映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

母なる証明

2009年11月23日 | 洋画(09年)
 「母なる証明」を渋谷のシネマライズで見てきました。

 韓国映画については敬遠気味で、今年は「悲夢」に次いで2作目にすぎません。とはいえ、評判がかなりいいので、これぐらいは見ておこうと思ったわけです。

 映画の冒頭は、草原に年配の女性が遠くから歩いてやってきて、手を振りかざしながらゆっくりと回りながら踊る場面、次いで、その女性が漢方薬を作っている店の前で息子トジュンが車にはねられる場面となり、繋がりがよくわからないながら韓国映画特有のどぎつい内容になっているな、とは思ったものの、次第に映画の中に引き込まれていきます。

 息子が不良の友達ジンテと遊んでいるなと思ったら、突然、女子高生の殺人事件が起きて、トジュンは犯人として警察に捕らえられてしまいます。母親は息子の無実を信じ、何とか釈放させようとあちこちを駆けずり回わり、その挙句の果てに……という具合に映画は進展します。

 この映画では、殺された女子高生の遺体が異様な格好で建物の屋上に置かれていたりするなど、物語的にも意表を突く場面がありますが、それだけでなく、映像としてもトテモ印象的なシーンがいくつかあります。
 母親とかその息子などの顔をドアップで映し出す一方で、母親が息子の友人の家とか廃品回収業者の家に行く場面などでは、遠距離から母親をごく小さく捉え、むしろその背景となっている山などを異常なほど大きく映し出しています。
 また、床にこぼれた水に指の先が触れそうになるシーンとか、息子の尿の流れた後を母親が始末するシーン、殺された男の頭部からあふれ出す体液を拭き取ろうとするシーンなど、監督の液体に対する強いこだわりがうかがえます。
 さらに、息子が接見室の鉄格子から見せる眼とか、殺された女子高生の逆向きの眼、そして母親の息子を案じる眼など、眼を巡る映像も忘れ難いものがあります。

 こうした様々なシーンの積み重ねから、母親の息子に対する限りない愛情が映画の隅々にまで滲み出てきて、最後まで観客は画面から目を離すことができなくなってしまいます。

 特に、この母親を演じるキム・ヘジャには感心いたしました。1941年生まれで既に70歳近いわけですが、その内に情熱の熱い塊を秘めた演技から、もっとずっと若く見えます。
 劇場パンフレットに掲載されている経歴を見ると、映画と言うよりも専らTVドラマで活躍してきた人で、「韓国の母」とも言われているようです。そういうと、私などは「三益愛子」を連想してしまいますが、彼女のようなジメジメした厭らしさは微塵も感じられません。年恰好からは「吉永小百合」に近いのかもしれませんが、いくつになっても“お嬢様”らしさが抜けきらない後者とも比べられないでしょう!

 「映画ジャッジ」の評論家諸氏も非常に高い点数を与えているところです。
 渡まち子氏は、「本作は、とりわけ母親であることの原初的な力強さを感じる、すさまじい映画であ」り、「単純にジャンル分けできない複雑さがある物語なのだが、終盤の母親の心理描写は、名女優キム・ヘジャの熱演、物語の衝撃的な展開とともに、圧倒される」として80点を、
 福本次郎氏は、「この結末では被害者やトジュンの身代わりになった少年は救われず、非常に後味が悪かった」ものの、「映画は彼女の直情的な行動の裏にある繊細な感情を丁寧に掬いあげ、映像は息のつまりそうな緊張感をはらんでいる」として、この評論家にしては高めの70点を、
 小梶勝男氏は、「タイトルだけ見ると母の愛や正義を描いた映画のように思われるかも知れないが、そんなすっきりする作品ではない。描かれるのは母の狂気であり、母の闇だ。それは、韓国社会全体を覆う闇なのかも知れない」などとして92点もの高得点を、
それぞれ与えています。
 私もこの映画は高く評価したいと思います。

 ですが、問題点がないわけではありません。
 というのも、上記の福本次郎氏も若干触れていますが、この映画で焦点となるのは女子高生を殺した真犯人は誰かですが、当初、母親の息子とされ、それが最後には別人物となるものの、息子にしてもその別人物にしても、いずれも程度の差はあれ知的障害者とされているのです〔精神鑑定を受けるまでもなく、外見から明らかなように設定されています〕。

 すなわち、トジュンにしても、事件のあった日の夜のことについては何の記憶もありませんし、またこの別人物も、その点について(それどころか他の点についても)何の反応も示しません。
 となると、いずれが犯人だとしても(映画では明らかにされますが)、通常人と同じようにはその責任を追及できなくなってしまい、結果としてこの物語を支える切迫性そのものが消失してしまうのではないでしょうか〔囚われている警察から解放することが問題ではなく、治療施設で治療を受けさせることの方が重要なことになってくるでしょうから〕?

