まさか、わたしが映画『愛と誠』について何かを書こうとは。
原作は1973年3・4合併号(ということは、発売は1972年の年末か)から1976年39号まで週刊少年マガジンに連載された、当時は「劇画」に分類されていた漫画。原作は『巨人の星』等で知られる梶原一騎、作画はながやす巧だ。1961年生まれのわたしの中学時代、わたしの周り漫画を読む者は、男女ともほぼ全員が愛と誠を読んでいた。
原作のストーリーについては高本茂氏による『愛と誠』の<愛>の形のあらすじと解説があまりにも素晴らしいのでそちらを読んでいただくことにするが、当時女子にも人気があった理由は、この作品には暴力シーンは多いものの、基本的には早乙女愛と太賀誠の身分違いの二人の純愛を扱っていることに加えて、性暴力に至るシーンなかったことにもあると思う。
原作では、後半になるにつれ暴力シーンが増え、やくざや暴力団や政界の黒幕が絡み始め、ロッキード事件の国会での証人喚問をベースにしたであろう愛の父の国会証人喚問シーンが出るなど、当時の女子中高生の興味の対象から外れるシーンが多くなった。だから、わたしの同世代の女友達たちで、この漫画を最後まできちんと人は意外に少ない。わたしも途中からいったん連載を読まなくなり、最終回近くまた読み始めたクチだ。全てを読んだのは連載終了後の単行本でである。
さて、映画版についてだ。
映画『愛と誠』(2012)は上記の原作の漫画をベースにした換骨奪胎ミュージカル仕立ての映画である。基本的なストーリーの流れは踏襲しているが、時間内に収めるために枝葉を刈りこみ、刈り込んだための矛盾が生じたところは、つじつま合わせるために変更が加えられている。
三池崇史監督は1960年生まれで、私と同世代。なので、1970年代前半がどのようなものだったかは、かなり記憶しているはずだ。それなのに時代設定である「1972年を再現した」というよりも、「1972年風味に味付けした今」感が強くでるのは、故意の演出だろうか?
例えば、登場人物たちのメーク(眉、唇)は、今風である。とくに映画内の女優陣のメークは、おそらく今から数年後に「数年前のメーク」として時代遅れになるだろう。
女子の生徒の靴下の色は、おそらく当時であれば白だったろう。それも三つ折りのソックスが主流だったはずだ。突如クルーソックス(当時は「アイビーソックス」と呼ばれていた)が大流行したため、液体靴下止め「ソックタッチ」が発売されたのは、まさに『愛と誠』の時代設定である1972年のことだった。当時、多くの中学・高校では、アイビーソックスの禁止か許可かが検討された。許可の学校の中にも「ソックタッチは化粧品に相当するので使用禁止」のところがあった。そのようなわけで、足元でも違和感。
また、JR、もとい、国電山手線の駅と電車が映るシーンでは、「ウグイス」と呼ばれた当時の103系の全面黄緑の電車ではなく、シルバーに黄緑のラインの新しいものが走っている。駅名票も今使用されているデザインのものが写りこんでいる。電車の車体は仕方ないかもしれないが、駅名票はちょいといじってほしかったと思うのだが、わざと残したのかもしれない。
最も今を意識させるのは、ラスト近くで誠を刺す人物とその動機だ。ストーリーを絞って登場人物を刈りこんだ結果、原作のラスト直前で誠を刺す砂土谷峻は登場しなくなってしまった。代わりにこの大役を果たすのが、青葉台の教師。その理由は「エリート高校の教師の、生徒に対する逆恨み」という、むしろ現代にありそうな動機である。
削られずに登場するキャラクター設定にも、変更があった。
まず、主な登場人物の年齢が引き上げられて、主要な登場人物全員が高校3年になっている。原作では、愛と誠が偶然再会するのは、愛と岩清水弘が中学3年、誠が高校1年という設定だった。これには出演者に合わせたという大人の事情があったかと思われる。
が、考えてみよう。シェイクスピアは、反目しあう両家の成人同士の悲恋話を下敷きに、『ロミオとジュリエット』の脚本を書いた。その際、大人たちの愛とは異なる「純粋な愛」を表現させるために、ジュリエットを13歳、ロミオを17歳に設定した
