ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

「相対」の世界

2015-09-09 09:03:03 | 宗教
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    「色」に興味がある方、
    「色のメッセージ」に興味がある方、
    「自分が今どんな状態であるかを色によって知ること」に
    興味がある方、

          ご連絡ください。
       chakra@aura-soma.name  
オーラソーマの本コースとは別にそんな方のためのコースメニュー
  ご用意があります。

  ☆色が語るメッセージ
   ☆人類に共通する色のメッセージ、民族に共通する色のメッセージ
    個人に由来する色のメッセージなど
   ☆色の歴史と日常のなかに見られる色のメッセージ
   ☆自分に似合う色、自分をより輝かせて見せる色とは?
   ☆インテリアでコーディネイトする色
   ☆色で健康になる
   ☆色で自分の今の状態を知るには?
           etc.

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さて、昨日の続きですが、私は世の人々の多くが「宗教」というだけでピョンとそこから飛びのきたいほどの気持ちでいらっしゃるということが不思議でたまらない、なぜ「宗教」はそんなに毛嫌いされるようになってしまったのか、そして私自身のなかでは宗教かそうでないかというものをどのようにポジショニングしていったらいいのか、と感じたことが発端でした。
平成12年度の文化庁の調査によれば、日本の宗教団体数は22万7000です。
そしてそれらの信者の総数はなんと日本の全人口の倍ほどもの2億1400万となっています。
これは幽霊会員がそのままになっているとか、団体をかけもちしている方がいらっしゃるからでしょうかねぇ。
少なくともものすごい数なわけです。
これで日本人は無宗教の国民だ、なんて言っていいのかというほどの目を見張る数です。
肌身で感じた世の人々の多くは「宗教」と聞いただけで嫌悪感を感じている。
なのに蓋をあけて見た日本の実態はといえば、ほとんどの人々が何等かの宗教団体に属しているといっても過言ではない。
これはある意味、宗教が口では説明できないほどの強大な魅力とパワーを備えていて、その魅力に一度とりこまれてしまったら、という“恐れ”あるいは“畏れ”を多くの人が抱いている証拠ではないでしょうか。
ま、だからどうだって話ではないんですがね。
「宗教ってなんぞや?」なんてことはとても私が取扱いきれるテーマではないと思いますし、そこが語りたい部分でもありません。
ただ、人類が続くかぎりの永遠の結論が出ないテーマなんだろうな、という気がします。
だからここから話がつながるわけではありませんので、先を急ぎましょう。
また今日も書きたいところまで到達できないといけませんので。



私は3日間「道徳会館」が開催する「理楽笑」(リラックス)という塾に参加しました。
「3日間を通しての気付きにはどんなものがありましたか?」というテーマのグループシェアが最後にありまして、自分自身ふりかえってみて3日間を通してよく聞いたなぁ、と思うことが1つありました。
それが昨日もちらと書きましたが、「相対」ということでした。
「好き←→嫌い」「悪←→善」「黒←→白」ときっぱりと2つの事柄を分けることが相対です。
それをすると一見すっきりするように感じるのですが、結果それは自分を苦しめることになる。
なぜなら、自分の心が焦点を合わせたものが現実で起こるから。
嫌いだ、嫌いだ、イヤだ、と思っているとそれが自分の身に起こる。
そんなことが3日間の間に実際に起こりました。



最初は初日の講座のときでした。
ある講師の方が、ある求道をされた方が(「求道」というのは、この道徳会館でのメインともいえることで真我への道をひらくための儀式です。)この前、中国の天津へ行ったというお話をされました。
皆さんの記憶にも新しいように中国の天津ではつい最近港に近い危険物を取り扱っている倉庫が大爆発を起こしてものすごい数の死傷者を出しました。
まさにその場所に行く予定が、その方にはあったそうです。
「しかし、求道をしていたその方は何かその場所には嫌な気配を感じるということで取りやめられたのです。だからその方は助かりました。行っていたら死んでいたかもしれない、とおっしゃっていました。
求道をしたおかげでそれを感じることができたのですね。」
とおっしゃったのです。
講義の途中でしたが、私は体がかあっと熱くなり、その後の講義は耳に入ってこないほどでした。



この人はこの天津の事故で亡くなった家族の前でも同じことが言えるのか、と思いました。
いかにも求道者だったから助かった、そのほかの人たちは求道していなかったから助からなかったんだ、と言わんばかりのその口ぶりはどうだ。
そんな色分けの仕方こそ「相対」の世界じゃないのか、と思いました。
けれど数日経った今だから冷静に思えるのですが、その講師の方は「ほうら、求道ってすごいだろ。だから求道しなくちゃダメなんだよ。」と言いたかったわけではない、ただ純粋に求道すると真我に開くことが出来たから、この人はその真我で何かを感じ取ることが出来たんだねぇ、真我に開くってことはそういうことで発揮される場合もあるんだねぇ、と言いたかっただけなんだと思えるのです。
求道していないとこんな目に遭うよというところに焦点を合わせるか、求道しているとこういうことも起こることがあるんだねぇ、というところのどちらに焦点を合わせるかで同じ発言でも全然違ってきますよね。
でもその時には、「なんだ、この人は! 求道した人だけがエライみたいな言いかたをして! 求道していない人たちは死んだって仕方がないみたいな言い方をして!」と思ってしまったのでした。



