団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

かしゃっぱ

2022年06月28日 | Weblog

  再入院の日がだんだん近づいて来た。私も妻もできるだけカテーテル施術の話を避けていた。できるだけ普段通りに生活するようにしていた。日曜日、天気予報で最高気温が30度を超すと言っていた。日中とても散歩どころではなさそうだ。妻と朝食前に散歩しておこうと外に出た。午前5時30分を過ぎていた。すでに太陽は登っていた。陽ざしは、強く肌に当たると熱かった。太陽と地球の距離から考えると、いったい太陽は、どれだけ熱量があるのかと考えてしまう。冬は、太陽の温かさを求めて、散歩は、日向を歩く。暑くなると、今度は日陰を求めるようになる。妻と川沿いの坂道を上がって行った。川の流れを見ながら、話しながら歩いた。川風が涼しく感じた。

  川沿いの道から、国道に入った。ある家の脇に小さな柏の木があった。木は小さかったが葉がたくさんついていた。今、私が住む所で柏の木を見ることはほとんどない。懐かしく思った。柏の葉の形は、独特である。私が生まれ育った長野県では、柏の葉を“かしゃっぱ”と呼んだ。もちろん方言である。この“かしゃっぱ”という方言は、茨城、千葉、新潟にもあるらしい。方言はいい。井沢八郎の「あゝ上野駅」が、自然に思い浮かぶ。

  “かしゃっぱ”と言えば、母方の祖母を思い出す。小太りだったが、足腰が丈夫だった。89歳でピンピンコロリを絵にかいたような亡くなり方だった。亡くなる前日、大好きな荒井医院の先生に高血圧の診察を受けに、2キロの道のりを歩いて往復していた。同居していた家族に「おやすみ」と言って寝室に入った。次の朝、起きてこなかった。大往生だった。私は、祖母をばあちゃんと呼んだ。ばあちゃんは、子供を9人産んで育てた。私の生母は、次女だった。次女の子である私が、4歳で母を亡くしたのを不憫がって、可愛がってくれた。だから私は、よくばあちゃんの家で過ごした。お陰でいろいろな事を経験できた。ばあちゃんは、味噌も醤油も自分で作った。邪魔だっただろうが、そばでばあちゃんの仕事するのを見ていた。ウドンを打つのも上手かった。内職というか、山に登って、“かしゃっぱ”を採るということもしていた。80歳を過ぎても小遣い稼ぎになるからと山に入った。採ってきた“かしゃっぱ”を10枚ずつに束にして、業者に売った。金額を正確には覚えていない。信じられないくらい安かったと思う。葉をキレイに揃えて、葉柄を藁で縛って束ねた。手を抜かない。芸術品のようだった。そんな完璧な仕事をするばあちゃんの手は、枯れかかった“かしゃっぱ”のようにゴワゴワだった。そのゴワゴワの手で、売れ残った“かしゃっぱ”を使ってかしわ餅を作ってくれた。餡は小豆でなく味噌餡だった。

  ばあちゃんのかしわ餅は、葉が絶品だった。何て言ったって、ばあちゃんが自分で山の中に入って、葉を摘んできたのだから。できるなら食べてしまいたいくらいだった。もちろん柏の葉は、食べられない。ここが桜餅と違う。もち米は、自分の家の田でとれたもの。味噌餡の味噌も自家製。

  先日、駅ビルの中の店でかしわ餅を見つけた。6個入りのパック。小さい。一口サイズだった。味噌餡はなかった。でもサイズは、糖尿病患者向きと解釈して購入。すべてに洗練されているが、“かしゃっぱ”がどこで採ったものかは、わからない。口に入れた。まずくはない。でもばあちゃんの“かしゃっぱ”で包んだ味噌餡のかしわ餅を口にした時のあの感動がない。

  ばあちゃんが今の私と同い年だった時、バリバリ働いていた。今の私は、74歳で、もうボロボロだ。でも医学の進歩のお陰で、ボロボロで詰まった血管をバルーンで拡張させて、ステントを埋め込んでもらっている。感謝なことだ。89歳は無理でも、もう少し生きていたいと願っている。


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