 また、真犯人を目撃した廃品回収業者を母親は激情に駆られて殺してしまいますが、その業者の建物が火災にあうと殺人事件までも消失してしまう、というのも現実的ではないように思われます。まして、息子がその焼跡から、母親がいつも身に着けている鍼の道具箱を見つけてくるくらいですから、殺人の痕跡が無くなってしまうことなど考えられません〔映画では、当初の女子高生殺人事件の現場で作業している科学捜査班の姿が明示的に描き出されているのです!〕。

 とはいえ、こうした点も、ラストのバスの中の場面で、冒頭のシーンと同じように母親が踊り回わる姿を見ると、マア小さなことかもしれないと思えてくるのも不思議なことです。


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パイレーツ・ロック

2009年11月22日 | 洋画(09年)
 「パイレーツ・ロック」を日比谷のみゆき座で見ました。

 予告編を見て、これはきっと面白い映画に違いないと思い、期待を込めて映画館に出向きました。
 そして、実際のところも、予想にたがわず素晴らしい映画だと思いました。

 1960年代の初めころ、イギリスにはラジオ局が国営放送の一つしかなく、ポピュラー音楽がラジオから流れるのは法の規制によってごくわずかな時間。そこで法律が適用されない公海上の船からの電波にロック音楽を乗せて流すことが行われたそうで、この映画は、そうした「海賊放送局」が置かれた船の中で起きた様々な出来事を、コメディタッチで(そして幾分ミュージカル風に)描いています。

 なるべく余計な先入観は持たないようにしようとほとんど予備知識なしに映画を見たものですから、あのフィリップ・シーモア・ホフマンがDJの一人として登場した時にはあっけにとられてしまいました!
 なにしろ、このところ立て続けに彼の出演する映画(「カポ-ティ」「その土曜日、7時58分」「ダウト」など)を見、どれも素晴らしい出来栄えに仕上がっていましたから、これだけでもこの映画は成功が約束されているといえます。

 そんな彼が演じる米国人DJを含めた何人ものDJが、24時間ロック音楽をこの船から流し続けるのです。
 これに対して、政府はなんとかして規制しようとしますがうまくいきません。

 当時は、イギリスの人口の半分近くがこの放送を聞いたといわれ、映画でも密かに国民の皆がこの放送を楽しむ様子が描き出されます。
ですから、ラスト近くになって、この船が老朽化のために沈没寸前に至ると、公的な救助活動がなされないのを見越して、雲霞のごとく小さな救難船が救助に向かってくるという感動的なシーンになるのは、映画の冒頭からのお約束事になっているといえます!

 こうしたラストに行きつくまでに、途方もなくイカレたエピソードがどんどん挿入され、その間に60年代のロックの名曲が次々に流れてきますから、堪えられません!

 評論家の方々は、福本次郎氏は、「単発では笑えるシーンもあるのだが、それらが有機的に結びついて一つの物語に収束しているとは言い難い。もう少し整理して時の経過も分かりやすくするなどの工夫がないと、作り手だけが楽しんでいて見る者は置いてきぼりを食った気分になる」として40点しか与えませんが(どうして「一つの物語に収束」する必要があるのでしょうか?こういうハチャメチャな映画が嫌いなのでしょう、ならば何度も言うように見なければいいのに!)、さすが山口拓朗氏は、「お馬鹿さに笑って、お馬鹿さに泣いて、お馬鹿さにホロリと心温まる、出色のロック・エンターテインメントである」として85点をつけ、守備範囲の広い渡まち子氏も、「ディープな音楽ファンには、名曲の歌詞とストーリーのリンク度が不足で不満かもしれないが、ビートルズやストーンズを生んだ英国の音楽秘話と、ライト感覚の反骨精神を楽しみたい一般の映画ファンには文句なくお勧めだ」として70点を与えています。

 こうした映画は、DVDではなく、映画館で、それも大きな映画館で大音量の中で楽しむことをお勧めいたします。

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私の中のあなた

2009年10月31日 | 洋画(09年)
 「私の中のあなた」を有楽町の「TOHO シネマズ 日劇」に行って見てきました。

 予告編からすれば、お定まりの感動もの(若い子が不治の病で死を迎えるというよくあるストーリー)だからわざわざ見ても仕方ないのではと思っていましたが、何かと評判がいいので映画館に足を運んでしまいました。

 実際のところ、やっぱりこうした映画こそ、うるさいことは何も言わずに、“おすぎ”のように、「姉ケイトの苦悩、家族というもの…愛というもの…死というもの…をラスト30分、号泣し、スクリーンが見えにくい状態で考えさせられました」と言ってみたり、前田有一氏(85点)のように「ぜひ大切な人とともに見て、生と死について議論をかわしていただきたい。そういう楽しみ方が、一番適している」と格好よく言ってしまうかすればいいのでしょう。

 ですから、福本次郎氏(50点)の、「家族の意見の食い違いを表現するのに、やたらと現在と過去を混在させる編集法は、見ていて混乱するだけ。せっかくサラが頭を丸めたのだから、彼女の髪の伸び具合で時間の経過を示すくらいの親切さがほしい」といった意見は、ピントが外れていて、なくもがなということになります。

