先週の日曜日2週間前からやろうと思いつつ、天気や雑用のため先延ばししてきた洗車を実行できた。洗ったといっても、自分で洗ったわけではない。妻とガソリンスタンドへ行って自動洗車しただけだ。いつもガソリンスタンドの若者2人に洗車後の拭き取りも頼んでいたが、天気がよく空の抜けるような青さに押され、妻と二人でやることにした。いくら機械が優秀であっても、人間の手にはかなわない。機械では洗えない個所がある。立ったり腰をかがめたりして隅々までブラシで洗い、拭き、磨いた。二人で約一時間かけて、愛車を久々にピカピカにした。体のふしぶしが痛くなったが、それでも気分は良かった。
自動洗車装置はいまでこそ多くの日本のガソリンスタンドに当たり前のように併設されている。日本のどこの小中学校にも水泳プールが設置されているように、気候、立地に関係なく全国均一に普及したようである。私が20数年前まで暮らした長野県の地方都市にもずいぶん前に自動洗車場ができた。全長十数メートルのトンネルのような装置に客は、自分の自動車に乗ったまま、ベルトコンベアの台が自動前進して洗車できるという大規模なものだった。私の子どもも私自身も車の中に乗ったまま遊園地の遊具のような冒険を楽しんだ。昔、人間が小さくなって潜水艦のようなマイクロカプセルに乗って人体の中に入っていく冒険映画を見た。洞穴、地下、海底、宇宙冒険は、神秘に満ちている。大きなブラシで両横、屋根、窓ガラス、タイヤ、タイヤホイールをグルングルンと回り洗う。騒音と共に洗剤や水が拭きつける。ブラシが、洗剤が、濯ぎの水が、水きりの圧縮空気が、拭き取りのセーム皮がバシバシ当たる。見通せるガラス一枚でそれらの接近から身を守られている。大人だろうと子どもだろうと男だろうと女だろうとハラハラドキドキする。興味を引くがゆえに悲劇も起こる。長野県の私の家の近くにあった洗車場で子どもが機械に手を挟まれて一部を失った事故があった。“見たい”という誘惑は思わぬ事故につながる。好奇心の固まりと言われ、何でも見てみたい私への大きな教訓になっている。
洗車は外国に出てみると国によって事情が変わって、興味深い観察対照となる。国際的に洗車事情を研究した学者がいたらぜひその論文を読んで見たいものだ。10代後半から20代前半まで過したカナダのアルバータ州では自動洗車装置を見たことがなかった。水はあったが冬の寒さが長く厳しすぎた。アフリカの砂漠の国で自動車は汚れ放題である。雨はほとんど降らない。水道を凍らせる寒さがなくても肝心の水がない。ネパールのカトマンズの水道は、一日に2時間しか給水されなかった。サハリンではいまだ路肩で川や池の水でわずかな料金で車を洗う仕事しかできない人がいた。私は海外で暮らしながら、洗車で文化を比較考察することができた。
最近、日本の車をはじめ、人々の服装も、町並みも汚いと感じるのは私だけだろうか。不景気が原因なのかもしれない。手入れがされていない汚いモノに囲まれると心まで荒ぶ。モノを大切にするのは、日本人の特質であり美点である。日本は政治、経済、国際関係の難しい問題を抱えている。私は、素人の凡人で何もできないもどかしさを身の回りのモノの手入れで紛らわせる。貧しくても美しかった国、乏しくてもモノを大事にした国の輝きが戻れと祈りながら。