映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

千年の祈り

2009年12月15日 | 洋画(09年)
 「千年の祈り」を恵比寿ガーデンシネマで見ました。

 予告編からかなり地味な映画なのではと思いましたが、多額の資金をつぎ込んで制作された映画(刺激的ですが大味なものとなりがちです)よりも、こうした感じの作品の方を好むものですから、時間があったら見てみようと思っていました。

 実際のところも、予告編通りの大変地味な仕上がりとなっています。
 12年前に中国から米国に行ってそこで生活している娘のところに、中国から父親が訪ねてきます。その目的は、離婚した娘の状況を見て、再婚を勧めることにあるようです。
 ですが、娘の方は、父親にわだかまりを持っていて、この訪問を快く思ってはいません(娘は、父親と夕食を一緒に取るのを避けるために映画館に行ったりします)。
 そのわだかまりが、父親の告白によって解消されるものの、やはり二人はそれぞれの道を歩んでいくことになるでしょう。
 と言ったようなストーリーで、それ自体には特筆すべきものはありません。

 ただ、父と娘の物静かな会話、父親が昼間公園で出会ったイラン人の女性との交流(英語と中国語とペルシア語(?)が入り混じったとても奇妙な会話です)、モルモン教勧誘員と父親とのとんちんかんな会話などによって、この映画が随分と厚みを増し、ラスト近くで父と娘がベンチに並んで座って前を流れる川を見るときの光景は、お互いの会話自体は少ないながらも、二人の来し方を思いこれからのことを考えている様が実によく出ていて、感動を呼ぶものとなっています!

 父と娘という普遍的な地平と、異国における少数民族同士の交流という特殊米国的な地平とが交錯して描き出されていて、素晴らしい映画に仕上がっているなと思いました。

 なお、「映画ジャッジ」の諸氏は次のように述べていますが、それぞれ問題があるように思われます。

 まず、服部弘一郎氏は、「父娘の対話は小津安二郎の映画を連想させるが、ウェイン・ワン監督はそれを十分意識しながらこの映画を撮っているようだ。父を演じたヘンリー・オーはさながら小津映画の笠智衆のようだ」として70点を与えています。
 それほど問題というわけではありませんが、監督が小津安二郎を意識していることはオフィシャルサイトや劇場用パンフレットに既に明示されているところで、こうして態々言われてもと思ってしまいます。

 次に、前田有一氏は、冒頭で「『千年の祈り』は、アメリカの中で、中国人とイラン人が仲良くするというお話」だとしたり、「中国、イラン、やがて途中からロシア人まで絡むこの奇妙なドラマの終結点ははたして?」などと書いていますが、こんなチャランポランでいい加減なプロの映画評は初めて目にするものです!
 この映画を見て、いったい誰が「アメリカの中で、中国人とイラン人が仲良くするというお話」が本筋だと思うのでしょうか?父親とイラン人女性との交流は、この映画に挿入されたエピソードの一つにすぎないにもかかわらず、それがこの映画のメインのストーリーだとするのはどうしてでしょうか?
 それでも、末尾で、「予想を超えるほど心震える、深い感動を与えられるラストシーン」として70点を付けているので、マア許せますが。

 さらに、福本次郎氏は、「しきたりに縛られた中国で生きてきた父と、米国に渡って自由を謳歌している娘」について、「映画は抑制のきいたタッチで彼らの葛藤と和解を描」くが、結局のところ、「古い価値観が新しい価値観に駆逐されていく、その寂しさが身にしみる作品だった」として60点をあたえているのはヨク理解出来ます。
 ところが、イラン人女性が、医者の息子がいるにもかかわらず、「老人ホームに送られたと知って、シー(父親)は己の行く末を予感するのだ。老人は家族が面倒をみる、中国でもイランでも当たり前なのに、米国では個を尊重するあまり、老いた親はホームに入れられる。イーラン(娘)以外に子供がいないシーにとって、彼女の境遇をわが身に重ねたに違いない」と述べています。
 ただ、以前は家で家族が介護するのが普通だった日本でも、老人ホームに入る高齢者がこのところ増えている状況を鑑みると、「個を尊重するあまり、老いた親はホームに入れられる」というより、勿論様々な要因はあるにせよ、設備の整った「老人ホーム」がたくさん建設されているかどうか、という点がクルーシャルな問題なのではないか、とも思えてきます。
 モット言えば、福本氏は、“個人主義の西欧、家族主義の東洋”という古色蒼然としたものの見方から脱却できていないようにも思われます。
 この問題は、ごく単純に言ってしまうと、昔は、経済状況が厳しかったがために、十分な数の老人ホームが確保されず、老人の世話は各家族でやらざるを得なかったものの、経済力が高まってくると次第に設備の整った老人ホームがたくさん建設されるようになって、老人の世話も家族の手を離れるようになってきた、という事態の流れではないかとも考えられます(むろん、そのほかの要因も考慮しなければならないでしょうが)。



象のロケット:千年の祈り


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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
父と娘。 (BC)
2009-12-26 23:03:57
クマネズミさん、はじめまして。
~青いそよ風が吹く街角~のBCと申します。
『千年の祈り』と『戦場でワルツを』のトラックバックありがとうございました。(*^-^*

『千年の祈り』は父と娘がベンチに座り、
日常の中のこれからを見つめていくような空気が伝わってくる
ラストシーンが印象的でしたね。
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