 結局の所、私も大変感動しましたが、でもそれだけでは、せっかく見たのに詰まりません。
 少しコメントすれば、
・白血病に罹っている姉のケイトについて、映画「ちゃんと伝える」とは全く違って、厳しい症状の場面が繰り返し描き出されます。こうしたシーンがきちんと描かれているからこそ、海岸に行きたいとのケイトの願いを家族全員の協力で実現させたときの場面が非常に感動的になります。
・母親役のキャメロン・ディアスは、自分の髪の毛を剃って丸坊主になる場面まで設けて、この映画に全力投入していて感動的です。
・妹のアンを演じるアビゲイル・ブレスリンは、「リトル・ミス・サンシャイン」とか「幸せの1ページ」でお馴染みですが、可愛らしさの中に大人びたものも感じさせ、その演技に唸らされます。
・ただ、いま少しわからないのは、妹アナは、白血病の姉を救うべく試験管ベービーとしてもうけられたにしても(SF的な設定になっています)、その事実をなぜ本人が知っているのか、という点です。両親や医者が口を閉ざしてさえいれば、本人は自分が生まれるにいたった経緯など分からないのではないかと思われます。
それが、この映画では、妹のアナはその事情をよく承知しているばかりか、これまでの自分に加えられた治療行為を証明する書類まで持って弁護士のところに行くのですから、いくらSF的な設定がとられているとはいえ、余り説得的ではないように思われます。


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あの日、欲望の大地で

2009年10月28日 | 洋画(09年)
 「あの日、欲望の大地で」をル・シネマで見ました。
 前田有一氏が80点もの高得点を付けていることもあり、見てきました。

 最初のうちは、次々に画面が変わるのでイライラしてしまいますが、いくつかのエピソードを分断して編集していることが飲み込めてくると気にならなくなり、それもトレーラーハウスの爆発事故を引き起こしたのが娘時代のシルヴィアだったことを効果的に映し出すための手法だと分かってくれば、マア納得できるというものです。

 とはいえ、生後2日の自分の娘を置いてシルヴィアは家出してしまいますが、シルヴィアが、自分も母親と同じような行動をとってしまったと自覚し、さらに自分の娘が同じ過ちを繰り返してしまうのを恐れたらしいというのでは、かなり薄弱な動機のように思われるところです。

 この点については、60点の福本次郎氏が、「赤茶けた荒涼とした大地と陰鬱な雲に覆われた街、トレーラーハウスに通う人妻と奔放なセックスにふける女。舞台となる風景は対照的でもそこで繰り広げられる欲望は相似形をなす。それは彼女たちが血のつながった母娘だから」と述べています。
 ですが、仮にそうだとしても、今頃“血の繋がり”を持ち出すとは随分古臭いストーリーだ、と言えるでしょう〔それも「相似形」と言うだけでは、何の説明にもならないと思いますが〕!

 そういえば、母親とメキシコ人とのトレーラーハウスにおける「奔放なセックス」は、『チャタレー夫人の恋人』における夫人と森番とが、その小屋で繰り広げたものに類似していますし〔それぞれの夫の状況も酷似しています〕、娘時代のシルヴィアとボーイフレンドとの関係は、シェイクスピアの『ロメオとジュリエット』めいてもいます。

 内容がかくも古臭い上に、娘時代のシルヴィアと大人になってレストランに勤めているシルヴィアとが同一人物である点は、やや違和感があるものの受け入れ可能ながら、ボーイフレンドについては、飛行機の操縦士姿の大人の彼が青年時代とはあまりに容貌が違っていて、とても同一人物とは思えず、最後まで違和感が残ります(尤も、大人になってからの登場時間はごくわずかにすぎませんが)。

 それに、娘時代のシルヴィアが導火線を用いてトレーラーハウスに火を点け、それが単なる火災でとどまらずに思いがけずガス爆発が起こって母親たちを殺してしまうわけですが、シルヴィアの心のトラウマになってしまうだけにしては大きすぎる事件ではないでしょうか?
 さらに、導火線の跡は爆発炎上しても残るはずではとも思え、そうであれば第三者の存在が疑われてしかるべきでしょう。にもかかわらず、この大事件が単なる「事故」で済まされてしまった、という点もあまり納得できませんでした。

 という具合に、見ながらいろいろ疑問を感じました。
 にもかかわらず、監督がさまざまな工夫を凝らしてこの映画を製作しているという熱意が、十分に観客に伝わってきますので、全体としてそれほど悪い印象は残りません。さらにまた、見終わってから色々反芻してあれこれ議論できるというのも大きな楽しみではないでしょうか?

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リミッツ・オブ・コントロール

2009年10月17日 | 洋画(09年)
 「リミッツ・オブ・コントロール」を吉祥寺バウスシアターで見ました。

 この映画の監督であるジム・ジャームッシュの作品について、初期の「ストレンジャー・ザン・パラダイス」を見ていいなと思い、その後も「ブロークン・フラワーズ」とか「コーヒー&シガレッツ」を見たりしていましたので、この映画もぜひ見てみたいものだと思っていました。

 この映画のストーリーはすこぶる単純で、殺し屋の主人公が、スペインに飛んで依頼通りに人を殺すというだけのものです。そればかりか、殺される人物がいる場所にまで主人公の辿り着く過程が、繰り返し延々と、それも動きと言葉を極端に抑制して描かれているために、見る人によっては頗る退屈な映画になると思われます。

 ですが、この「繰り返し」という点は、「ブロークン・フラワーズ」でもおなじみの手法(「コーヒー&シガレッツ」も、ある意味では同じ手法と言えるでしょう)なので、彼の作品を見ている人にとってはそれほど違和感がないのかもしれません。

 とはいえ、まず主人公が喫茶店でエスプレッソを2つ頼み、そこに組織からの指令を伝える連絡役の人物が現れて何事か話をし、最後に指令書の入ったマッチを交換して別れるというシーンが、連絡役の人物を様々に変えながらも、しつこいくらい繰り返されるのです!

