団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

ソニーのラジオ

2012年11月14日 | Weblog

  テレビを観ていると私の精神に悪影響を及ぼす。自分で自分が嫌になるほどテレビに向かって悪態をついてしまう。だからラジオを聞くことが多い。ソニーのラジオICZ-R50を使っている。よくできたラジオだと思う。いまどきラジオは売れない家電の主なる製品に違いない。どこの家電店でもラジオ売り場はないか、あっても数台並べているだけだ。唯一昔のようにラジオがたくさん並んでいたのは、東京巣鴨の商店街にあった家電店だった。

  私のラジオが凄いところは録音機能だ。時間を指定すると自動録音しておいてくれる。中学生の時、NHKの松本享の英会話を聞いていた。ラジオの前に教本を持って座って放送が始まるのをじっと待っていた。番組を聴き逃すまいと待ったことは、それはそれで子どもの私には楽しみであった。大相撲ラジオ中継で栃錦と若乃花などの好一番は、制限時間いっぱいになるまで仕切りが繰り返され待たされた。力士と同じように聴いている私も徐々に興奮が高められたものだ。いまかいまかと待つ心境は、何か大切なことを私に教えてくれた気がする。

  録音したお気に入りの番組からメモを起こすのも楽しみだ。今のラジオで喋る人々の発音は、聴き取りにくい。特に年齢が若ければ若いほど、聴き取れない言葉が多くなる。私のソニーのラジオは再生音の速度を早くしたり遅くしたりできる。それだけではない。加えて聞き逃したり、聴き取れなかったら大きめの『戻る』のボタンをポンと押すと3秒戻せる。これが実に便利なのだ。まるでアナウンサーやラジオ出演者の多くの発声・発音が悪いことを見越してつけてくれたのではと思わせる。本当は私のような耳や集中力が衰えつつある老人ためなのだろうが、私は認めない。何回も『戻る』のボタンを押して、メモを取る。好きな時間にこうしてコツコツ書き留めたメモはすでに大学ノート3冊になった。ソニーのラジオを設計し生産してくれた技術者、工員のお陰と感謝している。

 ラジオは世界でもすでに売れる商品ではない。私が暮らしたネパール、セネガル、セルビア、チュニジア、ロシアのサハリンでラジオは決して人々の生活の中で重要な地位にはなかった。人々が欲しがっていたのはテレビや携帯電話などの先端技術商品であった。ラジオは自動車を持っている人だけが車内で聴くもののようだった。住んだ多くの国のテレビ放送の時間は一日数時間から長くて6時間という限られたものだった。

 テレビに情報収集の期待できなかったので、私は海外放送を受信しやすいソニーのラジオICF-SW55を持って歩いた。日本のニュースを日本時間で知りうる一番の方法だった。阪神大地震を知ったのも9.11のテロを知ったのもNHKの国際ラジオ放送であった。私の海外生活になくてはならないパートナーだった。帰国してもラジオを手放せなかった。いつしかソニー製品を選んで買うほどソニーびいきになっていた。応援するつもりで1株3万円くらいの時買ったソニーの株は今、800円台である。それでもソニーの復活を願っている。ソニーで働いている親戚がいるのも一因かもしれない。それ以上に海外の不便な寂しい生活を支え、私と遠い祖国日本を結び続けてくれた優秀なラジオに恩がある。今のラジオにもぞっこん惚れこんでいる。

 家でラジオが聴けるのは、北側の窓の近くだけである。南側でラジオは電波を受信できなくなる。書斎は南側にあり、ラジオは北側の寝室と居間でしか聴くことができない。電話でさえ無線で親子電話になる。パソコンは、マウスと本体はワイアレスになっている。ならばラジオも電波を受信できるところに本体を置いて、子機でトイレ、風呂家のどこでもラジオが聴けるようにできないものか。売れない、利益につながらない商品に今のソニーは関心も熱意も示さない。そんなことの積み重ねがソニーの不振になっているに違いない。顧客は顧客の置かれた環境状況で買う物を決める。本社の首脳経営陣の顔色ばかり覗っていないで、そろそろ製品を買って使う者の方を見てもらいたい。最近のソニーのテレビCMは実にくだらん。私はソニーの復活は、まずテレビCMに現れるとみている。その変化の兆しを今日も待ち望んでいる。


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