団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

オバマ大統領と広島の原爆

2016年05月12日 | Weblog

  高校2年生の時、カナダへの留学が決まって軽井沢のアメリカ人キリスト教宣教師のもとで準備を進めた。そこで多くのアメリカ人宣教師に出会った。私から切り出したわけではないが、広島・長崎の原爆の話題が多かった。宣教師の誰ひとりとして原爆をアメリカが日本の広島・長崎に落としたことをキリスト教の“汝、殺すなかれ”と結びつける人はいなかった。皆、まるでそれが神の意志であったかのように肯定した。

 カナダの高校に移り社会の授業でも広島・長崎への原爆投下について学んだ。私が学んだ学校の生徒が知っている日本語はアッソウ、フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ、ヒロシマぐらいであった。カナダの社会科の教科書にさえ原爆投下は暴走する日本を止める手段であったと正当化していた。核保有国を宣言した現在の北朝鮮への態度に似ていた。ディベートのクラスでは、原爆投下の肯定派と否定派に分かれて討論したが、否定派になると皆、口を閉ざしてディベートにならなかった。私一人が興奮して否定を主張して、クラスの中で浮いていた。

  そのキリスト教の全寮制の私立学校にはアメリカ人学生がベトナム戦争への徴兵を逃れて来ていた。その数は全生徒の半分以上だった。カナダなのにアメリカにいる感じであった。

  キリスト教に憧れ、答えがない生への不可解さ不条理さに囚われていた私はキリスト教に助けを求めた。しかしそこに救いはなかった。広島・長崎への原爆投下はキリスト教信者と公言する人々でさえ、あれしか方法はなかったと言う。

  日本に帰国して家庭を持ち、子どもを二人授かった。その結婚は破たんした。二人の子どもを男手一つで育てた。二人の子どもが大学に入学した後、縁あって再婚した。妻の海外勤務について日本を離れた。ネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシアと12年間海外で暮らした。

  ネパールで教えていた日本人補習校の生徒が通うインド系の私立学校の教師に「日本なんて原爆で全滅させられればよかった」と言われたと悲しそうに訴えた。セネガルでは原爆について話し合うこともなかった。旧ユーゴスラビアでは多くの人々から「日本はアメリカによくあれだけ勇敢に抵抗した。原爆を使ったアメリカは許せない」と初めて外国人の口から原爆投下否定の意見を聞いた。チュニジアでは日本人としてよりシノワ(中国人)としてしか扱われなかったので原爆のことを話したことはない。ロシアのサハリンでも原爆の話はなかった。

  今、日本では会社や組織が不祥事を起こすとお偉方が報道陣の前で深々と頭を下げて「申し訳ございませんでした」と謝る。それは儀式化していて誰もが当事者が真に謝っているとは受け止めていない。今回のオバマアメリカ大統領の被爆地広島訪問でも報道では「謝罪する」「謝罪はしない」が問題視されている。先の大戦に関して、中国と韓国も日本に対して“謝罪”を求め続ける。儒教の影響なのか謝罪に拘る。キリスト教徒やイスラム教徒は神に対しては謝罪をするが人にはしないと言われている。欧米社会では交通事故などで日本人のように即「ゴメンナサイ」と言ってしまえば、全責任をとることになる。文化風習は異なる。私はオバマ大統領の広島訪問が任期終了前の駆け込み政策であったとしても高く評価できる。謝っても謝らなくても。オバマ大統領が原爆投下を命令したわけではない。初の黒人大統領だからこそできることだ。歴史が変わる大きな一歩であることを願う。

 バーナード・メルツァー「許すことで過去を変えることはできない。しかし間違いなく、未来を変えることができる」 

 ガンジー「弱い者ほど相手を許すことができない。許すと言うことは、強さの証だ」 

 

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 舛添都知事と一般男性という分類 | トップ | 昭和回帰ブームと伊豆急レト... »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事