 こうなると、数次にわたる連絡の積み重ねの末に実行される殺人は、さぞかしすごいことになるのではと観客も身構えるようになります。ですが、その殺人自体は頗る簡潔に描かれます(たとえようもなく警戒が厳重な住居に、どうやって主人公が侵入できたのかという誰でも興味を持つ点は、ナント省略されてしまっています!)。

 これでは、見ている方は大いに肩透かしを食らった感じを持ちます。ですが逆に、そんなことを期待すべきではなかったのかもしれないと思い直して、むしろ、そこに至る過程を反芻するようになります。

 この映画には様々の連絡役が登場しますが、どうも主人公がマドリッドにある美術館で見た絵に関係しているように描かれているな〔たとえば、ギターが描かれている絵を見ると、そのあとでギターを抱えた連絡役が登場します〕、ただそうだとしても、主人公が興味を持つ絵画は前もって決められてはいないでしょうから、それと組織からの指令とが直接的に連接するとは考えられないし、どうもそんなに理詰めで考えても仕方のない作品なのかもしれない、これはこれでそのまま素直に受け止めればいいのかもしれない、ですが仮にそうだとしても、この作品はいったい何なのだ、と考えてしまいます。

 ここまでくると、あとは評論家諸氏の出番となるでしょう。

 ただ、福本次郎氏は、例によって「結局、男の彷徨を通じて何が言いたかったのかほとんどわからなかった。「想像力を使え」というのがこの作品のテーマなのは確かだが、……、どんな解釈もなりたつ展開は、「中心も端もない宇宙」のごとくとらえどころのない茫洋としたものだった」と、相変わらず自分では考えようとせず、評論家としての仕事を放棄してしまいます。

 これに対して、渡まち子氏は、「映画は論文ではないのですべてを説明する必要はない。語られない部分に対して想像力を刺激してくれれば、その作品は十分に魅力がある。ジャームッシュのこの新作はまさにそんな1本だ」と想像力の活性化を提唱します。
 渡氏は、まさに評論家の仕事をしようとしています。ただ、その姿勢は買うものの、「刺激」を受けた結果どうなったのかは示してはくれません。
〔ここでこんなに想像力のことを持ち上げるのであれば、渡氏は、どうして「プール」についてはその力を発揮しなかったのでしょうか?やはり、ジャームッシュという名前に惹かれてしまうとしか考えられないところです〕

 最後に山口拓朗氏ですが、「受け身で見ている限り、この映画を見たことにはならない。想像力を使うことで何かが見えてくる、いや、想像力を使わなければ、何一つ見えてこないぞ、というメッセージである」と述べており、非常に前向きなので期待を持たせます。ところが、何が見えてくるのか山口氏も明らかにはしません。ただ「自分自身の未開の感性や想像力を掘り起こしたいという人にとっては、何かしらのインスピレーションを与えてくれるだろう」ということです。
 そうであれば、結局のところ、明示できないものの“何かしらのインスピレーション”があったと納得できるかどうかが、この映画を高く評価するかどうかの分かれ目となるのでしょう。

 といって、何かインスピレーションを受け取ることは、そんなに難しくはないでしょう。あの「おすぎ」までもが、「ストーリーは頭に入ってこなくても、なんとなく大好きになっている映画」と述べているくらいなのですから!

男と女の不都合な真実

2009年10月03日 | 洋画(09年)
 新宿武蔵野館で「男と女の不都合な真実」を見てきました。

 この映画は、美人で男勝りだが恋愛下手の女(アビー:TVプロデューサー)と、ワイルドでマッチョ系の男(マイク:TVパーソナリティ)が、喧嘩を繰り返しながらも結局は結ばれるという実に古典的なラブ・コメディであり、実際に見てその場で笑ってそれでオシマイということで十分だと思いました。
 “つぶあんこ”氏も、論評抜きの★二つです。

 ですが、「映画ジャッジ」の評論家諸氏は、こんな単純そのものの映画に群がってそれぞれ長々とした論評を書いているのです。まあ、こうした古典的な映画の方が、安心して論評できるからなのでしょうか?

 渡まち子氏は、いつもの3倍くらいの長さの論評で、評点も65点と甘目です(「プール」に関しては、今回の半分の長さで評点も30点だったのに!)。
ただ、「終わってみればオーソドックスな恋愛映画に納まった。とはいえ、毒を仕込んだラストは見逃せない」と述べているところ、アノ程度のラストシーンに「毒」があるとは、いやはやご大層なことです!

 山口拓朗氏は、「筋は、おおむね観客の想像のつくところ。予想できる恋愛ドラマなど見ていておもしろくない、と思う人もいるかもしれないが、本作は、展開や結末よりも、結末に至るまでの"中身"が爆発的におもしろいのだ」として70点を与えています。ただ、女主人公の「食事中のバイブ・パンティ事件や、番組内における教祖然としたマイクの大演説」などが「爆発的におもしろい」といわれても、といった感じです。

 佐々木貴之氏はモット甘く75点で、アビーが「TV番組プロデューサーということでその仕事ぶりや生放送番組の舞台裏が垣間見ることができ」るのは「興味深いポイントだ」などというメリットまで数えたてて(こうした映画で勉強までできるとは!)、さらに「成人男性はハラハラドキドキしながらもニヤニヤ笑って存分に楽しむべきだ」とのご託宣を述べていますが、いったいこの映画のどんなシーンを「ハラハラドキドキ」したと言うのでしょう!