さらにはこんなこともありました。
また別の講師のときの話です。
その方は、ホワイトボードにくるりと円を書き、
「なんにもない無私の自分がここにいる。これが真我です。」
とおっしゃいました。
そして次にその周りにもう1つ大きな円を書き、
「ここが私利私欲やらいろんなものに囚われた心や考えがある。」
とおっしゃいました。
そしてその外側の円のことを、
「ここをやっているのが宗教でしょう。」次に真ん中の円を差し、「ここをやっているのが”道”なのです。」
とおっしゃいました。
このときも私は、は? 違うでしょう、と思いました。



仏教に聡くなくても誰でも知っているような般若心経にさえ、海の底とその表面のさざ波にたとえて、表面のさざ波に囚われずにこの海の底にその身を横たえましょう、とつまるところ「道徳会館」が言うところの真我のことを説いているのに、そしてそんなことはもちろんこの方もご存じのはずなのにどうしてここをやっているのが宗教でしょう、うちは違うよ、とまた「相対」の世界で分けようとするのだろう、と思いました。
それもその違いは、「だから”道”は尊いんだよ、”道”だけが尊いんだよ。」と言わんばかりに。
この講師の方はこの「道徳会館」の中でも格別にエライ方だったので、ここで一番エライ人がこんなことを言うなんて、と反感を抱きました。
そして内心(もうここからは私は離れるだろうな。2度と来ることはないだろうな。こんな自分たちがやっていることだけが尊いのだ、オンリー1なんだ、というところはごめんだ。)と思いました。
私の「他を排除するようなオンリー1を謳うところはヤダ」感覚がマグマのようにむくむくと湧き上がってきた瞬間でした。



けれどこれも今にして思えば、何もこの講師は「だから”道”だけをやっていれば他の宗教なんてやる必要ないんだよ。」とおっしゃったわけでもなんでもありません。
そこまで言われたかのように感じてしまったのは、私がそこに心を置いていたから、フォーカスしていたからにほかなりません。
自分が批評精神が旺盛なのはわかっていますが、それは細かい差異もみのがすまいということから深く洞察しようという私の良いところでもあるので自分で自分のそういうところをすべて改めようとも思いませんが、このときはただ否定的に受け取ってしまった自分がいることを認めます。
世の宗教が「捉われた心」の部分ばかりやっているでしょう、とこの講師がおっしゃったことについても、宗教は本質をわかっていない、真我に触れない、とおっしゃりたかったわけではなく、世の人々の悩みがあまりに日常的に捉われてしまっており、そういう人たちをまずは癒してあげようとか報いてあげようとかするとそこばかりに執着した教えになってしまっている、とおっしゃりたかっただけかもしれないと今は思います。



まだあります。
この「道徳会館」の信者の方がたがご自身の宗教遍歴をシェアされるとき、
「私はいくつもの宗教を渡り歩いてやっとここにたどり着いた」とか、
「私は長らく仏教の事を学んでいたのだが、それではどうしてもしっくりこないことが多く、この”道”に出会ってからはこれ1本です。」とかおっしゃることが多かったのですが、それらにも首をかしげました。
”道”はあらゆる宗教の大元であるなら、その枝葉である宗教だって学んだっていいじゃないか、どうしてやめちゃうんだろう?
この「道徳会館」の教えもいいけれど、○○という宗教にも属しています、という人がいてもよさそうなものなのに、皆さん口をそろえてこれだけで十分だ、やっと私はホンモノに出会えた、そしてそれまでやっていたものはきっぱりとやめたとおっしゃる。
それはやっぱりこれだけがオンリー1だという主張ではないか、とそこから私は少し距離を置きたいと思いました。



