巣窟日誌

お仕事と研究と私的出来事

ボディクリエーターのメジャー

2004-07-10 17:43:02 | ガジェット/モノ
tape_measure.jpgノベルティとしてもらったもので、日常で使っているものはあまりないが、この資生堂のボディ用肌ひきしめ美容液イニシオボディクリエーターのノベルティのメジャーは、けっこう重宝している。

体側用のメジャーは150cmのものが多いが、これは200cmのロングメジャーだし、片面はセンチ表示、もう片面はインチ表示なのがありがたい。体のサイズを測るメジャーで、インチ/センチの両方の表示があるものは少ないし、ロングメジャーから探すとなると、国内ではほとんどみつけられないのだ。

残念なのは、ボディクリエーターがサイズダウンにはまったく効果がなかったことが、このメジャーのおかげでわかったことだ。サイズダウンには個人差があるらしいが、塗った部分はすべすべになったので、肌の表面のひきしめ効果は確実にあるらしい。


さて、ノベルティ関連で、かつての上司から聞いた実話をひとつ。ある小さな企業での、課長以上が全員出席していた販促会議での実話だ。

社長 「これから、販促用のノベルティを配る。
    みんな有効に使うように。」
    (出席していた営業の課長に)
    おいA君、『ノベルティ』 (novelty) とはどういう意味だ?」

A課長「え? 『小説』です。」

(その答えを聞いたA課長の直属の上司のB部長が、あわてて口をだす。)
B部長「違うだろ、A君。
    それはノベル (novel) だろ。
    (きっぱりと)これは『小説の』だろ。」


「小説""」というところが微妙におかしいが、この会話がなされた状況が、英会話学校を経営する企業の販促会議だったというところで爆笑。


『欲望という名の電車』のマーロン・ブランド

2004-07-10 03:12:01 | 映画・小説etc.
マーロン・ブランド (Marlon Brando) といえば、多くの人が思い浮かべるのは、『ゴッドファーザー』 (1972) "The Godfather" のドン・コルレオーネだろう。だが、わたしにとっては、『欲望という名の電車』 (1951) "A Streetcar Named Desire" のスタンリー・コワルスキーだ。彼以外に、スタンリーの人物像に説得力を与えられる俳優がいるだろうか。

brando.jpg『欲望という名の電車』のスタンリー・コワルスキー役は、男優にとってかなり難しい役だ。というのは、観客はスタンリーが追いつめるヒロインであるブランチ・デュボア役のほうにより同情し、感情移入してしまうので、スタンリーがただの悪役になってしまう危険があるからだ。

ストーリーはこうだ。

◇◇◇

南部貴族の出であるブランチ・デュボアは、最後の財産であった故郷ローレルの屋敷ベル・リーヴを失い、いまや唯一の身寄りとなった妹ステラの住むニュー・オリンズに、追われるようにやってくる。妹はそこで、ポーランド系の労働者スタンリー・コワルスキーと結婚し、貧しいながら、せまいアパートで楽しく、生き生きと暮らしている。

スタンリーにとってとつぜん転がりこんできた義姉ブランチは、自分と愛する妻ステラの間に割ってはいるジャマ者だ。彼の目には、これみよがしに貴族的にふるまい、自分を「ポーラック」(Polack、ポーランド人の蔑称で、日本人をジャップと呼ぶようなもの)と呼び、なにかにつけて自分をみくだす態度をとる義姉は、どこか非常にうさん臭い人物にみえる。しかも、ブランチが自分の家に転がりこんできてからというもの、妻ステラが何かにつけてブランチの肩をもつため、夫婦仲もギクシャクしはじめる。さらには、自分の一番の親友であるミッチまで、ブランチの色香に迷い、彼女との結婚まで考えているらしい。

そこで、スタンリーがブランチの過去を調べると、とんでもない事実が明らかになる。故郷で自分の屋敷を失ったのち、ブランチは安ホテルでどんな男でも引きこむ生活を送っており、それは地元ではよく知られたことだった。高校の英語の教師でもあった彼女は、ついには教え子の17歳の男の子にも手を出したために、教師の職を解かれて、故郷を追いだされたのだ。彼女が妹の下へやってきたのは、故郷にいられなくなったためだった。

