映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ヴィヨンの妻

2009年11月05日 | 邦画(09年)
 「ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~」を日比谷のシャンテ・シネで見てきました。

 以前、山梨文学館で「ヴィヨンの妻」の自筆原稿を見たことがあり、そんな太宰治の小説をどんな風に映画にするのかと興味があり、またご贔屓の浅野忠信が出演することもあって出かけてきた次第です。

 映画では、昔の中央線が出てきたり、「きちじょうじ」とか「むさしこがねい」といった駅名まで映し出されるので、それだけで○のところ、松たか子を巡る3人の男性(浅野忠信、堤真一、妻夫木聡)といった風情で、大変面白く最後まで見ることが出来ました。

 もちろん浅野忠信に太宰治を重ね合わせても構わないものの、別にそうせずとも、優柔不断で煮え切らない今でもどこでも見かける男性が、松たか子の魅力に抗しがたく、くっついては離れ離れてはまたくっつくといった関係を続ける中に、至極真面目な鉄工所作業員・妻夫木聡とやり手弁護士の堤真一が絡み、さらには女給の広末涼子までも加わるので、つまらないはずはありません。
 設定は、確かに終戦直後となっていますが、セットがいかにもスタジオで拵えたものという感じの出来具合で、その中でこうしたいま旬の俳優が、食糧難で痩せ衰えているわけでもなく動き回りますから、何だか現代劇を見ているようです(松たか子も、生活に草臥れた雰囲気など微塵もなく、健康優良児そのものです。中野の小料理屋に集まってくる常連客も、皆恰幅の良い人ばかりです!)。

 だからこの映画が問題だというわけでは決してなく、こうした様子に現代劇を見るのも良し、また終戦直後の混乱期のさまを見ても良し、ということではないかな、と思いました。

 映画評論家の意見は総じて高そうです(マアこうした映画を貶すと、評論家としての見識が疑われてしまう側面はあるのかもしれませんが)。

 前田有一氏は、主演の松たか子は「すごい。原作のヒロインの印象とは違うものの、鑑賞者に暖かい感情を抱かせるキャラクターを作り上げている」し、浅野忠信も「弱い男を魅力たっぷりに演じ、さすがの貫禄」とはいえ、「実話の映画化ではないのだから遠慮なく脚色のしようがあったような気がするのだが、実際はどこか帰結点の定まらない、中途半端な印象を受ける」として60点。おそらく、前田氏は、メッセージ性のあまりない、ラストよりも途中経過を大事にする文芸物の映画は体質的に嫌いではないでしょうか?

 福本次郎氏は、「常に「死にたい」と周囲に漏らし、弱さを積極的にさらけ出して相手を操っていく、あまりにも身勝手なのに不思議な魅力を持った作家と、彼の破天荒な生き方にじっと耐える妻の対比が鮮やかだ」として70点とこの評論家にしては高い点数を与えています。ただ、浅野忠信に太宰治を重ね合わせすぎて見ている嫌いがあるように思われます。

 渡まち子氏は、「放蕩三昧で浮気性、破滅願望が強く自分勝手なのにどこか憎めないという不思議な男を演じる浅野忠信が、素晴らしい」し、「松たか子の柳のような強さも負けずに秀逸」で、「やるせなくてしたたか、そしてどこかこっけいな、大人の恋愛映画だ」として75点を与えていますが、こんなところでしょうか。


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クヒオ大佐

2009年10月25日 | 邦画(09年)
 「クヒオ大佐」を渋谷のシネクレストで見てきました。

 私としては、『南極料理人』に引き続いて堺雅人の演技が秀逸であり、かつ作品自体としても面白く、全体に大層優れた映画だなと思ったところです。

 「映画ジャッジ」の評論家諸氏では、福本次郎氏が、「映画は主人公の内面に深く踏み込もうとはせず、行為だけからは彼の人となりがイマイチ見えてこない」と相変わらずピントが外れた論評で40点です。こうした映画で「彼の人となり」とか「クヒオの素顔」を求めても仕方がないでしょうに!
 また、渡まち子氏は、「バレバレの嘘を平気でつく幼稚な発想や、夢と現実の区別がつかない体験談など個性あふれる見所に対し、クヒオの背景や心理描写が浅いのは残念だが、付け鼻とおかしな日本語で熱演する境雅人の曖昧な笑顔が抜群にハマッていて、大いに楽しめた」として70点を与えています。「クヒオの背景や心理描写」に関心が行ってしまう点は問題ですが、マアマアのところでしょう。

 この映画に関する論評では、小梶勝男氏のものが最高でしょう。彼は、「日本人なのにアメリカ人と名乗って女性を騙した実在の結婚詐欺師を、堺雅人が付け鼻と片言の日本語で演じる。岡本喜八作品にも通じる映画らしい映画」だ、「詐欺の話で、ラブストーリーであるにもかかわらず、ラストに近づくと、怒濤のように「活劇」となっていく。その感覚が、岡本作品と通じるところがあるのだ。今年見た日本映画の中では抜群にいい」として90点もの高得点を与えているのです!

 小梶氏は、「主演の堺雅人は、何と付け鼻に片言の日本語で、嘘くさいキャラクターを嘘くさいまま、見事に演じきってしまう」と述べます。まさに、あんな姿恰好では、余程のバカでない限り騙されることはないでしょう。これでは映画が成立しないのではと思いながらも、次第に、登場人物たちが騙されるばかりか、見ているこちらの方も、もしかしたらこんな話は起こりうるのかもしれないと思えてきます。

 あるいは、この映画は、監督と観客の騙し合いが狙いなのかもしれません。

 冒頭に、いきなり「第一部 血と砂と金」とのタイトルがあらわれ(注)、湾岸戦争のドキュメンタリ映像が流され、その上で、外務官僚たちの日本の戦争協力を巡っての激しい論争が描かれます。アレッこれは「クヒオ大佐」という映画ではなかったのかしら、これは何か別の映画の予告編なのかしら、と観客をひどく戸惑わせておいてから、暫くすると「第二部 クヒオ大佐」というタイトルが、それも小さく表示されます。
 やれやれ。でも今の映像は何だったのかしら、という不思議感覚は最後まで消えません。

 映画の本編は、冒頭シーンの派手さとは打って変わって、詐欺師の生活ぶりを描いていながらも、極度に地味な場面が続きます。何しろ、クヒオ大佐は、零細な「弁当屋の女社長」から少額のお金を巻き上げて、安アパートで生活しているにすぎないのですから!
 唯一派手派手しいのは銀座のバーの情景ながらも、クヒオ大佐が飲み代を支払う場面は描かれません。ストーリー重視の立場からすれば問題があるかもしれませんが(銀座での飲み代を支払えるほど、クヒオ大佐は稼いでいないはずですから)、この映画としては、銀座のママとそのお客〔クヒオ大佐というよりも、むしろ会社の金を横領した常連客〕との騙し合いの様子が描き出されていれば十分でしょう。

