団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

海外からの観光客

2019年04月02日 | Weblog

  先日東京駅でのことだった。私は東海道本線の電車をホームで待っていた。私の前に二人の外国人女性がいた。歳の頃私と近い年齢らしかった。私はその女性たちの後ろに並んだ。構内放送で品川行きの特急が入ってくるが、この電車に乗るには特急券がいるので注意してというものだった。電車が入って来て停車した。前の女性たちが乗り込もうとした。余計なことだと思ったが、一応声をかけた。普段、私は英語を話すことはまずない。日本語さえおぼつかなくなってきている。でもとっさに英語が出た。「どこへ行かれるのですか。この電車は品川行きです」 答えは「横浜」。ならばこの次の小田原行きだ。会話がここから始まった。山下公園の桜を見に行くという。行き方を聞かれた。話をしていてこの二人は日本が初めだという。私の知る限り山下公園に桜があったかは定かではなかった。しかし彼女たちがそう言っているのだから山下公園への行き方を教えてあげるべきと思った。私と女性たちが乗るべき電車が来た。3人で乗り込み一緒に座った。彼女たちはJRのレイルパスという外国人観光客だけが買える割引切符を持っていた。山下公園へ行くには、横浜駅で東急に乗り換えて行った方がわかりやすい。でも彼女たちは、JRのレイルパスにこだわっていた。ならば根岸線で石川町まで行って中華街を横切って山下公園はどうかと尋ねた。20分から30分歩くとも説明した。彼女たちは歩くのが好きなのでそうしたいと答えた。私のメモ帳の1ページを破って、行き方をローマ字で書いてあげた。横浜駅に到着した。彼女たちの一人が私に「あなたはどこで英語を習ったのですか?」と尋ねた。「カナダ」 「カナダのどこ?」「アルバータ」「アルバータのどこ?私たちはカルガリーから来たのよ」 他の乗客たちに押し出されるように彼女たちはホームへ出た。私はカルガリーのすぐ近くの小さな町にいた。でも会話は終わった。電車のドアが閉まり、動き出した。二人は私に手を振ってくれた。私も動きを抑えて手を上げて答えた。寄りにもよってカナダのそれもカルガリーの人たちと東京で出会うとは。何か少しカナダの人に恩返ししたような気持になった。

 小田原駅で途中下車して駅の中のスーパーで買い物をした。3階から2階へ降りようとエスカレーターに向かった。エスカレーターの乗り口に5,6歳の外国人の子供が泣いて下に向かって金切り声を上げていた。エスカレーターの下の降り口のそばに、両親と子供が2人。どうやら他の家族が先にエスカレーターで降りてしまい、彼だけが上に残されたらしい。恐くてエスカレーターに足を踏み出せないでいたのだ。英語が通じるかどうかわからなかったが、聞いた。微笑みを添えた。そして下の彼の家族を指さした。老生が考え付くことをすべてやったと思う。「私が一緒に降りて君をあそこにいる両親に届けるけれど、いいかい」 彼はしゃくりながら「はい、おねがい」と言った。私は彼を抱き上げた。ミルクのニオイがした。彼は私にありったけの力でしがみついてきた。抱いたままエスカレーターを下った。たった数十秒のことだった。私は離婚して二人の幼子を男手ひとつで育てていた頃、彼らに言葉で私の気持ちを伝えることができず、よく二人を抱きしめた感覚がよみがえった。私にはそれしかできなかった。頼られる、信頼される、守ってあげられるという親の責任だけを果たそうとした。母親が腕を拡げて私に近づいた。彼も「マミー」と言って今度は安堵と嬉し泣きで母親の腕に乗り移った。父親が他の子供の手を引きながら、嬉しそうに「サンキュー ソゥ マッチ」と私に言った。

 もし英語が通じなかったら、東京駅のあのカナダ人女性が品川行きの特急に乗り込むのをやめさせることができただろうか。小田原の駅ビルのエスカレーターで、あの子は私に抱かれることを受け入れられただろうか。多くの観光客が日本にやって来る。今回のような出来事は毎日起こっているに違いない。中国人だったら、マレーシア人だったら、英語をまったく分からなかったら。来年はオリンピック、パラリンピックが東京で開催される。さらに多くの海外から旅行者が増える。私のような年配者さえ今回のような小さなお手伝いができた。これからも、まわりに目配りして、できる範囲で外国人であろうが日本人であろうがお手伝いできたら幸いである。私が海外で受けた親切の恩返しである。

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