団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

父への手紙

2022年06月20日 | Weblog

  今 年も6月19日の父の日に、二人の子供からプレゼントが、宅急便で配達日配達時間指定されて届いた。嬉しいが、やはり今年も後ろめたさは消えていない。私は、二人の子供に対して、決して良い父親ではなかった。普段、子供たちと離れて暮らしているので、罪悪感は、影をひそめている。だがこの父の日とやらが来ると、「お前は、良い父親ではなかった」という、うしろめたさが襲ってくる。同時に私自身の父親に対しても、良い息子でなかったと後悔する。

  平成元年9月5日私の父親は、長野県の佐久病院の病室で72歳の生涯を閉じた。病院のベッドの脇の引き出しから、父が入院する前に、渡した手紙が出て来た。ずっと付き添っていた妹が「何度もお兄ちゃんの手紙読んでいたよ」と言った。私は、手紙に、いかに私が親不孝であったかを書いた。そして無理に無理を重ねて金を用立てて、カナダ留学までさせてくれたことへの感謝を伝えた。

  私の父は、尋常小学校へ数年しか行かせてもらえなかった。父親を7歳で亡くした。丁稚奉公に出た。東京の製パン会社で働いていた時、同郷の母親と結婚した。私の姉が生まれるとすぐ徴兵され中国へ行った。終戦後、疎開していた上田に戻り、私が生まれた。私が4歳の時、母がお産の最中に、27歳で亡くなった。赤ちゃんと一緒に。男手で4人の子供の面倒をみた。その後、私は東京の叔母の家、直江津の叔母の家にと預けられた。母親の妹が父に嫁いできた後、上田に呼び戻された。

  そんな父の苦労を知っていたにも関わらず、私はわがままに振舞った。自分の境遇なら、どんな身勝手も許されて当たり前と思った。何という愚か者。カナダ留学から帰国すると、学歴の無い父親をうとましくさえ感じた。思いあがるにも程がある。罰当たりとは、私のような子のことだ。結婚して私も2人の子の父親になった。そして結婚9年で離婚した。離婚して二人の子育てをした。そんな私を父は支えてくれた。二人の孫を可愛がってくれた。

  私のようなダメな父親でも、子供たちは、素直に成長してくれた。二人とも、大学を卒業した。今では家庭を持ち、子供も生まれた。それぞれが家庭を大切に堅実な生き方をしている。

  子供たちが大学を卒業するまでは、私自身のことは考えないと決めていた。そうなるちょっと前、縁あって再婚することができた。離婚して14年後だった。その後、妻の仕事の関係で、海外赴任に同行した。日本を離れたことが転地療法になった。私の過去のヘドロのように、心に澱んでいた、悪い思い出、私の至らなさ、後悔、懺悔を薄めてくれた。

  妻は海外勤務を辞めて、日本に戻った。海の近くの町に終の棲家を持った。今は妻と二人、静かにその家で暮らしている。妻にも“母の日”に子供たちからプレゼントが届く。父の日の私へのプレゼントより遥かに私にとって嬉しいことである。

  私は亡き父に、妻と幸せに暮らしていることを、手紙を出せるなら、伝えたい。私は親不孝な息子だったけれど、最後の最後に、父への便せん10数枚に想いの丈を書いた手紙を渡したことが、父への最高のプレゼントあったと信じたい。


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