 それがラスト近くになってくると、調子が冒頭に戻って、「クヒオと女性たちが揉み合い、走り、最後は米軍のヘリまで登場」、その「米軍ヘリからプールサイド、そしてパトカーの車内と続くラストのシークエンスの圧倒的な面白さ」に「ワクワクさせられる」ことになります。
 ここでも、突然米軍ヘリが登場しますから、アレッと思うものの、冒頭で湾岸戦争の映像を見ていますから、こんなシーンもあってもおかしくないなと思っていると、トドノツマリは、パトカーの中でのクヒオ大佐の妄想に過ぎないことがわかってジ・エンド。

 この映画には、クヒオ大佐と3人の女性、監督と観客という関係のほかに、もうひとつ騙し騙されの関係があるようです。それが米国と日本との関係でしょう。日本は、表向きは米国に忠実に従っているものの、実際のところはお金で済むところはお金で済まそうと虎視眈々とうかがっており、他方で、米国も、日本が思い描いているような格好の良さを示していながらも、いろいろなルートで多額のお金を奪い取っている、という関係ではないか、と映画が言っているようでもあります。

 とにかく、初めから一気にアクセルをふかせたかと思うと急にブレーキを踏み、そうこうしているうちに、またもやアクセルがいっぱいに踏み込まれるという、すごくメリハリの利いた構成の中で、騙し騙されの関係がいろいろなレベルで仕掛けられていて、随分と面白い映画に仕上がっているなと感心いたしました。

(注)小梶勝男氏によれば、「第一部 血と砂と金」とは「岡本喜八監督の「血と砂」から取ったタイトルであることは明らか」で、この映画の「吉田大八監督は、岡本喜八を意識して本作を撮ったのだろう」とのことです。
 そこで、岡本監督の『血と砂』(1965年)をDVDで見てみました。
 確かに、『血と砂』は、荒涼とした「北支」における日本軍の戦いを描いていますから、湾岸戦争におけるイラクのクエート侵攻と類似するところはあるでしょう。さらには、三船敏郎とか佐藤允などが活躍する「活劇」ですから、雰囲気も「クヒオ大佐」のラストとある程度は合致しているでしょう。
 ただ、岡本作品は、軍隊の音楽隊の少年兵が三船の指揮の下、ある陣地の奪取を命じられ、結局は全員戦死してしまうという戦争の悲劇を描いたもので、トーンは総じて「クヒオ大佐」の本編とは別物であって、小梶氏のように「岡本喜八を意識して本作を撮った」とまで言えるのか疑問です。

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カムイ外伝

2009年10月21日 | 邦画(09年)
 吉祥寺で「カムイ外伝」を見てきました。

 この作品は、映画評論家の間では総じて評判が悪いものの、昨年10月に出版された法政大学教授・田中優子氏が著した『カムイ伝講義』(小学館)(注)を読んだこともあり、また『ウルトラミラクルラブストーリー』で主演の松山ケンイチが出演していることもあり、見に行ってきた次第です。

 実際に映画を見てみますと、主演の松山ケンイチの動きが素晴らしく、相手役の小雪もかなり頑張っています。特に、剣戟の場面が全体のかなりの割合を占めていて、それが昔の時代劇のチャンバラ・シーンとはかけ離れたスピードとスケールで行われるものですから、最後まで息吐く暇がありませんでした。特に、ラストの伊藤英明との壮絶なアクション・シーンは出色です。
 ストーリー的にやや難はあるものの、アクション・シーンの面白さから、娯楽映画としては及第点だなと思いました。

 ですから、私としては、小梶勝男氏の論評に近いものを感じました。
 小梶氏は、「忍者アクションとしてのレベルの高さに驚いた。カムイ役の松山ケンイチを始め、役者たちの動きが実にいい。ワイヤーワークも素晴らしい。日本映画では余り例がない凄いアクションではないか」と述べて73点を与えています(尤も、「スタッフは豪華だが、ドラマとしてはまとまりがなく、主役のカムイがどんな人物なのかすら、よく分からなかった」と述べていますが)。

 ところが、他の映画評論家の見解はまるで違うようです。
 特に、前田有一氏はこの作品に30点しか与えていないところ、まず「日本映画界の重鎮・崔洋一監督、そして日本一の人気脚本家・宮藤官九郎。……どう見ても彼らの得意分野とはズレたコンセプトによる映画化で、いずれも力を発揮できていない印象」で、彼らならば「たとえ一度も時代劇を撮ったことがなくてもそれなりのものは作れるし、手堅い脚本だって書けるだろう」が、「本作の場合は残念ながら裏目」に出ていると述べます。

 ですが、元々、時代劇と現代劇のどこが違うというのでしょう。過去をタイムマシンで見たわけではないのでしょうから、どんな時代劇といえども現代の観点からしか作り得ないはずです。
それに、崔洋一監督は、俳優として『御法度』(監督大島渚)に近藤勇役で出演していますし、宮藤官九郎も『真夜中の弥次さん喜多さん』(2005年)の監督・脚本を手掛け、『大帝の剣』(2007年)に出演もしていますから、二人は決して時代劇の門外漢ではありません。
 その上、この二人が協同して脚本を作り上げていますから、「どう見ても彼らの得意分野とはズレたコンセプトによる映画化」であり、「一流のスタッフをそろえても、不慣れなものを作らせればいいものはできない」とまで言うのは、誤った先入観に基づいているとしか言いようがありません。

 続けて前田氏は、「唯一気を吐いていたのが、アクション監督・谷垣健治によるソードアクション」と述べますが、こうした書き方だと、アクション・シーンについては崔洋一監督が谷垣氏にすべて任せ切ってしまっているように受けとられますが、そんなことはあり得ないはずです。
 とりわけアクション・シーンが多いこの映画においてそんなことをしたら、いったい崔洋一氏の役割は何だったと言うのでしょうか?