 服部弘一郎氏も70点ですが、「この映画の弱点はアビーの王子様であるコリン(医者)にいまひとつ魅力が欠けていること。どのみち最後は主人公たちが結ばれると誰もが予想する映画ではあるけれど、それにしたって三角関係をもう少し盛り上げて「あるいは?」「ひょっとすると?」と観客を多少はハラハラドキドキさせてもらいたいのだ」と述べているところからすると、少なくとも服部氏はこの映画を見て「ハラハラドキドキ」しなかったようです!

 こうした似たり寄ったりの論評で触れられている点を除いて言うとしたら次の2点くらいでしょうか。

a.映画の原題は「the ugly truth」ながら、ゴア元副大統領の「不都合な真実(An Inconvenient Truth)」 に引っ掛けて邦題を作成した人のセンスには脱帽です(映画のタイトルとしては、チョット長目ですが)。

b.同じカリフォルニア州ながら、話の中心的な舞台である地方都市サクラメントと、ロサンジェルスとは雰囲気がまるで違うようです。前者はかなり落ち着いていて浮ついたところがないのに対し、後者は南国の騒がしい大都会です。そして、前者から後者に移動すると主人公たちは開放的になって、それぞれ自分の真の気持ちを自覚できるように映画では描かれています。ラスト近くでは、さらに気球に乗って空中に移動しますが、そこでアビーとマイクはお互いの愛を確認します。話の局面の展開にとって、こうした「移動」が大きな役割を果たすように映画が作成されているように思われました。

キャデラック・レコード

2009年09月30日 | 洋画(09年)
 「キャデラック・レコード」を恵比寿ガーデン・シネマで見ました。

 精神科医・樺沢氏によるメルマガ「シカゴ発 映画の精神分析」第342号(9月2日)に、「音楽映画としても非常に完成度が高いので、社会的なテーマを抜きにしても、純粋に音楽に感動し、物語に共感できる」とあり、「私の場合、映画が終わってから、3分くらい涙が止まらなかった」とまで述べられていたこともあって見にいってきました。

 実際にこの映画を見てみると、50年~60年代にかけてブルースからロックへアメリカ音楽が拡大していった時代を、それに大きく貢献したひとつのレーベル(「チェス・レコード」)を核にジックリと描きだしていて、私のようにこの方面に疎くとも、次々に演奏される曲を聴いているだけでジーンときてしまいます。どの歌も実によくできているのです。
 
 こうした素晴らしい映画にも関わらず、福本次郎氏は、「映画は彼らの歌声をじっくりと聴かすというサービスはせず、主人公・レナードを中心とする人々の酒と女とドラッグにおぼれる日々ばかりを描写する」などと至極ピントとのはずれた批評をしています(40点)。
 尤も、「ラジオのDJがくわえタバコのままマイクに向かってしゃべったり、ミュージシャンがところ構わず平気でタバコを吸っている。まだ、健康意識が低く、タバコの害などまったく問題にされなかった世の中とはいえ、見ているだけで気分が悪くなる映像だ」とも述べていて、そんな本筋と無関係の些細なことが気になるくらいですから、福本氏はこうした映画に全然向いていないようです。それなら見なければいいのに!

 この映画に関する批評としては、次の渡まち子氏のものが私に一番近い感じがします(70点)。
 いろいろ問題点はあるにせよ、「そんな不満をシビレるほど素晴らしい音楽がすべて吹き飛ばす。特にエタ・ジェイムズを演じるビヨンセの熱唱は心を揺さぶるもので、名曲「At Last」を聴くだけでもこの映画を見る価値があるというものだ。個人的にお勧めは、劇中で涙をためて歌う「All I Could Do Was Cry」。何度聴いても泣けてくる」。

 問題があるとすれば、渡まち子氏が、「人種にこだわらないレナードの価値観や背景も、ほとんど分からない」というように、主人公レナード・チェスがさまざまの場面で何を考えているのか、映画からはいまいち読み取り難いという点なのかもしれません。

 というのも、この映画は、レナード・チェスの伝記映画ではなく、むしろチェス・レコードというレコード会社についての話をメインに据えているからでしょう。冒頭いきなり黒人のギタリストのマディ・ウォーターズが南部の農場で働きながら歌っている場面となり、その彼がシカゴの街頭で歌っているところをレナード・チェスが見出して、チェス・レコードを立ち上げて、云々と映画は進み、ラスト近くでレナード・チェスがレコード会社を手放して死んでしまっても、その会社自体は存続して、云々と映画はしばらく続きます。
 主人公のレナード・チェスの思いなど描くつもりはないのでしょう。

