以前、わたしは
「異文化コミュニケーションという研究分野」という記事のなかで、異文化コミュニケーションを、研究分野として「お勧め」だと、書いたことがある。がその一方で、異文化コミュニケーションの研究が、実際の状況でどれだけ役に立っているのかについては、疑問を感じることが多い。
すべての研究というものは??ものすごく、クサい表現だが??少なくともすべての人々 [注] が幸福になるために行なわれるものであると、個人的には思っている。
(ああ、書いちゃったよ。クサーッ!)
すべての分野におけるすべての研究において、一見まとはずれな仮説を立てるのも、「ええ? こんなもんが、研究対象になるの?」というようなものを研究のテーマにするのも、すべてみんなの幸せのためなのだと思う。その結果が認められて富や名声が得られれば万々歳なのかもしれない。が、そういうものは結果としてついてくるものであり、研究の第一目的はあくまで「みんなの幸せのため」だと思っている。
(「そんなでかいことを言う前に、先ずは家族の生活費だろっ!」と、家族から一喝されそうな気がするが…)
さて、わたしの研究分野である異文化コミュニケーション(現在はコンピューターを媒介した異文化コミュニケーションを中心に調べているのだが)が、本当に役立っているのか疑問に思っているのには、以下のような理由がある。
ひとつは、アメリカのあまりにも自国中心的な姿勢だ。
現在の異文化コミュニケーションの研究は、文化相対主義の影響を受けている。文化相対主義とは、熊本大学の
池田光穂教授の表現を借りれば:
文化相対主義とは、すなわち他者に対して、自己とは異なった存在であることを容認し、自分たちの価値や見解(=自文化)において問われていないことがらを問い直し、他者に対する理解と対話をめざす倫理的態度のことをいう。
「他山の石」 http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/000316crelat.html
つまり、お互いの「違いを認める」ということだ。
異文化コミュニケーションの目的を、異文化理解のためと考える人もいるが、わたし個人は、異文化を完全に理解することが可能だとは思ってはいない。第一、もっとも身近で、「人類最大の異文化」といわれる男と女の間の理解ですら、それほど上手くはいっていない事実がある。
たとえば、わたしは「男心」が理解できない。
(ごめん、難しすぎるんだ。) だが、男心が理解できないからといって、それが世の中の人類の半分を占める男性とのコミュニケーションを、断絶する理由にはならない。「相手を理解すること≠相手とコミュニケーションを成立させること」と、わたしは考えている。理解しがたい相手ともコミュニケーションを成立させるためには、相手と自分は違うのだということを、認識する必要がある。
日本の異文化コミュニケーション研究というのは、アメリカで行なわれている異文化コミュニケーション研究の影響をかなり受けており、この分野の多くの研究者は、アメリカへ留学し研究してくる。アメリカは多民族国家であるため、もとより自国内で異文化問題を抱えていたため、かなり早い時期に異文化コミュニケーション問題に取り組んだ。そのため、異文化コミュニケーション研究の先進国と考えられているのだ。
が、そのアメリカが、アメリカ型民主主義を他の文化にナイーブに押しつける姿を見ていると、「異なる文化との違いを認めている」とはどうしても言いがたい。アメリカの異文化コミュニケーション研究も文化相対主義に基づいているはずなのだが、一体どうしたことなのだろう。国内と国外は違うのか。それとも、建前と本音は違うのか。
ひるがえって、日本の異文化コミュニケーションの実情はどうか。
近年新設されている大学の学部や講座には、やたらと「国際」と「コミュニケーション」に関するものが多い。その多くが「国際人」を目指すべく、異文化コミュニケーションを扱う。でも必ずしもそれが、相手との違いを認めることには通じていないように感じるのだ。
国内に多くの外国人がいるにもかかわらず、日本人の多くは、いまだに一部の「ガイジン」と呼ばれる人たち以外にしては不寛容だ。
たとえば、日本国内の多くのアジア系の外国人に対しては、以前にもましてきびしい目が向けられているように感じる。犯罪が起こったときに、犯人が外国人であれば、犯罪が起こった理由を安易に「外国人であること」のせいにしてはいないだろうか。「日本人に受け入れられたければ、日本人と同じように行動し、同じように考えろ」と、彼らに有言無言の圧力をかけてはいないだろうか。
その結果、異文化コミュニケーションが、「欧米系の外国人たちとの円滑な付き合いやビジネスのコミュニケーション」(「わたしは英語を話すときは人が変わるから大丈夫よ」のレベル)とか、「中国人従業員を管理する方法」とかいった、自分が精神的/物質的に満足を得るためのコツを扱うものだけに、なりさがってはいないだろうか。
これには、日本においてこの分野を研究したり教えたりする側の問題もある。
悲しいことではあるが、国内外の大学院で異文化コミュニケーションを研究し、コミュニケーション科目を教えながら、「○○さんとは話の内容が合わず、本当にコミュニケーションが取れない」「どうしてIT関係の人って、ああいう話し方をするのかしら」と、日本人同士の意思疎通の困難を、一方的に相手のコミュニケーション・スタイルのせいする人たちが存在する。もちろんそういう人たちは少数だ。しかし、そういう人間に限って、「異文化コミュニケーションのエキスパート」を任じていたりするのだ。
わたしは、異文化コミュニケーション研究の存在意義を信じている。ヒト・モノ・カネ・情報が、以前にはなかった速さと規模で国境を超える現在でこそ、必要なものだ。でも、この研究が、どれだけみんなの幸せに寄与しているのだろう。もしそのための役立っていないのなら、この研究は研究者の自己満足のためのものに過ぎなくなってしまう。
[注] 「人類のためだけか?」といわれると、仏教の影響を大きく受けている身としては、「生きとし生けるもののため」ぐらいは、豪語したいものである。しかし残念ながら人間のエゴで、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の生きる権利などにはかまっていられないし、もっと身近なところでは、ゴキブリをみると反射的に殺虫剤をかけてしまうのである。