「大丈夫ですか?」 真っ暗な井戸の底にいる私に、光が射しこむ10メートルくらい上から、女性の声が聞こえたような気がした。私は、ショッピンングカートにもたれかかっていた。何が起こったのか。
5月30日、腸骨動脈の閉塞部をカテーテルで治療施術を受けた。2泊3日の入院だった。体への負担が、思っていた以上に重かった。そもそも今回の治療は、予定されていたものではなかった。最初の心臓と脚の血管の状態をカテーテルで検査中、偶然ヘソの近くの右脚に血液を送る腸骨動脈に重度な閉塞が見つかった。心臓のまわりの血管の閉塞の悪化は、なかった。両脚の膝から下の動脈の閉塞は、早い治療が必要だと診断された。私は、腸骨動脈も脚の動脈も一度に治療できるものと高をくくっていた。カテーテルのお陰で、以前は、開腹など外科的な手術でしかできないことも、患者側の負担を少なくして治療されるようになった。それでも私は、カテーテルが恐い。結局脚のカテーテル施術は、後回しにして、まず腸骨動脈の施術を5月末に受けた。
14日近くのスーパーへ買い物に行った。入り口でショッピングカートを手にした。いつものカートと何か違う。いままで店専用のカゴを縦に置いていたのに、横向きになっていた。幅がある。それに前のカートより重い。私は危険だと感じた。施術後、私の脚は、施術前よりずっと痛みが増した。歩くのもトボトボ。以前のままの縦にカゴを置く、幅の狭いカートもあったので、それを使うことにした。
店に入った。先日妻と買い物に来た時、妻がいつも買っているジンが品切れだった。店員が「当分入荷の予定がない」言っていたので、本当かどうか確かめようと思った。あった。たくさん並んでいた。反対方向から、女性がカゴから品物がこぼれ落ちそうなカートを押してきた。通路は、私たち2台のカートでいっぱい。女性は、ジンの反対側の棚で焼酎を見ていた。
突然、私の視界が真っ赤になって、脚に激痛が走った。膝がカックンとなり、私は、カートにもたれかかった。しばらく息ができなかった。「大丈夫ですか?」の声にやっと視界が正常に戻った。ジンの私と焼酎の女性の二人が通路を塞いでいた。そこへ私の背後から別の女性がカートを私にぶつけてきたのだ。痛がる私を見て、「(カートの)先が見えなくて」と言った。そのカートは、カゴを横にして置くもので、カゴは商品でいっぱいだった。焼酎の女性は、いなくなっていた。
私は、出血すると、血が止まらなくなる薬を常用している。膝の痛みだけでなく、カカトにもズキズキする痛みがあった。カートの下の突起部分が当たったらしい。カートの上部で腰をやられ、下部でカカトの2段差攻撃。出血があれば、病院へ行かなければと、通路に座って、靴を脱ぎ、靴下を下げた。幸い、出血は大したことがなく、皮膚が剥けていた。周りが、コブのように腫れていた。ふと辺りを見回すと、私にカートをぶつけた女性は、その場からいなくなっていた。
買い物をしないで家に帰った。腑に落ちないので、警察に電話して私の件について質問した。故意にぶつけたのでなければ、警察は介入できないと言われた。私のようなケースは、いわゆるもらい事故ということらしい。ネットで調べると、スーパーなどでのカートの事故が多発しているとあった。駅などでのゴロゴロ引いて歩くキャリーカートの事故も多いという。
夜、勤めから帰宅した妻が、私の傷を手当してくれた。「あなたは今、出血したら、血が止まらないのよ。気をつけなきゃ。お願いだから、心配させないで」 こっぴどく叱られた。どう気をつけて、妻を心配させないようにしたら良いのか、今の私には分からない。ただ私にカートぶつけた女性の顏と声が、蜘蛛の巣の糸のように私に絡みつく。