 ただこの点は、樺沢氏のメルマガで補えます。
 すなわち、同氏によれば、この映画の舞台である「シカゴという土地は、人種差別が非常に少ない土地柄であ」って、その理由は、「シカゴがほぼマイノリティで構成される街」だからとのこと。 
 同氏が示している最近の統計によれば、合計 283万人の住民のうち、
   ・白人系 42.0% 119万人
     ポーランド系 7.3 % 21万人 (全米1位)
     アイルランド系 6.6 % 19万人 (全米1位)
   ・黒人系 36.8 % 106万人 (全米2位)
 要すれば、シカゴは、アメリカのマジョリティである「WASPと呼ばれる、アングロサクソン系プロテスタント」の割合が低く、カトリックや黒人といった「マイノリティーが大きな力を持っているという、アメリカでも非常にユニークな街」だとのことです(注)。

 そのうえで、樺沢氏は、この映画のポイントは、主人公である「レナード・チェスが白人であるということ」であり、ポーランド系移民の「白人であるチェスが、全く人種的な偏見を持たず、素晴らしい音楽は素晴らしい、黒人も白人も関係なく多くの人に伝わるはずだ、という信念のもと、身を粉にして黒人シンガーの売り出しに命をかける点」だとしています。
 なるほど、こうした背景があるのであれば、レナード・チェスが、黒人のギタリストのマディ・ウォーターズに「自分は偏見を持っていない」と簡単に肩ひじ張らずに明言するのもよく理解できます。

 このレナード・チェスを演ずるのは、『戦場のピアニスト』の主役でアカデミー賞主演男優賞を獲得したエイドリアン・ブロディで、その映画ではナチス将校の前でベートーヴェンのピアノソナタを演奏する場面が印象的でした。他にDVDで『ダージリン急行』を見たことがあります。いかにもポーランド系ユダヤ人といった感じで、独特の雰囲気を持つ俳優です。

 なお、タイトルにある「キャデラック」は、大ヒットを飛ばしたミュージシャンにレナード・チェスが買い与えたものですが、それが成功のシンボルとなっているところがアメリカの黄金時代なのだな、今からすればまさに隔世の感があるな(GMの経営破綻!)、日本だったらこんな場合には車ではなく一戸建ての家を買い与えるのかもしれないな、などと思ったりしました。

(注)黒人初の米国大統領オバマ氏がシカゴ出身だということも、こうした背景があると樺沢氏は述べています。すなわち、オバマ氏は、大統領になる前は上院議員でしたが、「黒人の上院議員は米史上、6人しか輩出されていない」ようで、そういう点からして、「アメリカ初の黒人大統領がアメリカでも人種的偏見が非常に少ない街「シカゴ」から生まれたことに、私はある種の必然性を感じる」と述べています。

セントアンナの奇跡

2009年09月19日 | 洋画(09年)
 「セントアンナの奇跡」を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見てきました。

 前田有一氏が、この映画につき、「社会派スパイク・リー監督らしいブレない主張性と、老練な映画作りのテクニックの両方を楽しめる、通向きの一本だ」と述べているので、別に「通」ではないものの、そんなに言うのならと日比谷まで出かけてきました(映画館は、以前の日比谷シャンテです)。

 確かに、前田氏が言うように、「白人─黒人の対立軸をメインにおいているが、同時に他の様々な対立軸も絡んでくる。ドイツとイタリア、パルチザンと住民、男と女、少年と大人……」と、実に様々なレベルのエピソードがこの映画の中には詰め込まれています。そして、これらの「多くの伏線を残さず回収することも、この監督レベルであればたやすいこと」なのでしょう。

 ただ、純粋培養的な日本のタコ壺社会に漬かっていると、こうした様々の対立軸に出くわすことが余りないためか、映画の背景となる個々の事情がよく分からず、結局のところ、十分な説明が与えられないまま素材だけがたくさん投げ与えられたような雑然とした印象しか残らなくなってしまいます。

 たとえば、映画の冒頭の方で、イタリアにおいてナチスのドイツ軍と闘っている現地軍の指揮官(白人)が、非常に無謀な渡河作戦を強行させたために、「バッファロー・ソルジャー」と呼ばれる黒人だけで編成された歩兵部隊(第92歩兵師団)は手ひどい損害を被ってしまいます。事前の各種の情報を無視し、かつ偵察行動も一切取らないでこんな作戦をとってしまう指揮官の存在など、日本軍ならいざ知らず、あまり考えられないところ、アメリカにおける激しい人種偏見からすると、こうした非常識なこともありうる話だなとある程度納得できます。

 ただ、この映画のメインとなるのは、このバッファロー・ソルジャーに所属する4人の軍人ですが、イタリアの小さなの中に取り残された彼ら4人の救出のために、米国軍が白人の部隊を出撃させたとなると、本当なのかと訝しく思えてきます。
 ところが、Wikiの「スパイク・リー」の項目によれば、「人種差別が当然のように行われていた当時のアメリカ軍において、黒人兵が戦闘兵科に付いたのは1944年12月ヨーロッパ戦線におけるバルジの戦い前後からのことであり、硫黄島攻略戦当時においても黒人兵はアメリカ軍上陸部隊の1%に満たなかった」とのことです〔バルジの戦い以前の“史上最大の作戦”には、白人しか参加しなかった!〕。
 こうした背景もあって、イタリア戦線に投入されたバッファロー・ソルジャー部隊については、米軍上層部が強い関心を持っていて、それで上記の救出につながったのだなと理解できます。(ただこうしたことがわかるのは、映画を見終わって自宅で調べるからにすぎませんが)。