 さらに、他の評論家の評価も総じてかなり低いものです。

 福本次郎氏は、「差別される人々の心情を語ってこそカムイの渇望が表現できるはずなのに、中途半端なアクションシーンばかり繰り返され、肝心のカムイの怒りや苦しみが見えてこ」ず、「原作の読み込みが足りず完全な失敗作に終わってしまった」として、40点しか与えません。

 渡まち子氏は、「消化不良のアクションだけが目につく時代劇」であり、「映画で描かれるそれは、CGやワイヤーアクションに迫力と工夫が足りない。特に渡り衆のサメ退治の場面のCGは苦笑を誘う。必殺忍法は、カムイの得意技・変移抜刀霞斬りなどが登場するが、もう少しバリエーションがほしかったところか」と、アクション・シーンについて小梶氏とは正反対の評価で、55点です。

 山口拓朗氏は、この二人の論評を合わせたような見解で、一方において「この映画が、そんなカムイの逼迫した心情を描き切っているかといえば、残念ながら答えはノーだ」とし、また他方において「唯一の見せ場となるアクションは、決して完成度が高いとはいえないワイヤとCGが邪魔をして、失笑とツッコミを誘う滑稽なシーンも少なくない」として、評点は50点です。

 以上からすると、この映画を評価する人もしない人も、ストーリーに難点があることではほぼ一致しているようです。

 そこで、この映画の原作となった白土三平の漫画『カムイ外伝-スガルの島』(小学館)が、書店でちょうど売り出されていたので買って読んでみたところ、映画はこの漫画をかなり忠実に実写化していることがわかりました(福本氏は、「渡衆」と名乗るサメ狩り集団の「リーダーたる不動がカムイを始末するために派遣された「追い忍」に突然変ぼうするというあほらしさ」と述べていますが、コレは原作に従っているまでのことであって、スタッフに対して「原作の読み込みが足り」ないと叱責できるほどご自身で読み込んでいるとはとても思えません!)。
 ただ、その結果、ヒロインは小雪とされているものの、松山ケンイチと小雪のラブシーンはなく、また、二人の格闘場面が何回もあるのに、ラスト近くになって小雪が漁民たちと一緒に簡単に毒殺されてしまうのは、いくら原作に忠実とはいえ見ている方は拍子抜けしてしまいます。
 また、心境著しい佐藤浩市が殿様役として出演しているものの、原作と同様、存在感が乏しい役回りしか与えられていないのも残念です。

 ですから、映画として見た場合、ストーリーに問題がないこともないわけです。ただ、漫画も、そしてそれに基づく映画も、その重点はアクションにあって筋立ての方にないのではと思えるところです。

 それに、福本次郎氏は、「「」階級のカムイと、一応「人」の農民、権力を握る殿様。同じ赤い血が流れる人間なのに、生まれついた身分で運命は全く違ったものになる」が、「差別される人々の心情」が語られていないと述べていますが、そんな「心情」などこの映画の中でわざわざ語らずとも、時代背景として観客はよく承知しているのではないでしょうか(少なくとも福本氏は!)?

 それよりなにより、この映画で追及されているのは、漫画では静止画の連続としか描けない剣戟シーンをあえて実写化して、スムースな動きとして捉えることではないでしょうか?

 そのアクションについては、「CGやワイヤーアクションに迫力と工夫が足りない」との意見が多いようですが、崔洋一監督が力を込めて描いており、私としては小梶氏の言うように、素晴らしい出来栄えだと言いたいところです。

(注)全体としては素晴らしい出来栄えの田中氏の著書について、1つだけ問題点を申し上げると、そのp.327に「階級制度を捨てたかに見える日本には、まだ公式な階級制度が一つだけ残っている。天皇制だ。生まれたときから自らの身分と職務が決まっており、それに従って教育され、それに従って結婚し、それに従って生きる」云々とありますが、これでは「天皇制」と「天皇家」を同一視し、あまつさえ一家族が「階級」を形成するというとんでもないことになってしまいます(本書の基になった法政大学における講義については、Web版「カムイ伝から見える日本」で概要を読むことができます)。


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のんちゃんのり弁

2009年10月14日 | 邦画(09年)
 渋谷のユーロスペースで「のんちゃんのり弁」を見ました。

 この映画の監督の緒方明氏が以前制作した「いつか読書する日」(主演・田中裕子、2005年)が非常に素晴らしかったものですから、今度の作品も随分期待して見に行きました。

 映画を見ていますと、イロイロな疑問点が見つかります。
 例えば、あれほど独り立ちしたいと絶えず願っている主役の小卷(小西真奈美)が、働きに出もせずにどうしていい加減な男性と若くして結婚してしまったのかがヨク分かりませんし、また弁当屋を開く前にもかなりの数のお弁当を作っていながら(お米を相当使っているはずです)、その材料費は誰が賄っているのか(時々は代金らしきものをもらっているようですが)不思議に思えました。

 とはいえ、そういった疑問を持ちながらも、マアそんなこともあるのかなと余り躓かずに通り過ぎることはできます。ただ、見終わってしまうと、全体としてあまりにも単純で常識的な映画で、様々の要素が重なり合って描かれている「いつか読書する日」のような作品を期待していただけに、かなりがっかりしてしまいました。

 もちろんこの作品はコメディで、シリアスな内容の「いつか読書する日」とは性格を異にしています。ですから、小梶勝男氏が言うように、「喜劇には達者な役者も欠かせないが、小巻の母親役の倍賞美津子、居酒屋の主人の岸部一徳、小巻の幼なじみの村上淳、ダメ亭主の岡田義徳らが、自然に下町の風景に溶け込んでいて、物語もテンポよく進む。緒方明監督の演出は非常にバランスがよく、見せたいところは思い切りよく見せ、大袈裟になるぎりぎり手前で抑制する。押し引きの呼吸がとてもいい」とは、私も思いました。
 ですが、どこまでも手堅く手堅く制作されているがために、コメディのもつ破壊力・爆発力といったものは失せてしまっていて、その意味でもつまらなかったといえます。

 どうしてこんなことになってしまったのかを探るべく、原作の漫画を読んでみました(注)。
 すると、「女の子ものがたり」のように、映画制作にあたって著しく改変した点がほとんど見当たらないのです(小巻の弟夫婦までもお母さんの家に入り込んでくるといる話が省略されていたりはしますが)!

 なにより、「ととや」の主人(岸辺一徳)が言うキメの言葉(「「家で食うのとかわんない」なんていわれちゃ、お金取れませんから」とか「あちこち食べ歩いてごらんなさいよ。まだまだ奥さんの知らなかった「感動の味」ってのが見つかるよ」など)は、ほとんど漫画に出てくるのです。

 ただ、主人公の小巻が作るお弁当の扱い方が違っています。
 映画では、4層~6層にもなる超豪華な「のり弁」が何度も大写しになります。他方、漫画に登場するのり弁はごく普通のもので、それもそんなに数多くの画面で登場するわけではありません。
 そこで、監督の意図したところかどうか分かりませんが、この映画の陰の主役はこの「のり弁」なのでは?そしてそういった辺りから、この映画についての評価を考え直してみたらどうでしょうか。

 福本次郎氏は、この映画については、「のり弁」に関してだけ論評して、「お惣菜としてではなく、ご飯そのものにさまざまな具材を混ぜ込み、栄養のバランスを取ろうとするお弁当。表層は海苔が敷き詰められているために見た目の美しさはないが、断面は色も種類も違う混ぜご飯が幾層にも重なってそれぞれのうまみを引き立てあう「小巻風のり弁」は、子役俳優が食べている姿を見ているだけでよだれがわいてくるほど」と述べています。
 当初、この論評では、「キャデラック・レコード」に関し福本氏がタバコに拘ったのと同じことになるのではと思いましたが、もしかしたらこういう態度こそがこの映画についてはふさわしいのかもしれません!