思春期における2~3歳の違いは大きい。中学3年が純粋であるとは思わないが、それでも、まだ中学生だからこそ、秀才岩清水弘は思い悩んだ末「君のためなら死ねる」と書いたラブレターを愛に送ってしまったのだし、愛の世間知らずの突っ走った行動も、ぎりぎり許容範囲と容認できるかもしれない。年齢を上げたために、主要人物2名のただの勘違い女ぶりとストーカーの側面が、強調される映画になってしまった感がある。
個々のキャラクター設定の変更では、3名ほどあげておこう。
まず、蔵王権太。縦にも横にも巨大な怪力でかなりの精神遅滞という原作の設定の権太を、アニメならともかく生身の人間が演じることは不可能だ。そこで、「おっさんにしかみえへん病」の高校3年生に設定に変更されアラフィフの伊原剛志が演じた。「精神遅滞」という設定は外されたが、現在ではこの点の変更は仕方がないだろう。
次は、「影の大番長」高原由紀さん。原作では非常に美しく、頭が良くて冷静で、冷酷で誇り高い女性であった。なので、原作を語るときに、わたしは必ず「フルネーム+さん」付で彼女を呼んでしまう。
彼女のキャラは、脚本と演出がもともとそうであったのか、それとも高原由紀さんを演じる大野いとに合わせて変えられたのかは知らない。とにかく、「圭子の夢は夜開く」(宇多田さんのお母様のヒット曲ね)がふさわしい「悲しい女」に変更されている。正直言って、個人的にはこれにはがっかり。高原由紀さんはあくまで誇り高くなくては。
一方で、高原由紀さんがツルゲーネフの『初恋』のハードカバーの本の中をくりぬいて投げナイフを仕込んでいるのは、原作通りだ。『初恋』は短編で、あれだけでは分厚い本にならない。ゆえに本のタイトルは、「世界文学全集 ○巻 ツルゲーネフ『初恋』他」あたりにしておかないと、わかる奴には仕込み本であることが一目瞭然でばれてしまう…とは、原作の連載当時からわたしがずっと思っていたことだ。
キャラ設定変更の出色は、ガム子。誠によって校舎の窓から逆さづりにされるという散々な目にあいつつも、いつの間にか誠に惚れてしまうという、基本的な設定は変わっていない。が、が果たす役目は大きくなっている。
恋するガム子のために、かなりのシーンが用意されている。演じる安藤さくらは「恋などしていない」とことさらにいきがるスケバングループの中堅幹部である、恋する乙女をうまく演じている。たとえば、入院した誠のために、ガム子が大きなひまわりを1本もってルンルンと病院を訪れる乙女なシーン。そのときのひまわりの持ち方が、竹刀を持つスケバンの姿になってしまうところが、微笑ましい。
このガム子が、エンディング近くで「普通の女の子に戻る」と宣言して故尾崎紀世彦の「またあう日まで」を歌うのだが、なんだか、この歌い方が妙に懐かしいぞ。よく考えてみると、これが70年前半にアイドルとして高い人気を誇ったアグネス・チャンの歌い方を彷彿とさせる。偶然か、それとも狙った演出なのか? いずれにしろ、ガム子を演じた安藤サクラは素晴らしい。
この作品をミュージカルとしてみると不満がある。全体としてダンスにキレはない。70年代の雰囲気を出すために当時の流行歌を選んでいるが、それを歌うキャストの上手さは玉石混交。本格的なミュージカル発声で高音を出す市村正親が、妙に浮いている。
面白いか?と聞かれれば、観る人を選ぶとしか答えられない。はまる人ははまるだろう。毛嫌いする人も多いだろう。わたしのように「これもあり」と考える人もいるだろう。
ところで、映画版の誠も、やはり最後は死ぬことになるのか? わたしは死ぬと思ってみていたのだが、最後の場所が病院内だけに、もしかしたら最終的には命が助かったってこともあるのかも。
追記:「メガネは顔の一部なんだぞ!」というセリフでかなりの笑いが出たところを見ると、結構年配者も観にいっているのか。あれは「メガネは顔の一部です。だから東京メガネ」という古いCMソングを踏まえたセリフである。