スタンリーはその事実を妻ステラと親友ミッチに伝える。ミッチとの結婚により安住の地を見いだそうとしていた彼女は、ミッチに真実を知られたことで、一縷の望みが絶たれたことを知る。駄目おしのように、スタンリーはブランチの前に真実をつきつけて、徹底的に糾弾し、さらには肉体的にもダメージを与えるため、ブランチは発狂する…

◇◇◇

かたや身持ちを崩した年増女(とはいえ30歳ぐらい)であるブランチは、アメリカの中の滅びゆく繊細なものを象徴している存在でもある。南部貴族らしい教養を身につけ、強い光に耐えられない繊細さをもった美しさをもち、その美しさと物腰は、ト書では白い蛾にたとえられている。彼女が身持ちを崩したのは、最初の結婚があまりにも不幸で衝撃的な結末に終わったという事情もあるので、観客にとっておおいに同情ができる。原作者のテネシー・ウィリアムズ自身も、「ブランチは私だ」と発言したように、作者がかなり共感して描いた人物でもある。

一方のスタンリーは、粗野でマッチョな男であり(原作のト書には、「メスの鳥たちのなかにいる豪華な羽根をもつオスの鳥」に形容されている)、ポーランド系ということで、アメリカの新移民を象徴する存在でもある。教養がなく、頭に血が上ると物を壊し、妊娠中の妻にも手をあげ、かわいそうなブランチの虚飾をはいで、彼女を発狂へといたらしめる人物である彼は、一方で、妻ステラを心から愛し、子供の誕生を心から喜び、親友が毒牙にかかるのをなんとしても阻止しようとする、彼なりの正義を貫く人物でもある。またその態度から、愛する妻の義姉を追いつめたことに、罪の意識を感じていることも示される。

が、ブランチの悲劇があまりにも際だっているために、スタンリーは下手をするとただの粗野な悪者になってしまうのだ。ブランチ役は、チョイ年齢のいった演技力抜群の女優がなりきり演技をすれば、みんなそれに引き込まれる。舞台版のジェシカ・タンディ、映画版のヴィヴィアン・リー、日本では古くは杉村春子、最近では大竹しのぶあたりだ。

初演の舞台版と映画版でスタンリー役をやったブランドを除いて、この作品が舞台で上演されるたび、そして映画でリメイクされるとき、常に問題になっているのは「だれがスタンリーを演じられるのか?」なのだ。

わたしはこの作品には、まずは大学時代に授業で触れた。(こう見えても英文学専攻だ。)当時は、担当の講師がいくらスタンリーの魅力とその行動の正当性を説明しても、理解できなかった。第一、育ちの良いステラが、なぜスタンリーにひかれたのかが、まったく解せなかった。ゆえに、オリジナル舞台版のエンディングに納得がいかず、聞き知った映画版の結末のほうが、説得力があるように感じられた。(舞台版と映画版ではエンディングが異なる。)

しかし、ビデオで映画版を見てはじめて、この講師の説明した意味がわかった。ブランドがスクリーンに現れ、ブランチ役のヴィヴィアン・リーと会話を交わした瞬間に、「こりゃあ、ステラが一発で恋に落ちるはず」と、妙に納得してしまったのだ。

そして、ブランド演じるスタンリーが、ステラを求めて「ステラ! ステラ!」と叫んで傷ついた表情で涙を流したときに、舞台版のエンディングに、妙に納得してしまったのである。

もしこの作品に興味があったら、あるいはブランドのファンでまだこの映画を観ていなかったら、、まずは映画を観てほしい。映画をみたら、原作も読んでほしい。(小田島雄志訳が入手しやすい。)原作と映画の結末の違いがわかるとともに、原作にはいかにさまざまな色が効果的に使われているかがわかるだろう。

それから、日本人にはわかりにくいのだが、登場人物の名前は、それぞれの役割を象徴したものがつけられている。

(写真は北米版のDVDのものだが、その雰囲気が少し前のラッセル・クロウとかぶるかも。いや、二の腕だけではなく…)