 なお、こうした「のり弁」を考案したのはフードスタイリストの飯島奈美氏で、なんと『かもめ食堂』や『めがね』、『南極物語』や『プール』の料理をも手がけているのです!
 劇場用パンフレットには飯島氏の話が掲載されていて、そこには「原作のマンガ通りに作ることを心がけました」とありますが、映画の画面でお弁当の「断面をくっきり見せる」ために様々な工夫を凝らしているようで、その結果あのような超豪華「のり弁」になったのでしょう。


(注)4巻の単行本は絶版でしたが、映画の公開にあわせて「新装版」(上下)が刊行されました。ただ、それは3巻までを収録しているに過ぎません。映画に関係するのは3巻までですからソレでもかまわないわけですが、念のためネットで探してみましたら、「eBook」から出ていることがわかり、はじめて電子書籍というメディアを使って4巻目も読んでみました(400円)!目が疲れるのではないかという先入観があったものの、以外と読みやすいので驚きです。

キラー・ヴァージンロード

2009年10月07日 | 邦画(09年)
 「キラー・ヴァージンロード」を渋谷のヒューマントラストシネマで見てきました。

 今年はこれまで、品川ヒロシの「ドロップ」や木村祐一の「ニセ札」、ゴリの「南の島のフリムン」などというように、俳優・タレントによる監督第一作映画がいろいろ公開されています。
 私の方も、それらを何とか追いかけようとしてきたので(といっても、「ドロップ」と「さくらな人たち」の2つにすぎませんが←後者はDVDで)、この岸谷五朗による作品も見たいものだと思った次第です。

 さて、オープニングのダンスと歌のシーンを見ると、評論家の渡まち子氏が言うように、「これが“関所”だ。ここでノレた観客には楽しめる作品かもしれない」、とすぐにわかります。
 そして、続く「ひろ子」の部屋の場面になれば、〝流れに気楽に乗って行こう〟という気になって、旅行トランクに入った死体と一緒に女二人が逃げ回るという展開の中でどれだけ破天荒な面白さを観客に見せてもらえるのか、そこが勝負だな、と思いながら見ていました。

 私としては、ピークは「ゴリラバタフライ」で(この場面があるだけで、わたし的には本作品は○です)、それと樹海の中での上野樹里と木村佳乃の掛け合い漫才が出色だと思いました。木村佳乃の動きの良さ、巧みな台詞回しは、主演の上野樹里を食ってしまっています!

 ですから、この作品にわざとらしいテーマを持ち込もうとする後半のシーンになってくると途端につまらなくなってしまいます。例えば、祖父が、皆の幸福とひろ子の幸福との関係についていろいろ話す場面(回想シーンを含めて)などは退屈至極です。

〔10月8日号の『週刊文春』の「笑えない「芸人映画」ワーストワン決定戦」によれば、「「普通に」演出される後半は「普通に」笑って泣けるだけに、才気走って掘った墓穴がなんとも惜しい」とのことですが、話は全く逆ではないかと思います。どうして、新人監督が「普通」のことをしなくてはいけないのでしょうか?総じてこの記事は、悪意を持って貶めるためだけに書いている低レベルの論評ではないかと思いました←オダギリジョー「さくらな人たち」とか役所広司「ガマの油」が抜けていたりしますし!〕

 ただ、ドタバタだけでは逆に一本調子になってしまうでしょうから、こうした場面もある程度必要かもしれません。とはいえ、もっと刈り込んで、さらなる破天荒な仕掛けを持ち込むべきではないでしょうか!

 前田有一氏は、「二人の演技はすばらしいが、全体的に舞台演劇的なつくりで、映画としてはやや物足りない。とっぴなオープニングで不条理劇に巻き込む手法は常道だが、その後の展開がアイデア不足というか途中で種切れの印象で、引っ張りすぎの一発ネタの印象を脱しない」と述べていますが、この評は私からすると至極的を得ていると思います。
 特に、「舞台演劇的なつくり」という点は、上野樹里の演技(遠くを見る時や驚く時の)にも現れていると感じました。

 他方で、渡まち子氏は、「関所」の入り口で躓いてしまったせいか、「それぞれのエピソードはテンションが高いだけで、あまりにもつながりに欠けているので、ストーリーを追う気力が奪われた」などとして20点の評点しか与えません。
 とはいえ、この映画で「ストーリー」を持ち出してもお角違いもはなはだしいと思うのですが。

 なお、この映画も、二人の女性が大活躍しますから、登場する男性陣は、ひろ子の隣室の男をはじめとして駄目男ばかりになってしまいます(祖父を除き)。こう設定する方が映画を作りやすいのでしょうが、コメディの「男と女の不都合な真実」は、女性が中心の映画ながらマッチョな男性が登場するのですから、あるいは作りようなのかもしれません。

プール

2009年09月27日 | 邦画(09年)
 映画『プール』を銀座のシネ・スイッチで見てきました。

 小林聡美、もたいまさこ、それに加瀬亮が出演する映画と聞いて、『めがね』のような感じなのかもしれないと思い、銀座まで出かけてきました(監督も、『めがね』の荻上直子氏だと思い込んでいたところ、大森美香氏)。

 タイのチェンマイ近郊にあるゲストハウスで働く母親のもとに、卒業旅行に名を借りて日本から娘が訪ねてきます。娘は、自分を祖母のところに置きざりにしてタイに来てしまった母親の真意を問いただそうとしますが、はかばかしい答えが得られないまま、また日本に帰ります。というだけの、ストーリーとも思えない物語が、映画では描かれています。
 もたいまさこは、このゲストハウスのオーナーで、余命半年といわれながら、3年ほども経過しているとのこと。また、加瀬亮は、そのゲストハウスで手伝いをしています。
 このほかの登場人物と言えば、小林聡美が養育している現地の子供くらいです。

 こうなると、評論家の意見も俄然厳しくなってしまうようです。
 “つぶあんこ”氏は、「ラスト30分程はそれなり。そこまでは寝てていい」との酷評付きで★ひとつ。

 渡まち子氏も、「暑い国なのに温度を感じない世界、草食系の俳優たち、表面をなぞるだけの人間描写。リアリティ以前に、生きている実感がない。……プールの周辺に集う人々は、互いに傷付けない代わりに真の絆も求めていない。……おしゃれなゲストハウスやおいしそうな食べ物、ゆったりとした歌声などに気分は癒されるが、根底に漂うのは、希薄な人間関係で充足する薄ら寒い空気。この映画、かなり病んでいる」と相当手厳しく、30点です。