原作は1973年3・4合併号(ということは、発売は1972年の年末か)から1976年39号まで週刊少年マガジンに連載された、当時は「劇画」に分類されていた漫画。原作は『巨人の星』等で知られる梶原一騎、作画はながやす巧だ。1961年生まれのわたしの中学時代、わたしの周り漫画を読む者は、男女ともほぼ全員が愛と誠を読んでいた。
原作のストーリーについては高本茂氏による『愛と誠』の<愛>の形のあらすじと解説があまりにも素晴らしいのでそちらを読んでいただくことにするが、当時女子にも人気があった理由は、この作品には暴力シーンは多いものの、基本的には早乙女愛と太賀誠の身分違いの二人の純愛を扱っていることに加えて、性暴力に至るシーンなかったことにもあると思う。
原作では、後半になるにつれ暴力シーンが増え、やくざや暴力団や政界の黒幕が絡み始め、ロッキード事件の国会での証人喚問をベースにしたであろう愛の父の国会証人喚問シーンが出るなど、当時の女子中高生の興味の対象から外れるシーンが多くなった。だから、わたしの同世代の女友達たちで、この漫画を最後まできちんと人は意外に少ない。わたしも途中からいったん連載を読まなくなり、最終回近くまた読み始めたクチだ。全てを読んだのは連載終了後の単行本でである。
さて、映画版についてだ。
映画『愛と誠』(2012)は上記の原作の漫画をベースにした換骨奪胎ミュージカル仕立ての映画である。基本的なストーリーの流れは踏襲しているが、時間内に収めるために枝葉を刈りこみ、刈り込んだための矛盾が生じたところは、つじつま合わせるために変更が加えられている。
三池崇史監督は1960年生まれで、私と同世代。なので、1970年代前半がどのようなものだったかは、かなり記憶しているはずだ。それなのに時代設定である「1972年を再現した」というよりも、「1972年風味に味付けした今」感が強くでるのは、故意の演出だろうか?
例えば、登場人物たちのメーク(眉、唇)は、今風である。とくに映画内の女優陣のメークは、おそらく今から数年後に「数年前のメーク」として時代遅れになるだろう。
女子の生徒の靴下の色は、おそらく当時であれば白だったろう。それも三つ折りのソックスが主流だったはずだ。突如クルーソックス(当時は「アイビーソックス」と呼ばれていた)が大流行したため、液体靴下止め「ソックタッチ」が発売されたのは、まさに『愛と誠』の時代設定である1972年のことだった。当時、多くの中学・高校では、アイビーソックスの禁止か許可かが検討された。許可の学校の中にも「ソックタッチは化粧品に相当するので使用禁止」のところがあった。そのようなわけで、足元でも違和感。
また、JR、もとい、国電山手線の駅と電車が映るシーンでは、「ウグイス」と呼ばれた当時の103系の全面黄緑の電車ではなく、シルバーに黄緑のラインの新しいものが走っている。駅名票も今使用されているデザインのものが写りこんでいる。電車の車体は仕方ないかもしれないが、駅名票はちょいといじってほしかったと思うのだが、わざと残したのかもしれない。
最も今を意識させるのは、ラスト近くで誠を刺す人物とその動機だ。ストーリーを絞って登場人物を刈りこんだ結果、原作のラスト直前で誠を刺す砂土谷峻は登場しなくなってしまった。代わりにこの大役を果たすのが、青葉台の教師。その理由は「エリート高校の教師の、生徒に対する逆恨み」という、むしろ現代にありそうな動機である。
削られずに登場するキャラクター設定にも、変更があった。
まず、主な登場人物の年齢が引き上げられて、主要な登場人物全員が高校3年になっている。原作では、愛と誠が偶然再会するのは、愛と岩清水弘が中学3年、誠が高校1年という設定だった。これには出演者に合わせたという大人の事情があったかと思われる。
が、考えてみよう。シェイクスピアは、反目しあう両家の成人同士の悲恋話を下敷きに、『ロミオとジュリエット』の脚本を書いた。その際、大人たちの愛とは異なる「純粋な愛」を表現させるために、ジュリエットを13歳、ロミオを17歳に設定した