 また、4人は、逃げ込んだトスカナ地方の小さなで、住民(=白人)たちから偏見のない扱いを受け、アメリカ国内での処遇の酷さとのあまりの違いに驚きます。とはいえ、大航海時代のスペイン人の南米における現地人大虐殺の事例からしても、ヨーロッパ人が人種偏見を持たないとはトテモ思えず、そう簡単にこのエピソードを鵜呑みにもできないところです。

 一番引っかかってしまうのは、やはり「奇跡」に関することでしょう。私のような無宗教の者とか無神論者からすれば、こうした「奇跡」がなくとも、十分に映画のストーリーは成立するのでは、とも思えるところです。
 それに、この映画における「奇跡」はいったい何を指しているのか、今一よくわからないところがあります。この映画の副主人公である少年アンジェロがもたらすものなのか(たとえば、壊れていた無線機が治ってしまう現象など)、聖母の彫像の頭部がもたらすものなのか(それを持っていたせいか、取り残された4人の黒人兵のうちの1人が救出されます)、あるいはロザリオによるのか、そのような具体的なことではなくもっと漠然としたことなのか、結局よくわからないままとなってしまいます。
 特に、歴史的事実として起きたのは「セントアンナの虐殺」であって、それをなぜタイトルで「セントアンナの奇跡」と言い換えるのか、その深い意味合いは理解しがたいところです。

 という具合に一つ一つのエピソードを後になってバラバラにほぐしていくと、こちらの知識のなさもあって十分に理解できない点が出てきて、本当にそんなことがありうるのかと思いたくなる場面がいくつもみつかります。
 ですが、そうしたエピソードが次々に積み上げられ一つのストーリーとしてまとめあげれてくると、あまり細かいところにこだわらずに素直に受け入れて、まあそんなことかもしれない、こういう映画をつくるにはそうした話の持っていき方も必要なのかもしれない、と思えてきます。

 オバマ大統領の誕生以来、アメリカにおけるマイノリティの問題がクローズアップされ、日本で公開されるアメリカ映画にもそうした傾向がうかがわれ、今回もそうした流れの一つのように思われます。そうした意味でも、注目すべき作品ではないか、と思いました。

バーダー・マインホフ  

2009年09月09日 | 洋画(09年)
 「バーダー・マインホフ  理想の果てに」を渋谷のシネマライズで見てきました。

 このところ日本で、1960年代後半~70年代前半にかけて驚くべき事件を引き起こした“赤軍派”のことがあちこちで取り上げられています。
 昨年3月には若松孝二監督の映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」が公開されました。ブログ゛「情報考現学」(8月4日)で「まだ連載中で単行本3巻までだが凄く面白い」と述べられている長編漫画『レッド』(山本直樹:講談社)も、事件のことを取り扱っているものです。さらに、慶大教授・小熊英二氏の最新著『1968』(上下ともそれぞれ1,000ページをこえる大著!)の下巻第16章でも連合赤軍が取り上げられています。

 すでに30年以上も昔のことにもかかわらず相変わらず高い関心があるのは、やはりなぜあんなこと(リンチ殺人事件とあさま山荘事件)が起きたのかが、なかなか解けない謎になっているからでしょう。あるいはそこに日本特有の問題点が見出されるとして、様々な角度からメスが入れられているのだと思われます。
 さらには、団塊の世代の人たちが、第一線から退くに当たって、大学闘争から連合赤軍事件までのことについてキッチリと整理しておきたいと考えていることもあるでしょう。
 私も、彼らの思想云々ではなくて(マルクス主義革命などは死語になってしまいました!)、あの事象そのもの、一体あのの事件は何だったのか、という点に関心を持ってきました(単なる好奇心の域を出ないものですが)。

 そういう中で、「ドイツ赤軍派」を取り扱った映画が日本でも公開されたので、これは見に行かずばなるまいと渋谷に出向きました(あわせて、外国映画部門のアカデミー賞を「おくりびと」と争った映画でもあるのでどんな作品なのかなという興味もありました)。

 この映画では、女性ジャーナリストのマインホフが、バーダーやその愛人らと手を組んで、超過激な極左組織のバーダー・マインホフ・グループを結成し、様々のテロ行為を犯します。結局は皆逮捕されてしまうところ、まずマインホフが、民間人を爆弾テロに巻き込んこんだことなどを気に病んで精神に変調を来して刑務所内で自殺し、バーダーらも、パレスチナの同志によるハイジャックによって出獄しようとしますが、それが出来ないことが分かると、同じく刑務所内で自殺してしまいます。

 これがこの映画のあらましですが、その間に、要人の誘拐・暗殺、銀行強盗、爆破、ハイジャックなどの凄まじいテロ行為がこれでもかという具合に何回も描き出されます。
 実業家のシュライヤーの誘拐・射殺事件は、日本でもかなり大きく取り上げられたので知ってはいたものの、そのほかの事件は報道があったとしても覚えていませんから、この映画でRAFの過激振りが漸くわかったことになります。