 まあ、いずれの見解もわからないわけではありません。
 最初に申し上げたように、格別なストーリーが設けられているわけではなく、最後の方で、母親と娘との会話があってこの映画の背景が少しわかる程度です。ですから、ストーリーを追いかけたい人は、“つぶあんこ”氏のように「ラスト30分」を見れば十分でしょう。ですが、そんなことをしてみても何の意味もないと思います。この映画は、最初からストーリーの展開に重点を置いていないように見受けられますから。

 また、タイでの生活を映し出していながら、厳しいタイの政治・社会状況を匂わせるものは何一つ登場しません(最後の方で、托鉢をする僧侶の集団が出てきますが、これは大昔から連綿と続いている光景でしょう)。しかし、この映画は、そんなありきたりのことはおそらく意図的に捨象してしまい、まさに「暑い国なのに温度を感じない世界」をわざと描き出そうとしています〔こうした場所があるとしたら、現実的には、すぐに強盗団に襲われてしまうことでしょう!〕。

 荻上監督の『めがね』も同様に現実の世界から隔離された世界を取り扱っているところ、そちらは日本の離島でのお話という設定のためか、リアリティのなさが気になりましたが、この映画では東南アジアという遠隔の地に舞台を置いたためでしょうか、現実感のなさは気にはなりませんでした。

 この作品世界は、もしかしたら「能」の世界に近いのではないのか、と思いました。
 ゲストハウスに設けられているプールはいうまでもなく、さらに木造のリビングなどは高さが余りなく平面的で、あたかも奥行きのない能舞台(橋掛かりを含めた)のようです。また、そこにいる登場人物も、動作が極端に少なく、加えてかなり遠くから撮っていますから、全体的に能舞台に現れるシテ、ワキ、ツレといった感じです。そして、こういう設定から、時間が経過するとはこんなに静かなのかといったことを観客に感じさせ、さらには悠久の時間といったものを描き出そうとしているのではないかと観客に思わせます。

 全体の雰囲気としては、同じタイを舞台にした河瀬直美監督の『七夜待』を想起させ(性的な関係が描かれてはいない点も)、同国における陰惨な幼児売春等の世界を描いた『闇の子供たち』とはマッタク対極に位置しています。そして、厳しい現実の世界を描いたからといって映画的に成功するわけではなく、逆にこうした浮世離れした世界に、かえってリアリティを感じてしまうのも不思議なことだな、と思いました。

女の子ものがたり(映画)

2009年09月22日 | 邦画(09年)
 「女の子ものがたり」を渋谷のシネクイントで見てきました。

 予告編ではマアマアかと思っていたところ、友人の評価があまり高くなく、また少女趣味的な他愛ない映画かなという懸念もあり、見るのを取りやめようかと考えましたが、こちらの時間に旨く適合する作品が他にはみあたらないことや、映画の原作者の漫画『毎日かあさん』を以前読んだことがあり原作者に関心がありましたので〔ネットでも読めます!〕、見に行ってきた次第です。

 実際に映画を見てみますと、主人公の少女時代の交友関係と現在の漫画家としての仕事ぶりとが巧みに交互に描き出されていて、不覚にも感動してしまいました。
 深津絵里は、そう大して美人ではないながらも、「博士の愛した数式」とか「ザ・マジックアワー」に引き続いて大層良い演技をしているな、と感心いたしました。

 とはいえ、この映画には様々な問題点もありそうです。
 主人公の女性漫画家が仕事をまともにしないことの原因や事情が映画でうまく説明されないため、怠惰なのかスランプなのか分からない、との指摘があります。
 確かに映画では、その点につきコレといってキチンと説明されておりません。
 
 ただ、主人公と担当編集者との会話を手繰りよせると、主人公は、雑誌編集長の意向に迎合すべく自分を殺して連載の漫画を書いているらしいことがわかり、その結果極度のスランプに陥ってしまった(ペンを握っても描けなくなってしまった)、と考えられます。
 自分でもそれに薄々気づいて、もう一度原点に立ち帰るべく愛媛に戻って旧友の家に行ったところ、自分を嫌っていたと思っていた“きいちゃん”が実は自分を強く慕ってくれていたのだと判明し、ここを起点としてスランプからの脱出が示唆されます。
 そして描き上げられたのがこの映画の原作となっている漫画『女の子ものがたり』というわけですから、映画冒頭の深津絵里のぐうたらぐうたらしたシーンは、格別重要な意味を持っているのではないかと思われます。

 言ってみれば、この映画は、ある女性漫画家の“死と再生”の物語ではないでしょうか?むろん、これは大仰すぎる言い方で、主人公は“死ぬ”わけではありませんが、漫画家としては死んだも同然の状態に陥ってしまいました。それが、昔の親友との真の関係を田舎に戻って見つけ出したことから生き返ることができ、新たな気持で漫画に取り組めるようになった、というお話ではないかと思います。

 さらにまた、主人公の父親や親友達は、主人公に対して“あなたはみんなとは違う”と言いはるものの、なぜそうなのかについて映画の中では十分に説明されていないため、主人公が自分でそう思い込んでいるだけのこととしかみえないとの指摘もあります。
 確かにこの点も説明不足だと思います。ですが、私には、他の二人の親友と違って、主人公は人(特に男性)に頼って生きていこうとする雰囲気が漂っていない点(モット言えば、自分というものを確固として持っているという点、あるいは庇護してやろうと他人に思わせない点)が、他の人からは特異に見えるのではないか(特に、女性としては)、と思いました。

 これらの点が映画の中で十分に説明されれば、その受容はヨリ容易になるものと思います。ただ、余り観客に一方的にストーリーを押しつけるのではなく、わざと曖昧にしておいて観客の様々の解釈に委ねるというのも方法としてあり得るのではないか、むしろその方が文芸作品としては面白いのではないか、とも思えるところです。