思春期における2~3歳の違いは大きい。中学3年が純粋であるとは思わないが、それでも、まだ中学生だからこそ、秀才岩清水弘は思い悩んだ末「君のためなら死ねる」と書いたラブレターを愛に送ってしまったのだし、愛の世間知らずの突っ走った行動も、ぎりぎり許容範囲と容認できるかもしれない。年齢を上げたために、主要人物2名のただの勘違い女ぶりとストーカーの側面が、強調される映画になってしまった感がある。
個々のキャラクター設定の変更では、3名ほどあげておこう。
まず、蔵王権太。縦にも横にも巨大な怪力でかなりの精神遅滞という原作の設定の権太を、アニメならともかく生身の人間が演じることは不可能だ。そこで、「おっさんにしかみえへん病」の高校3年生に設定に変更されアラフィフの伊原剛志が演じた。「精神遅滞」という設定は外されたが、現在ではこの点の変更は仕方がないだろう。
次は、「影の大番長」高原由紀さん。原作では非常に美しく、頭が良くて冷静で、冷酷で誇り高い女性であった。なので、原作を語るときに、わたしは必ず「フルネーム+さん」付で彼女を呼んでしまう。
彼女のキャラは、脚本と演出がもともとそうであったのか、それとも高原由紀さんを演じる大野いとに合わせて変えられたのかは知らない。とにかく、「圭子の夢は夜開く」(宇多田さんのお母様のヒット曲ね)がふさわしい「悲しい女」に変更されている。正直言って、個人的にはこれにはがっかり。高原由紀さんはあくまで誇り高くなくては。
一方で、高原由紀さんがツルゲーネフの『初恋』のハードカバーの本の中をくりぬいて投げナイフを仕込んでいるのは、原作通りだ。『初恋』は短編で、あれだけでは分厚い本にならない。ゆえに本のタイトルは、「世界文学全集 ○巻 ツルゲーネフ『初恋』他」あたりにしておかないと、わかる奴には仕込み本であることが一目瞭然でばれてしまう…とは、原作の連載当時からわたしがずっと思っていたことだ。
キャラ設定変更の出色は、ガム子。誠によって校舎の窓から逆さづりにされるという散々な目にあいつつも、いつの間にか誠に惚れてしまうという、基本的な設定は変わっていない。が、が果たす役目は大きくなっている。
恋するガム子のために、かなりのシーンが用意されている。演じる安藤さくらは「恋などしていない」とことさらにいきがるスケバングループの中堅幹部である、恋する乙女をうまく演じている。たとえば、入院した誠のために、ガム子が大きなひまわりを1本もってルンルンと病院を訪れる乙女なシーン。そのときのひまわりの持ち方が、竹刀を持つスケバンの姿になってしまうところが、微笑ましい。
このガム子が、エンディング近くで「普通の女の子に戻る」と宣言して故尾崎紀世彦の「またあう日まで」を歌うのだが、なんだか、この歌い方が妙に懐かしいぞ。よく考えてみると、これが70年前半にアイドルとして高い人気を誇ったアグネス・チャンの歌い方を彷彿とさせる。偶然か、それとも狙った演出なのか? いずれにしろ、ガム子を演じた安藤サクラは素晴らしい。
この作品をミュージカルとしてみると不満がある。全体としてダンスにキレはない。70年代の雰囲気を出すために当時の流行歌を選んでいるが、それを歌うキャストの上手さは玉石混交。本格的なミュージカル発声で高音を出す市村正親が、妙に浮いている。
面白いか?と聞かれれば、観る人を選ぶとしか答えられない。はまる人ははまるだろう。毛嫌いする人も多いだろう。わたしのように「これもあり」と考える人もいるだろう。
ところで、映画版の誠も、やはり最後は死ぬことになるのか? わたしは死ぬと思ってみていたのだが、最後の場所が病院内だけに、もしかしたら最終的には命が助かったってこともあるのかも。
追記:「メガネは顔の一部なんだぞ!」というセリフでかなりの笑いが出たところを見ると、結構年配者も観にいっているのか。あれは「メガネは顔の一部です。だから東京メガネ」という古いCMソングを踏まえたセリフである。