以前佐藤栄作内閣で防衛庁長官だった西村直己さんは「国連は田舎の信用組合だ」と言って辞任に追い込まれた。国連に参加することは、田舎の信用組合と同じで加入するのに経費は大して要らず、なればなったで私利私欲に振り回され、ムラ意識丸出しになると言いたかったらしい。私は国連の現行のあり方に疑問や不信を持つが、国連が必要であることは認める。
野田首相が民主党代表選で圧倒的な支持を得て再選された。その後すぐ24日に国連総会出席のため訪米した。日本時間26日未明、野田首相が国連で演説した。緊張したおももちで英語でなく日本語で演説した。時々原稿に目を落としながら、最後まで微笑むこともなかった。演説の良し悪しは、論旨の明晰さ、声、調子、ユーモア、表情といわれている。さすが駅前で辻説法を何十年も続けてきた野田さんだ。足早に通り過ぎる人々は、立ち止まって野田さんの話を聞く気がないことを、話している本人が一番知っていた。聴き手の反応に対して気にしている様子もなく、耽々と原稿を読み進めた。いまだに日本の最高権威である首相が、国際人でないことは残念なことである。しかし私はそれ以前に国連がまるで日本の多くの大学の大講義室化しているほうが気になる。
日本の医学会は専門医としての資格維持のために学会出席を義務付ける。学会出席にシールを交付して、年間何枚と決められたシール数を達成すれば、資格は自動延長される。もちろん熱心に研究発表の会場で勉強する医師もいる。しかしその数は少ないと聞いている。形骸化はあらゆる組織に世界中で蔓延する。
国連が世界の仲良しクラブの連帯の場であることは疑いがない。民主主義は、多数決である。矛盾もあるが、それでも首の皮一枚で、最後の抑止力であることは間違いない。国連の中に各種のつながりつまり派閥が存在する。人種、宗教、政治思想、宗主国と植民地などの切っても切れないしがらみが票に結びつく。正義はそこにない。あるのは義理と人情だ。
前回野田首相と時を同じくして、パレスチナのアッバス議長が国連に加盟国としての参加を認めるよう国連総会に出席して、加盟の採決を求めて演説した。このアッバス議長の演説に議場はほとんど満席となった。単純にアッパス議長と野田首相を出席度合いで比較することは、無意味かもしれない。しかしあの年の日本は未曾有の大地震とツナミと原子力発電所事故で世界から注目された。そして多くの国々から支援と同情を得た。その国の首相が国連で演説したのだ。あれだけの被害を受けた国の総責任者が国連議場で、世界に向かってお礼を述べる絶好の機会だった。にも関わらず、議場に姿を現した各国代表はほとんどいなかった。これが現実である。いままでの海外での日本のODAなどの援助は、役に立っていないようだ。日本には宗教、イデオロギー、宗主国と植民地などの強い結びつきがない。国連では孤高な前科者の扱いである。日本の国会も腐っているが、国連とてやはりその理想的な活動とはほど遠い。その国連に対して、日本は最大の拠出金出資国である。存在感が示されていない。むなしい。
今日本はロシア、韓国、中国との領土紛争に直面している。国連での日本は、第二次世界大戦が始まる直前の孤立無援状態のようだ。その様は、日本の小中学校の学級崩壊の中にポツンとたたずむイジメられっ子である。昨日の自民党の総裁選では安倍元首相が総裁に返り咲いた。世界の目を日本に向かせ国難を乗り切るには、日本の首相は関取か女性になってもらうのも次の手かもしれない。旧態依然を断ち切り、変化進展が見られる日が来るのか。英語を話せず演説の内容も仕方も洗練されていないなら、見た目や民族衣装で“信用組合”並みの総会で真摯に組合員いや他国の気を引くしかないのなら、あまりにも哀しい。