団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

大往生

2023年12月25日 | Weblog

  私の母が亡くなった。98歳だった。母の母親と同じ様に大往生であった。老健施設に入所していた。前の日まで普通に生活できていた。朝、施設の人が部屋に行くと息をしていなかったそうだ。母の母親は、89歳の時、前の晩、一緒に暮らしていた叔父の家族に「おやすみ」と言って寝室に入った。次の朝、いつも自分で寝室から出てくるのに、時間になっても出てこなかった。布団の中で息を引き取っていた。ピンピンコロリ。死ぬ直前まで元気で暮らして、死ぬときは、コロリと息を引きとれる。多くの人の願う死に方である。場所によっては、ピンピンコロリの願掛けができる寺があると聞いている。私もそう死ねるよう、長野県佐久市にある成田山薬師寺の“ぴんころ地蔵”にわざわざ祈願に訪れたことがある。

 母は継母である。私の産みの母親は、私が4歳の時、お産の途中で赤子と一緒に亡くなった。4人の子供が残された。父が一人で近所の人たちに助けられながら子供の面倒をみた。私は、最初に東京の父親の姉の家族に、その後新潟県直江津の母親の妹の家族に預けられた。長野県の家に戻ると、新しい母親という人が家にいた。後で聞いた話だと、産みの母親の母親が、母の未婚だった妹に姉の4人の子供が不憫なので父に嫁ぐよう命じたそうだ。産みの母親の妹だった。私の二人の妹は、すでに「おかあちゃん」と呼んでいた。私の5歳年上の姉が私に厳命した。「あの人は“おばちゃん”絶対に“おかあちゃん”って呼ぶんじゃないよ」 私と姉は、長い間“おばちゃん”と呼んでいた。

 私が初めておばちゃんを「かあちゃん」と呼んだ日を覚えている。小学校1年生の時だった。雨が降った日、小学校の玄関に傘と長靴を持った人が立っていた。それを見て、私は咄嗟に「かあちゃん」と言った。

 かあちゃんは、強い人だった。とうちゃんと喧嘩も絶えなかった。だいたい子育ての事でもめていた。かあちゃんは、「死に別れより、生き別れ」と言っていた。死に別れは、その人の良い所が神格化されて、どんどんいい人になる。生き別れは、嫌いで悪い点がどんどん誇張されるから未練もなくなるというのだ。後に私自身が経験することになった。

 かあちゃんは、努力家だった。かあちゃんの母親は、9人子を産んだ。かあちゃんは、四女だった。かあちゃんの後に男の子が4人と妹が1人生まれた。尋常小学校に2年も行かないうちに、子守のために学校へ行けなくなった。かあちゃんは、漢字を習うことができなかった。かあちゃんは、私が小学校で習って来た漢字を教えてくれと私に頼んだ。チラシの裏を糸で束ねて、ノートを作った。私にとって、これは復習になった。ずっと私の国語の漢字テストは良い点だった。かあちゃんは、その後、本をたくさん読むようになった。私や妹が学校の図書館から借りて着た本を喜んで読んだ。

 子供たちが大きくなって手がかからなくなると、かあちゃんは、父親と別居した。工場で働いた。工場のプレスの機械で指先を潰した。会社にプレスの機械の安全性を高める提言をした。会社は、その提案で機械の特許をとった。かあちゃんは、会社から表彰され報奨金をもらった。別居は、3年続いた。子供たちが、父親に謝らせて、再び一緒に住むようになった。父親は、見栄っ張りだった。稼ぎも悪かった。

 かあちゃんは、金に関しても凄かった。少ない収入の中から貯金を続けた。貯金も利子を増やすために、郵便貯金と信金の口座に金を移動させることまでやった。一定の額が貯まると、10年定期にした。工場勤務の後、かあちゃんは、私が結婚した相手の父親が経営する結婚式場と食堂で皿洗いとして勤めた。私が離婚しても、年金の事があるから辞めないとそこで働き続けた。職場で、いろいろ言われ嫌がらせもあったが、かあちゃんは、居続けた。

 そんな爪に火を点すようなかあちゃんの生き方を、父ちゃん似だったのか、4人の子供の誰も受け継ぐことはなった。

 離婚した私のアパートに休みの日は、1時間かけて自転車で来て、部屋を掃除して便所の便器をピカピカに磨いて掃除してくれた。いつも「二人の子供を育てることがお前のやるべきこと」と力づけてくれた。

 父が死んだ。火葬場で焼かれる父を見ながら、かあちゃんが言った。「死ぬと人間皆平等になるね。クリスチャンでも創価学会でも、大学出た人も小学校にも満足に行ってなくても、偉い政治家も普通の人も、金持ちも貧乏人も、皆同じ火葬場の炉で焼かれてしまう。凄いことだね。結局人間は、違って生まれて、異なる人生を送るけれど、最後は皆同じなんだね。次は私の番だね」 偉い哲学者の言葉のように聞こえた。

 親不孝な息子だったけれど、多くの事を学んだ。炎天下、二人で屋根のトタンにペンキを塗ったこと、便所の汲み取り料を節約するために、二人で汲み取りをして、畑にまいたこと、カナダへ留学の出発の日、自転車の後ろの荷台にトランクを縛って載せて、二人で公園の脇の坂道を駅まで話しながら歩いて行ったこと、かあちゃんが父親と喧嘩した後、私を連れて高峰秀子の映画『喜びも悲しみも幾年月』を観て帰りにカツ丼を二人で食べたこと。

 明日かあちゃんは荼毘にふされる。かあちゃんが言っていた通りに「最後は皆同じ」になる。良かったね。そして「次はこの私」の番。少しでもかあちゃんのように生きようと、最後まで努力したい。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする