8月6日広島で原爆投下から74年の式典で広島市長が短歌を引用した。「おかっぱの 頭から流れる血しぶきに 妹抱きて母は阿修羅に」東京都に住む広島県出身の村山季美枝さん79歳の短歌である。村山さんは、原爆が投下された時、まだ5歳だった。村山さんは、テレビで当時の体験を赤裸々に語った。その鮮明な記憶に驚かされた。それは原爆が村山さんにとって如何に忘れることができないことであったかを物語っている。
5日の午後、姉夫婦が私を訪ねてくれた。義兄は退職後、畑を借りて野菜を栽培している。義兄の母親は109歳まで生きた。長寿の家系らしく、義兄も健康で78歳になった今でも農作業を続けている。いつも宅急便で野菜を送って来てくれるが今回はわざわざ訪ねてくれた。私の姉は私より4歳年上だ。私の家系の血筋をしっかり受け継いでいる。癌で手術を受け、糖尿病でもある。足腰が弱り、杖なしでは歩けない。畑仕事も以前は、手伝っていたが今は家からあまり出ることもない。
たくさんの野菜を届けてくれた。姉は糖尿病に効くからとオクラの食用花をどうしても直接私に食べ方を教えたくて来たという。他にもジャガイモ、カボチャ、トマト、ローリエの葉、ナス、タマネギと私たちだけでは食べきれない程だった。義兄は開口一番、「お互いに歳をとったね」と言った。確かに。姉も腰が曲がり、杖でトボトボとしか歩けない。義兄も健康そうだが、髪の毛、しわはやはり年相応になっている。全てを家の中に運び込んでくれた。
私は何か飲み物を用意しようとすると「ここに来る前に飲んできたから」と遠慮する。言葉通りにお構いしなかった。テーブルを囲んで話が弾んだ。子供の事、孫の事。私は以前から姉に直接尋ねたかったことがある。それは私が生まれた日の私の両親の様子、姉の感想、生まれた間借りしていた親戚の家族の事、その家の環境などなど。思い切って姉に尋ねた。
姉の答え。「全く覚えていない」「ゴメン。何も覚えていない」 姉は私が生まれた時、4歳だった。私たちの母親が亡くなった時、姉は8歳で私が4歳だった。無理もない。私だって4歳の時の記憶は、母が死んだ時のことを断片的に覚えているが、その時の姉の様子も家の中の様子も記憶がない。小学校や中学校でのことだって覚えていることはそれほどない。
村山季美枝さんの短歌「おかっぱの 頭から流れる血しぶきに 妹抱きて母は阿修羅に」を私は情景を字面でしか追えない。5歳の時の体験をこれほど鮮明に短歌にするということは、村山さんの悲惨な体験がどれほどのものであったかの証であろう。胸を打たれる。同時に私の姉が私の誕生を覚えていないということは、ある意味幸せであったからに違いない。悲しみや苦しみや憎しみは、忘却するのが難しい。平々凡々な生活でたいして記憶にも残らない日常こそ平和な時間であったと思いたい。長い間、姉に尋ねようと思っていたことは、答えを得られなかった。
戦争が如何に残酷で愚かなことかを、いまだに人間は学んでいない。地球は人間による環境汚染による破壊が進む。北極の氷が融け、あらゆる地球のバランスが崩れてきている。異常気象は年々悪化する一方である。
それでも人間世界では、アメリカファースト、英国はEUを合意がなくても離脱する、香港のデモ、日本を抜いたと言い日本製品の不買運動を展開する国、ホルムズ湾ではイランが他国のタンカーを拿捕とか、協調とは程遠い現状である。宗教、人種、国家、これらすべては強欲に覇権を追及する。犠牲になるのは常に民衆である。
姉も私も「まったく覚えていない」ある時期を共有した。貧しく平凡な過去ではあるが、村山さんのような経験をされた方々を思えば、感謝にたえない。
姉がどうしても私に食べさせたかったオクラの花は、オヒタシにして食べた。ヌルリ、トロリが何だか私の糖尿病に効きそうな予感がした。