 ですが、私には次のようなことが気になりました。
・板尾創路は主人公にとって継父のはずのところ、主人公が彼をまるで実父のように素直に受け入れてしまっている点(幼い主人公が継父の体を揉んでいるシーンなど)。
 ただ、最初の引越しの場面で、お母さんが主人公を、“そんなにうるさいと新しいお父さんに嫌われるよ”と厳しく叱ったために、逆に板尾創路に取り入ろうとしているのかもしれません(無意識ながら)。
・反対に、主人公の実母が主人公に対する接し方に、かなりの冷たさが感じられる点(主人公が自分の手元を離れるように促すシーンなど)。むしろこの女性が継母ではないか、とも思ったりしてしまいました。
 ただ、手元に置いておくよりも、突き放した方が主人公のためになると考えて、このお母さんは、あえて冷たい態度をとったとみるべきなのかもしれませんが。
・主人公とボーフレンドとの関係が、結局はどうなったのかが省略されている点。
 主人公の性格から、彼女がボーイフレンドに積極的にアプローチするなど考えられませんから―他の二人の親友は逆の性格でしょう―、離れてしまうのは明らかながら(海岸でのキス・シーンを見てもわかりますが)、それにしてもいま少し描いてくれても良いのではないかと思いました。
・総じて、駄目な男性ばかり登場する映画という点。継父の板尾創路はフラッとどこかに消えてしまいますし、“みさちゃん”の両親も犯罪に手を出します。また二人の親友の結婚相手は、いずれもDV加害者です!
 尤も、女性がメインとなる映画は、話をあまり複雑化しないようにするためでしょう、大体このようになる傾向があります。
 なお、唯一まともなのは主人公担当の編集者ながら、消えてしまった主人公の行く先を探し当ててしまうほど主人公のことを理解しているにもかかわらず、主人公との間には距離を置いています。マア、狂言回し役ですから仕方のないところですが!

 誠にくだらないことばかり書き並べましたが、実のところ映画を見ている最中はこうした点はさほど気にならず、この映画の他愛ない様々の場面に感動してしまったというのが実情です。

ちゃんと伝える

2009年09月16日 | 邦画(09年)
 「ちゃんと伝える」を有楽町のシネカノンで見てきました。

 監督が、「紀子の食卓」や「愛のむきだし」で評判の園子温氏ということで是非見たいと思っていました(「紀子の食卓」はDVDで見ましたが、吹石一恵がなかなかよくやっていると思いました。「愛のむきだし」も見たかったものの、長すぎるため映画館はパスし、これからDVDを見ようかと思っています)。

 「紀子の食卓」の感じから、何か普通の映画では見られない変わった点があるのかなと思いきや、至極オーソドックスな作品なので驚きました。
 こうした肉親の死を描いた作品を見せられると、これまで自分に起こったことやこれから起こるはずのことなどにも思いが及んで、この映画のように力を込めてきちんと制作されていれば、やはり感動してしまいます。
 特に、主演のAKIRAが実によくやっていると思いました(事前には、彼がEXILEのメンバーだとは知りませんでした!)。
 さらには、つまらない点ながら、映画の舞台となっている豊川駅前で、息子(AKIRA)とその恋人(伊藤歩)がそれぞれの自宅に戻るシーンが何度も描かれるところ、まるで横尾忠則の「Y字路」のようなので大変面白いと思いました。 

 とはいえ、評判の監督の映画と思って見たこともあり、色々問題点を指摘したくもなってきます。ただ、映画を見ている最中は、ストーリーに惹きつけられて以下で述べるようなことは、余り念頭に浮かんではきませんでしたが。
 なお、主演のAKIRAがEXILEのメンバーというところから、この映画はPVの延長上にあるのかもしれず、そうであれば何も言う必要などないものの、内容的にも、さらには東京ではわずか1館の上映のみというところからみても、PVではなく文芸作品として真剣に制作されていると判断できるので、以下のような検討をしてみました。

・一番の問題点は、息子(AKIRA)も胃癌に冒されていて父親(奥田瑛二)よりもむしろ重いことが判明するという設定になっているわけですが、このような厳しい設定に何故しなければならないのか、うまく理解し難いことではないかと思われます。
 わざわざそんな設定にせずとも、終わりの方の釣りのシーン―父親の葬儀の途中で、息子が父親の遺体と共に小さな湖で釣りをします―だけでこの映画は十分成立するのではないでしょうか?
 ラストでAKIRAに事情を打ち明けられたとき、「霊柩車で湖にまで遺体を運ぶという暴挙をあえてしたのも、あなたにそういう事情があったのであればヨク理解できる」と恋人はつぶやくところ、そのような格別の〝事情〟がなくとも、AKIRAの取った行動に観客は納得するのではないか、と思いました。
 ただ、それでは常識的なところに落ち着いてしまうおそれもあります。もしかしたら、わざわざこうした設定にした点にこの監督らしさが現れているのかもしれません。
・父親と息子が重篤の癌に冒されているにもかかわらず、厳しい症状が現れているシーンがマッタク描かれていません。二人とも 健常人の如くに映画の中で振る舞っており、監督は「そんなシーンを取り込まずとも観客には分かるのだからこれでかまわない」と述べていますが、実際には画面からリアリティが失われているように感じます。
 特に、若年ながら明日をも知れない癌に冒されている息子が、相変わらず恋人とデートしたり、土手を全力疾走したりするのですから、観客の方は、末期癌患者にそんなことが可能なのかと戸惑ってしまいます。
・素人的には、末期の癌が判明した段階で息子は即入院であり、手術や抗がん剤の投与を受けたりしなければならないはずであり(無理にでも医者はそうするのではないでしょうか)、従って本人がいくら隠そうとしても最低限家族には分かってしまうはずと思われます。
 ですが、映画からはそのようにうかがわれません。あるいは、医者の判断として、末期癌で何をしてもムダだから本人がしたいようにするに任せている、というわけなのでしょうか?
・この映画のタイトル「ちゃんと伝える」から、〝ち ゃんと伝える〟べき事柄、例えば、〝自分はこのように生きてきた、自分はこのように考えている、こんなことをやり残した、息子のことをこのように考えている、死後についてはこのようにしてもらいたい〟などといった内容の事柄が、映画の中ではっきりと口にされるのではないかと思っていました。
 ですが、映画からは、そうした大層なことではなく、単に“癌で余命いくばくもない〟と父親は息子に伝えたいだけではないか、としかうかがえません。せいぜいのところ、〝紅名湖で一緒に釣りをしたい〟といったくらいでしょう。
 尤も、チョット考えてみれば、死ぬ間際に子どもに是非伝えたいことなど一般人が確固として持っているとは思えないところでもありますが!
・この映画の題名にあるように、息子は、自分が癌に冒されている事情を恋人にキチンと伝えます。ですが、むしろ一番先に伝えるべきは母親(高橋恵子)ではないでしょうか?夫と息子に先立たれれば、スグにひとりぼっちになってしまうのですから!にもかかわらず、母親には黙っているのです。
 あるいは、そんなことを母親に告げたら余りの事態に母親がどうなってしまうか分からないと思って伝えなかったのかもしれません。ただ、医者から自分の癌のことを宣告されたとき、息子は「父親には言わないで下さい」と医者に言うだけで母親については触れませんでした。
 息子の場合、むろん父親との関係は問題になり得るものの(エジプス・コンプレックス!)、母親との関係もそれ以上に重要でしょう(マザコン!)。何故この側面が省略されているのかヨク理解できないところです。

 酷く些末なことをくだくだと書いてしまいましたが、逆に言えば、そういう様々なことまで見終わってから考えさせるくらい良い作品だったと言えるでしょう。なにしろ、ぐいぐいと映画に引き寄せられ結局は感動してしまい、映画館からの帰路、自分に果たして息子に伝えるべきことなどあるのかと考え込んでしまったのですから!

