畏れ敬おう、という考え方を自然に受け入れて生きた風土と国民性があるため、この「道」は非常に受け入れられやすく、かつ尊ばれた精神だと思います。
八百万の神の存在を認め、雲や山も神なのだ、とする国はそうそうほかにはないでしょう。
この反対に、「じゃあ、その雲や山を作ったのは誰なのだ? 自然に発生するわけはなかろう。必ず万物には創造主がいるはずだ。それこそが唯一神である。」とするのがユダヤ教であり、ひいてはキリスト教です。
老子の思想が道教に発展すると、老子は道教の祖として崇められるようになり、神格化されて唐のころに道教の最高神である三清の一柱、太上老君となりました。
まぁ、立派な人には違いないですが、孔子が老子に礼とはなんぞや、と教えを乞いにいったとき、老子は孔子に対して「そなたのもったいぶった態度とかたよった思想をなんとかしなさい。」とかなり辛らつなことを言ったため、のちに孔子は自分の弟子に対して老子のことを「なんだかとらえどころのない人だった。」と印象を語ったりもしています。
さてもうひとりのマスター、観音。
観音はすべての祈りを聞き届けるいわば「東洋の聖母マリア」とでも言うべき存在です。
そして観音はマスターであると同時に菩提薩捶(ぼだいさった)という「真の意味での悟りを開いた人」でもあります。
古くからの伝承では観音は中国の裕福な王家の娘として生まれたと言われています。
幼い頃から慈悲深く、仏教に傾倒していった観音は、父が再建したお寺の住職となり、本格的な修行を志します。
あるとき観音は、求道の旅に出て道中、幾多の困難を乗り越えてようやく須弥山にたどり着き、聖なる白蓮を得て観自在菩薩就任の印可を得ます。再び父の寺に戻った彼女は寺で布教活動を続けますが、あるとき啓示を受けて観自在菩薩に転生するために涅槃に入ったと伝えられています。
観自在菩薩の観自在とは「一切諸法の観察や救済が自在に出来る」ということ。また、別名の観世音菩薩の観世音は、「人々の悩める声を見て、聞いて、救済の手を差し伸べる」と言う意味をもちます。
以上のようなことから、観音は「全ての祈りを聞き届ける大慈悲のマスター」といわれているのです。
実際に中国では「東洋の聖母マリア」と呼ばれることもあり、観音の放つ女性の聖なるエネルギーはキリスト教における聖母マリアと同一、または酷似したタイプのマスターであるとされています。
観音は人間の無知による苦しみに慈悲をもたらす菩薩です。
大いなる悲しみをもって、自分の中になぜ苦しみがあるのかに気づかせ、そこから解放してくれます。
女性たちは何世紀にも渡る男性権威における社会的制約で、その神聖さを拒絶され、虐げられてきました。観音は、女性たちが長い間抱いてきた苦しみを、浄化するためのサポートをします。
また、観音はわたしたちの祈りや心の声を聞いて受け止め、母の愛で抱きしめ、トラウマを解放し、癒してくれます。
老子のところで仏教と道家思想にはかなりの類似点がある、と書きましたので、このふたりのマスターが1本のボトルとして表現されている、というところも納得できるところです。
老子の言葉には現代でも多く語られている有名な言葉がありますが、そのなかのひとつとして、「自然を観察すると、生命は循環しており、何か不足すれば、あまっているところから補われて全体のバランスをとっている。ところが、人間社会の制度は正反対のことをやっている。欠乏している百姓から高い税金をとりあげ、すでに有り余っている君主に差し上げる。どこかの君主がその財力を天下万民のために使ってくれたら、有道の君主といえるだろう。」というのがあります。
彼はあくまでも無為自然から学んで「道」から言っているわけですが、結果的に弱きを助けるという仏教の観音道にも通じているわけです。
この一時をもってしても、ふたりのマスターが1本で表現されている意味がわかるような気がしますね。
私には、「ひとつの生命の存在が全体のバランスをもとっている」と言うことから考えるとB50「エルモリヤ」の「汝の意志であって、私の意志ではない」にも通じるものがあるような気がします。
「新・ネーミング・オブ・ザ・ボトル」にはこうあります。「これはボトルの色とクイントエッセンスの色がここで注意する重要なことです。実際それらは補色です。これはふたりのマスターの存在が異なった形で現れているからです。ボトルのブルー/クリアのなかには老子のエネルギーが主ですが、クイントエッセンスでは観音のエネルギーが主です。」と。
そしてまた「新・ネーミング・オブ・ザ・ボトル」では、老子を翡翠の皇帝に長命の薬である真珠を作るようにと命じられたことから、この下部のクリアは関連しているのだ、と説明しています。
真珠の貴重な価値とは苦しみのなかから生まれたものです。自らの肉体に異物を埋め込まれ、それを長期間にわたり育て、産みの苦しみを経て外に出したときにはそれが素晴らしく価値あるものに変貌している、ということ。
そこにはすべての虹の色を内に秘めた輝きがあります。
上部のブルーは「平和」を象徴しますから、このブルー/クリアにみる組み合わせとは「苦しみを軽くする平和」ということです。
老子が「万物のなかに我々にすべてを教えてくれるものがあるけれど、それは時に苦しみを内包している場合もある。」としているなら、それは確かにそのとおりでしょう。
でも、観音がその苦しみを慈悲でいやしてくれます。観音は、自分を痛めつける必要はないのだ、ということ、自分自身に思いやりを持っていいのだ、ということ、そして今のありのままの自分を受け入れることを教えてくれます。
B60「ラオツー&クァンイン」。(老子と観音)
「存在すること、そして自分自身を知ること」。
キーノートは「光からコミュニケーションすることができるように、内側に明晰性を見出す。」
アファメーションとして、「私はすべての制限や障害、乱心から解放します。」
効用としては、橋渡しとして、他のボトルが効果をあらわすための道を開く。
言語障害、内気や恥ずかしがりやを緩和する。
苦しみから解放する。
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