きわめつけは3日間の最後に行われた講義でした。
タイトルがまさに「道と教え」(の違い)でした。
ここで言う「教え」というのがもろもろの宗教のことです。
どうしてこんなにも躍起になって「道」と「宗教」は違うのだよ、ということを力説しなくてはいけないのだろう。
「相対」の世界だけで物事を見るのはやめたほうがいいよ、と言いながら講義で「道」と「その他大勢の宗教」を比較してその立ち位置の違いを明確に見せてみせるということをやるのだろう、とげんなりしました。
その講師は、
「最初に皆さんにお断りしておきますが、私は宗教を否定するものではありませんよ。」
とおっしゃいました。
しかしその講師が語る内容は、はっきりと宗教を否定しているように私には感じられました。
例えば、真我に到達することを高い山を登ることに見立てた図を書き、「宗教は迷いながら一歩一歩この山を登ること」、「求道することはヘリコプターでひょいっと頂上に行けちゃうこと」、どっちがいいか自ずとわかりますよね~というようなことをおっしゃりました。
これが宗教の否定でなくてなんだ、とそのときは思いました。
最初に一言エクスキューズを述べて置けば、後から何を言ってもいいというものではないぞ、とこのときも私の中のマグマが噴火しかかりました。
一歩一歩コツコツと登ることの何が悪い。
むしろ私はその方が好きだ。
一歩一歩の歩みを感じられるから。
別にヘリコプターでひょいっと連れて行ってほしいなんて頼んだ覚えはない、と思いました。
アマノジャクな私が顔を出しました。
しかし、この講義が終わったあとに「うん、今までもやもやしていたことがよくわかった」とおっしゃる方も多く、その方たちとも心のかい離を感じました。
へぇ、皆さんはそう感じる人が多いんだ・・
そもそもなぜこんな講義がある?という時点で不思議に思っている私とはミシシッピ川ほどの大きな隔たりがあるなぁ、と。



これとて「だから宗教は悪い」とは一言もこの講師はおっしゃってはいないわけですね。
そこまで言われたような気になって、まるで全宗教の反論を背負って勝手に正義の味方みたいにぐるぐるとマグマを自分中で巡らせている自分が今となってはカワイイって思います。



まぁ、このようなことがあって、私は「ここは私が来るべきところではなかった」と思っていました。
心優しい皆さんと知り合えたのは良かったし、楽しくもあったけれども、これほどまでに「相対」について「なんで?」と思う講義ばかりだったのはなぜだ? それは私に「ここはお前には必要ないところだったよ」と言われていると思いました。
けれど・・・
帰ってきてからなにがあってそう考えが変わったのだ、と言われても困るのですが、ふっと肩から力が抜けるように「そういうことも全部含めて、だからおまえがその相対こそから離れてみればいいってことなんだよ。」と言われているように思えたのです。
違いや区別ばかりを諭されて、自分たちだけがオンリー1なんだという事を言われたような気になるということは、私の心がそこに焦点を当てていたからでしょう。
それは私が今自分が置かれていると思っている岐路、「親の店を継ぐかどうするのか」ということでもありました。
このことについての気付きについてはまた後日語りたいと思います。
いずれにしても私は自分自身のことで「YESかNOか」「やるのかやめるのか」という相対の中に身を置いていることを重々承知していました。
2つの中で「さぁどっち!」と早く答えを出せ、と刃を突きつけられているような気持ちに勝手になっていたのです。
だからそれはいったん家に置いてきて日常の問題からは離れてリラックスしようと思ってここにやってきたのだけれども、やっぱり持ち込んでいたのだな、と思いました。
それだけを持ち込んできた、と言ってもいいくらいに。



相対については「ジャッジをするな」という云い方でオーラソーマのコースなどでもよく言われることですから、何もこの理論が新しいとか自分にとって目からうろこだったということではありません。
けれども、今、この場で、このタイミングで、3日間を通して何が一番心に残っているかと言われた時、真っ先にいろんな形で「道」と「宗教」の違い、すなわち相対ばかりを聞かされたと感じるのは私にとって意味があることだと思いました。
そして「ジャッジをするな」と言われても、「そうは言われたって、しなきゃいけないときだってあるでしょうに」とか、前にこのブログでも阿部敏郎さんの禅アカデミーでうまくyou tubeの動画が機能しなかったことについて阿部さんがメールで「またこれもよしか」と書いてこられたことについて、「私たちユーザーがそう言うならともかく主催者側、事を起こした側がそう言うのは違うだろー!」と腹を立てたことを思い出しました。
このように私は耳タコになるほど「ジャッジをするな」という言葉を聞いていても、いざ具体的に自分がそれをどう運用するかという日常に立たされた時、相変わらずただ感情に振り回されているだけの自分がいるだけじゃないか、と思いました。
それは善悪で結論を出そうとするから腹が立つんだ、と思いました。
「どう考えたって間違っているのはそっちでしょーが」とか、「なのにその態度かい」と思うから腹が立つ。
けれどそもそもが相対で考えなければ、何にも振り回されない、振り回されないということは心がいつも穏やかで満たされた状態でいられるということ、そうすれば自然にすべてに感謝できてすべてを受け容れ肯定することができる。
すべてを肯定するということはすべてを生かすことができる、ということで、そうすれば物事はすべて円満で進歩、向上していく、ということが実に素直に肌で感じることが少しだけですが、日にちが経ったら前よりできるようになっているな、と感じたのでした。
だから、すべてよしだな~、このことに気付くために私には何度も何度も「これこそ相対じゃないかよ!」ということが起こったんだな、と思いました。



また今日は格別長くなってしまいました。
明日もまだこのことでの気付きのお話は続きます。





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