南極料理人

2009年09月13日 | 邦画(09年)
 「南極料理人」を渋谷のヒューマントラストシネマで見てきました。

 この映画は、むしろ押しつけがましいストーリー展開がほとんどないために、逆に芸達者な俳優たちが持っているそれぞれの味が十分出ることとなり、見ながら至極楽しい時間を過ごすことが出来ました。

 なかでも、今や注目度が非常に高い堺雅人の演技は出色でした。“薄笑いをしているような顔つき”が嫌だという向きもありますが、この映画では、かえってそれが効果的となっています(彼の出演した映画では、「ジェネラル・ルージェの凱旋」や「ジャージの二人」での演技が印象的です)。

 こういった映画についてはアレコレ言い立てても始まらないかもしれません。

 それでも、“つぶあんこ”氏は★一つで、「劣化『かもめ食堂』コピー男性版。全く笑えない極寒ムービー」との酷評をわざわざ与えています。
 確かに、フィンランドという寒冷地で日本人がレストランを開店するという『かもめ食堂』の話に、通じるところがないわけではないでしょう(どちらもめざましいストーリー展開はありませんし)。
 ですが、そちらは対フィンランド人向けのレストラン開業という外向きのベクトルなのに対して、こちらは越冬隊員向け食堂の話であって、ベクトルは内向きですから、果たして「コピー」とまでいえるかどうか疑問です。
 それに、こちらは料理の内容がかなり重視されていますが(特大イセエビのフライ!)、『かもめ食堂』では、料理というよりレストランという場を通じての人の交流の方に重きがあるように思われます。
 ですから、“つぶあんこ”氏が『かもめ食堂』をわざわざ持ち出すのは、ややピントはずれではないかと思います〔とはいえ、劇場パンフレットによれば、映画に登場する料理をこしらえたスタッフには、「かもめ食堂」の料理も手がけたフードスタイリストが入っているとのこと!〕。

 そんなに目くじらを立てず、この映画については、あるいは次のような評価で十分なのかもしれません。

 「ロケは南極ではないと知っていても、平均気温マイナス54度の空気はちゃんと伝わってくる。食材は缶詰や冷凍食品なのに、料理はどれも極上に見える。特に、知恵を絞って作った手作りのラーメンの、なんと美味しそうなことか。それを食べる隊員たちの満足そうな顔を見ていると、こちらまで幸福な気持ちになった」(渡まち子氏〔70点〕)。
 
 主人公の「西村が材料を工夫して打った麺を全員ですするシーンは、普通に食事できる幸せと、その幸せを誰かと共有することでさらなる満足感が得られると実感させてくれる。物言わずひたすら箸を動かす隊長の表情が素晴らしい」(福本次郎氏〔80点〕)。



 とはいえ、強いラーメン依存症に陥っているような人(「きたろう」が演じている隊長)がこの世に存在するとは、余り信じられないところです!

 それに、この程度の論評では、あまりに常識的で見たままな感じがしてしまいます。

 映画の舞台となった「ドームふじ基地」と同じような状況(昭和基地からも1,000㎞離れています)、すなわち自分が以前に所属していた共同体から隔絶したところに閉じ込められて、別の仲間と共同体生活を営んでいるような状況を考えてみましょう。

 例えば、この間若田宇宙飛行士が活躍した国際宇宙ステーションの場合が思い浮かびますが、そこでの食事の役割はどうでしょうか?
 もとより、料理を専門とする飛行士などおりませんし(通信担当とか車両担当の飛行士もいないでしょう―操縦担当の飛行士が相当するのかも?)、また、食事といっても、予め調理されたものが袋に入っていて、それをチューブを使って飲み込むだけのようです。『南極料理人』のように、テーブルを囲んで、共同生活者が談笑しながら食事をするわけでもありません。
 映画と同じような状況に置かれているからといって、食事が中心的になるとは限らないようです。
 では、宇宙飛行士は何をやっているのでしょうか?若田宇宙飛行士の場合は、「きぼう」に船外実験施設を取り付けるなど大忙しでした。他の宇宙飛行士にも、それぞれ様々な業務が山のように与えられているようです。

 翻って、この映画において越冬隊員は何をしていたのでしょうか?車両担当の隊員は、いつも雪上車の中でマンガを読んでいますし、通信担当の隊員はバターをこっそり食べている始末です。映画において仕事らしい仕事をこなしていたのは、雪氷学者の生瀬勝久くらいです。ただ、それも遊びの片手間にやっているように見えました。

 元々、この基地は氷床コア掘削をメインに行うために設けられているようです。ただ、その業務にどんな意義があるのでしょうか(注)、また、わざわざ人が極点近くで越冬しなければできない作業なのでしょうか(自動計測で必要な情報が得られることから、富士山の測候所も5年ほど前に無人化されました)?

 映画ではそうした辺りがごくサラッとしか説明されていないために、この映画から漂ってくるのは、なんとなく集まった8人の男たちが、一応は閉じ込められた状況の中ではあるものの、美味しい食事を食べながら楽しい共同生活を送っている、などといった随分とノーテンキな雰囲気です。
 やはり、〝人はパンのみに生きる〟ではなく、何か切実な目的があってこそ初めて食事にも意義が出てくるのではないか、そこら辺りをもう少しこの映画は描き出すべきではなかったか、と言いたくもなってきます。

 とまあグダグダ書いてしまいましたが、こんなどうしようもなくつまらないことは一切考えずに、この映画は、単純にそのホノボノとした雰囲気を楽しむべきでしょう!