 日本の赤軍派の影響を受けて、彼らは自分たちを「ドイツ赤軍派(Rote Armee Fraktion、 RAF)」とも呼んだようですが、映画からすると、その行動形態は日本の赤軍派とはかなり異なる感じです。たとえば、
・日本の赤軍派の場合、実際のテロ行為はかなり小規模なこと(確保できた武器が小振りなためかもしれません)。他方、ドイツ赤軍派は、要人の誘拐・暗殺など随分と派手な事件を引き起こしています。
・日本の赤軍派の場合、グループ内の統制にかなりのウエイトをおいていること(「総括」と称する凄惨なリンチ)。映画で見る限り、ドイツ赤軍派では、メンバーが規律でがんじがらめに縛られているようには見えません。
・日本の赤軍派の場合、重信房子がパレスチナに行ったりしますが、総じて国際的な視点が欠けていること。ドイツ赤軍派では、軍事訓練のためにグループの主要メンバーがパレスチナに渡っていますし、捕まったバーダーらの奪還のために、パレスチナ人によるハイジャック事件も引き起こされました。

 単なる印象に過ぎませんが、日本の赤軍派は、極東の狭い閉鎖空間の中でますます内部に縮こまって自滅してしまった感じです。別にドイツ赤軍派が外部に開かれていたというわけではないものの(結局は、幹部は刑務所内で自殺してしまうのですから)、なにかしら西欧と日本との違いを感じさせます。
 にしても、ドイツと日本というように距離的に酷く離れているにもかかわらず、ほぼ同時期に類似する組織が現れ、類似する犯罪行為を犯してしまったことは、実に不思議に思います。

 さて映画自体に戻ると、総じて言えば、なぜ彼らはこのような過激な行動に走ったのか、という内面的な問題よりも、むしろ彼らの行ったテロ行為それ自体を描き出すことに主眼が置かれているように思えました。
 そうした観点から言えば、同じような実録ものですが、「サガン」に類似していて(サガンの内面の動きというよりも、サガンにまつわるスキャンダラスな事柄を次々に描き出している点で)、ラブストーリーに重点を置いた「ココ・シャネル」とは異なる描き方がされているのではと思いました。

ココ・シャネル

2009年08月30日 | 洋画(09年)
 渋谷のル・シネマで「ココ・シャネル」を見ました。

 もう一つのル・シネマの方で「クララ・シューマン 愛の協奏曲」を上映していることもあり、狭いロビーが女性客で一杯で、かつ座席の方も完売という状況でした。

 この映画は、ファッションのあれこれが描き出されるのであれば困ったなと思っていたのですが(そういう方面の知識に疎いもので)、暗に相違して、通常の伝記映画どころか、ありきたりのフィクションなど遙かに凌駕するラブ・ロマンスものでした。

 なにしろ、教会付属の孤児院にいたガブリエル・シャネルが、田舎町でしがないお針子をやっていたところ、大金持ちの若い将校に見出されてその館で暮らすようになるものの、出身階層が合わないため結婚できないと言われ、それなら独り立ちするとパリで帽子屋を開業します。
 それがうまくいかずに店を閉めようかというところに、その貴族の友人の実業家が現れ、資金を提供してくれます。ココ・シャネルは、事業がうまくいったらその実業家と結婚しようと考えていたものの、彼は昔なじみの未亡人と結婚してしまいます。ですが、やはり彼はココのことが忘れられず、クリスマスを一緒に過ごすために、彼女の元にやってこようとしますが、その途中で車の事故で死んでしまいます。そして、…、という具合です。

 実際とは違って話は随分と脚色されているかと思われるものの、実物の彼女は、この映画で描かれた恋愛話ばかりか、亡命ロシア貴族とか英国の名門貴族など様々の大物とも浮き名を流しているのですから、当たらずとも遠からずといえるでしょう。

 とはいえ、話がフィクションかそうでないかはどうでもよいことでしょう。
 ノンフィクションの伝記映画というのであれば、ココ・シャネルが、ナチス・ドイツの占領下においてドイツ軍将校と愛人関係を結んだために、フランス解放後に、対独協力者として国中から非難を浴びて、愛人とともに戦後の数年間スイスのローザンヌへ脱出し亡命生活を送ったことなどが、映画においては完全にオミットされている点を問題にすべきでしょう。

 この映画では、72歳になったココ・シャネルが回想するという設定で、上記の二人の男性との関係に絞り込んで描き出されているために(いくつもあった浮いた話はすべて省略されています)、強い印象を与えるのではないか、と思いました。
 主人公を巡るスキャンダルを数多く描き出していた映画「サガン」とは対照的な作品と言えると思います。

 さらに、このラブ・ロマンスの展開の中で、ココ・シャネルのデザイナーや事業家としての才能が開花する様もうまく描き出されます。むしろ、彼女の才能が発揮されていく展開の中でラブストーリーも進展すると言うべきなのかもしれません。
 ただ、こちらは、彼女のデザインの才能の素晴らしさを十分に評価できないために、ラブストーリーの方に目がが奪われてしまいました。

 なお、若き日のココ・シャネルを演じた女優(バルボア・ボブローヴァ)はなかなか魅力的ですし、と晩年のココ・シャネルを演じたシャーリー・マクレーンも貫禄のある演技でなかなかのものだと思いました。

 また、ココ・シャネルを取り扱った映画が今後2つほど上映されるようです。

 (シャネルのデザインに関しては、8月31日の記事を参照して下さい)