埼玉県に住む友人が里芋を送ってくれた。手紙が入っていた。「…小生、これでいいのかと思案しながら相も変わらず百姓仕事(?)。八十歳の峠をこすとさすがに息切れします。今年もサトイモができました。ほんのすこしばかりお送りします。暑い夏の日も水やりに精を出しました。雨不足で小振りですがご賞味いただければ幸いです。…」 友人は、技術者として勤めていた自動車の部品製造会社を定年退職してから家庭菜園を始めた。
発泡スチロールの容器の中に新聞紙に包まれた里芋が入っていた。私は、里芋よりジャガイモが好きなので、里芋をわざわざ買って調理することはない。子供の頃、肉が食べたいのに、里芋の煮っころがしやカボチャなどの煮物ばかり食べさせられた。それも里芋を敬遠する理由かもしれない。しかし妻は、ジャガイモは嫌いだが、里芋は好きだ。友人が今年のあの猛暑の中、せっせと水やりに励んで、大事に育てた里芋だ。今夜は、妻の好きな里芋の煮っころがしをつくることに決めた。そうは言っても、私は、ネトネトして皮の剥きにくい里芋をうまく下処理する自信がない。包丁でローストビーフを切る時、誤って指先を数ミリ切り落としてから、包丁を使う時は、緊張する。里芋を友人が包んでくれた新聞紙を台に広げた。一番使いやすい包丁で1個ずつ皮を剥いた。やはり滑る。里芋を持つ手と包丁を握る手の連動がずれる。最近コキロクの脳と体の各所との連携がうまくいかない。あぶなっかしい手付きで皮を剥き終わった。包丁の先が、指に触ったが、切れることはなかった。
さあこれから里芋を煮る。まるで友人が里芋を送ってくれるのを見越していたように、つい最近電気圧力なべを買ったばかりだった。以前海外で圧力なべを使っていて、鍋が暴発して怪我をしそうになって以来、圧力鍋を使うのをやめていた。当時、ガスを使っていたので、さらに危険だった。今住む家は、オール電化でガスの使用はできない。すでにカボチャや肉じゃがを作ってみたが、中々の出来だった。安全性も改善されていて、安心感があった。里芋を圧力鍋で煮てみた。煮崩れることもなく、中までしっかり煮えていて、美味しかった。夜、帰宅した妻と晩酌を始めた。妻に友人が送ってくれた里芋の煮っころがしを食べてもらった。「美味しい」の一言を聞いて、嬉しくなった。友人に手紙を書いた。
昔、冬になると、近所の八百屋鈴木でおじさんが桶に里芋を入れて洗っていた。交差する2本の長い棒の一番下の開いたところに板がはってあった。交差した棒の一番上を手で持って、里芋と水が入った桶の中で棒を回す。里芋と洗い棒の板がこすれて音が出る。「キュッキュッゴシュゴッシュ」。今なら電動の機械で、簡単に里芋も洗うことができる。店では、洗ってきれいに皮も剥かれた里芋が真空パックに入れられて売っている。そして圧力鍋で短い時間に調理も可能になった。里芋に関わる環境も大きく変わった。肉肉、肉が食べたい、という時期も終わって、コキロクは、素朴な食べ物も抵抗なく受け入れられるようになった。何よりも、里芋を苦労して育てて、収穫して冷蔵便で送ってくれる友人の気遣いを想うことができるよういなった。敬遠していた里芋だが、友人の汗と時間を感じながら、味わって食べた。
いろいろ心配不安がつきない毎日だが、里芋は、温かい友の存在を伝えてくれた。