(注)Wikiによれば、概略次のようです。
「氷床コアとは、氷床(陸地を覆う氷河の塊)から取り出された筒状の氷の柱で、コア掘削機によって掘り出され、樹木の年輪など他の自然物の記録のように、気候に関する様々な情報を含んでいる。氷床コアの上層は一枚一年に相当するが、氷の深度が深くなるにつれ、自重により一年分に相当する氷の層は厚さは薄くなり、年縞は不明瞭になってゆく。ただし、適切な場所から得られるコアは撹乱が少ないので、数十万年にさかのぼる詳細な気候変化の記録が得られる」。



サマーウォーズ

2009年09月05日 | 邦画(09年)
 吉祥寺のバウスシアターで長編アニメ「サマーウォーズ」を見ました。



 アルファブロガーの小飼弾氏が、そのブログで、「これは間違いなく、映画史に残る作品。その意味において本作品の重要性は、Star Warsに勝るとも劣らない」とか、「本作を観ずにして、この夏は終わらない」とまで言っているので、それではと出かけてきました。
 土曜日に行ったせいかもしれないところ、2時間前に売り出される整理券を買うのにもズラッと人が並んでいるのには驚きました(おそらく毎回満席のようです)。

 確かに、映画は、画像が素晴らしく綺麗で、かつストーリーもなかなか面白く(コミカルなタッチのところが随分とあります)、大人が見てもこのアニメにぐいっと引き込まれてしまいます。

 ただ、気にならないところがないわけではありません。

 このアニメに対しては、映画評論家の面々は総じて高い評価を与えています。

 上記の小飼氏は、「まず、大家族というものをこの21世紀に堂々と持ってくるということ自体がすごい」とします。

 精神科医・樺沢氏も、その「まぐまぐ」の「映画の精神医学」(8月11日第340号)において、次のように述べます。
 「「サマーウォーズ」がおもしろい。予告編を見ると、何か高校生を主人公にした青春映画の雰囲気ですが、実際はもっともっと奥深いテーマが描かれています。日本人が失いつつあるもの。あるいは既に失われているかしもれない、人と人との結びつきの大切さ。古き良き日本の文化。そうしたテーマが、インターネット上の仮想世界OZ(オズ)のトラブルといった最も日本的ではない、ある種、テクノロジーの最先端とのコントラストの中であぶりだされていきます」。
「「サマーウォーズ」における陣内家のような大家族というのは、別にそれほど珍しいわけでもなく、何十年か前ではごく当たり前の風景。あるいは、今、お盆の時期、10人以上の親戚が集まっているという家もあるはずです。失われつつある日本の風景ではあるけども、まだ完全に失われたわけではない、日本の大家族。こうした誰もが共通体験として懐かしさを感じられるシーンが、「サマーウォーズ」にはちりばめられています」。

 渡まち子氏は、「核家族は当たり前、隣に住む住人の顔も知らず、隙あらば引きこもってネットの世界に埋没する日々。人間関係の温もりと煩わしさのどちらも知らない、イマドキの若者にとって、総勢30名に及ぶ旧家一族が顔を揃える“個性豊かなご親戚”という構図こそ、ミラクル・ワールドではあるまいか。この物語は、秀作アニメ「時をかける少女」のスタッフが再結集して放つ、人呼んで“大家族アクション・ムービー”」と述べて、80点もの高得点を与えています。

 どうやら、長野県上田市の陣内家の屋敷に参集する30人もの大家族のお話に評論家諸氏は皆感動しているようです。
 この陣内家は、室町時代からの武家の家系で、「当主」の90歳になる陣内栄(ヒロインの曾祖母)の誕生日会が数日後に開かれるとのこと。それで一族が集まったわけです。



 ですが、陣内栄の息子達は一人でやってきているからかまわないものの(結婚相手が存命なのか死んでいるのかは不明)、その子供達(栄の孫)となると結婚相手を伴って来ています。
 この場合、いうまでもありませんが、栄の孫にしても、栄の息子達の結婚相手の方の家族にも入っているわけです。まして、栄の曾孫ともなれば、モットたくさんのよその家族の一員でもあるわけです。

 男系の家制度(家父長制)が守られていた戦前ならともかく、今や殆ど「家」といっても結婚式に使われる符牒の意味合いしか持たなくたってしまっている中で(注)、どうして夫婦という単位を越えた「大家族」というアナクロがここにきてプレイアップされ、かつまた評論家達が絶賛するのか、いくらノスタルジアに浸りたい人が多くなってきているとはいえ(欧米の市場原理主義から日本を守れということでしょうか!)、実に不可解な感じがします。
(よくTV番組で「大家族」がとりあげられますが、その場合は、夫婦と大勢の子供達といった意味合いしか持っていないのではないでしょうか)。

 例えば、ヒロインの高3の女子高生が、恋人役として主人公(同じ高校の2年生)をつれて上田の屋敷に行きますが、最初に話題になるのが、主人公が「当主」のお眼鏡にかなうかどうかという点なのです。ですが、「当主」とは?

 (注)評論家の小谷野敦氏が、そのブログで、今年の芥川賞直木賞贈呈式の模様を書いていますが、その中に、「前方左手には「磯崎家」「北村家」と書かれたテーブルがあって、まるで披露宴のようだ。モブ・ノリオの時は「モブ家」だったのだろうか。だいたい北村さんって本名じゃないし」とあり、笑ってしまいました(モブ=mobとのこと!)。

 さて、この映画にはもう一つ気になるところがあります。
 すなわち、70点を与えている前田有一氏が言うように、この作品では二つの世界が描かれています。すなわち、「映画ではこのOZと現実社会が交互に描かれるが、その両者の質感の違いが強調されていて面白い。OZ内はいかにもCGといった硬質な描写で、アクションシーンはたいていここで行われる。一方現実世界は、手描き絵画風の暖かいもの。美しき日本の田舎風景を堪能できる」。

 また、服部弘一郎氏も、この「OZと現実社会」について、それぞれ「『デジモン』や『ぼくらのウォーゲーム』のアクション・アドベンチャー路線」と「『時をかける少女』の甘酸っぱい思春期ドラマ」だとして、今回の映画ではそれらが組み合わされ、「細田監督にとってこれまでの集大成となる作品なのだ」と述べています。



 ただ、この二つの世界はそれぞれ出所があるようなのです。
 Walkerplusのニュース記事(7月24日)には、次のように書かれています。
一方で、「劇中に登場する「OZ」と呼ばれる仮想都市のビジュアル。PCや携帯電話の中で、白を基調とした楕円のキャラが飛び交う仮想世界は、細田監督がかつて現代美術アーティストの村上隆とともに手がけたルイ・ヴィトンのイメージ映像「SUPERFLAT MONOGRAM」(03)を彷彿とさせる」。
 他方で、「古きよき日本家屋や美しい自然のビジュアル。こちらは『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』といったジブリ作品で美術監督を務めた武重洋二が手がけており、背景画の美しさを見ているだけでも心が洗われるかのようだ」。

 となれば、映像に関しては、村上隆と武重洋二に負っているということになり、勿論それらをうまく接合した監督の手腕は認めるものの、監督のクリエイティブな面はどこを探せばいいのか、ということにならないでしょうか?

 というようにこの作品について2点ばかり気にはなりましたが、まあそれはそれとして、久しぶりで上質のアニメを見たなと楽しい気分で映画館を後にしたところです。