孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

「ルーマニア革命」から20年 それは2発の爆発音から始まった

2009-12-23 18:36:44 | 国際情勢

(1989年 チャウシェスク独裁政権崩壊を喜ぶルーマニア市民 “”より By Tudor Hulubei
http://www.flickr.com/photos/62313487@N00/3688200880/)

【市民の流血、未だ進まぬ真相解明】
ルーマニアは22日、かつての独裁者、故チャウシェスク元大統領による独裁政権が89年崩壊してから20周年を迎えました。
一連の東欧民主化の流れの最後にあたる政変は、ポーランド、ハンガリー、チェコの政変やベルリンの壁崩壊とは異なり、多くの市民の流血を伴い「ルーマニア革命」と呼ばれています。
そして、その犠牲者の多くがチャウシェスク独裁政権崩壊後に起こった市街戦で亡くなっていることから、その真相解明を求める声が今もなお続いています。

****「ルーマニア革命」から20年、犠牲市民を追悼*****
ルーマニアで21日、故ニコラエ・チャウシェスク大統領の独裁崩壊につながった市民による抗議運動から20周年となるのを機に、活動家らが市民犠牲者の追悼を呼び掛けた。
1989年12月21日から2日間、首都ブカレストで政権打倒を求めるデモ行進を行っていた市民に向けて、ルーマニア軍や秘密警察セクリタテアの部隊が発砲。市民48人が射殺され、数千人が負傷した。身柄を拘束され拷問を加えられた市民もいる。
市民による抗議運動は、この数日前に西部ティミショアラで始まった。このため、ティミショアラはルーマニア革命を象徴する都市となった。同市でも市民に弾圧が加えられ、約100人が死亡し、数百人が負傷している。
ルーマニアでは騒乱を通じて、計1104人の市民が死亡した。このうち942人が、チャウシェスク政権が崩壊した22日以後に犠牲となった人びとだ。
追悼呼び掛けの声明文は、こうした犠牲者を「ルーマニアの自由のために命を捧げた英雄」と呼び、「20年前、ルーマニア市民は押し寄せる全ての恐怖を乗り越え、共産政権を打倒するために立ち上がった」と、その勇気をたたえた。
こうした呼び掛けに応じて、ルーマニアの若者300人あまりが20年前に反政府運動の舞台となったブカレストの大学広場に集まり、犠牲となった市民の名が記された横断幕を掲げて、「自由万歳」「英雄をたたえよう」などと叫んで、犠牲者を追悼した。【12月22日 AFP】
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【一家社会主義】
チャウシェスク大統領は、他の東欧諸国とは一線を画し、社会主義圏の盟主ソ連と距離を置いた独自路線をとりました。
1968年の「プラハの春(チェコスロヴァキアの民主化運動)」を弾圧するため、ソ連軍を中核とするワルシャワ条約機構軍がチェコスロヴァキアに侵攻した際、チャウシェスク大統領はソ連を非難して出兵せず、国軍をソ連国境に配置するとともに、ソ連軍の介入に備えて「労農祖国防衛隊」を結成しました。
チャウシェスク大統領は動員した大勢の市民の前で「ソ連軍のチェコスロヴァキア侵攻は、欧州の平和、世界の社会主義の運命に対する重大な錯誤かつ重大な危機であり、革命運動の歴史において恥じるべき瞬間である。兄弟である社会主義国の内政に対する軍事介入は、いかなるものでも正当化はできない。私はソ連軍の一兵たりとも、我が祖国ルーマニアの地を踏ませない。片足たりとも入れさせない」と演説しています。

しかし、文化大革命や北朝鮮の強い影響を受けたとも言われるチャウシェスク政権は、すべての分野の最高決定機関の議長をチャウシェスクがつとめ、妻のエレナも第一副首相として権勢をふるうなど、北朝鮮独裁政権と同様の一族による強権支配政権・夫婦独裁体制を確立し、「一国社会主義から一家社会主義へ」とも言われるようになりました。
【“ルーマニア革命は「市民蜂起に便乗した宮廷クーデター」だった” 惠谷 治
http://www.sukuukai.jp/shiryo/paper14/pdf/3-2.pdf#search='ルーマニア より】

【ティミショアラからブカレストへ】
革命の発端は、1989年12月16日 - ルーマニア西部の都市・ティミショアラで起こった民衆によるデモ・暴動に、治安警察が発砲、多数の死傷者が出たことでした。
この地域はマジャール人(ハンガリー人)が多く居住しており、ルーマニアの貧困とマジャール系住民に対する抑圧について国際社会に救援を求める発言をしていたハンガリー改革派教会の牧師ラースローを、治安当局が連行し強制移住させようとしたことへ住民が抗議してデモ・暴動が起こったものです。
チャウシェスク夫妻はこの暴動鎮圧に空砲を使用していた治安当局責任者を厳しく叱責し、暴徒を“殺す”ように命じました。

ルーマニアにとっては“周辺的なささいな事件”から起きた騒動は、数日後には首都ブカレストに飛び火します。
ティミショアラでの事件が国内に広まったため、国内に動揺が起きるのを封じ込めるべく、21日、チャウシェスク大統領は大動員した市民の前で演説を行いました。
そして、この演説の最中に起きた2発の爆発音が集会の雰囲気を一変させることになります。
爆発音については、若者が鳴らした爆竹だったとも、労働者風の男が爆弾を爆発させたとも言われており、はっきりしませんが、一時たじろいだチャウシェスク大統領が数分後には演説を再開していますので、爆弾ではなく爆竹の類ではないでしょうか。

しかし、この爆発音を境に、“広場では「ティー、ミー、ショーアラ」というリズミカルな合唱が自然に沸き起こり、やがては「チャウシェスク打倒」の叫び声となり、「目覚めよ、ルーマニア」という愛唱歌が広場に響きわたったという。”【前出 惠谷 治氏サイトより】
広場から出た人々は通りで再び集結し、更に大勢の市民がこれに合流し、街全体に市民があふれる事態へと展開し、「ルーマニア革命」が始ります。

群衆の徹底的な鎮圧を命じるチャウシェスク大統領よって治安当局の発砲、戦車による蹂躙がおきますが、市民鎮圧を拒否した国防相が死亡したことで、大統領によって殺害されたと判断した陸軍が市民側につくなど、市街戦の様相を呈します。

【「市民の犠牲を止めるには、夫妻の処刑しかないと決断した」】
その後の事態の詳細は省きますが、チャウシェスク夫妻の共産党本部ビルからのヘリでの脱出、文化人や軍当局者らが結成した「救国戦線評議会」による権力掌握、チャウシェスク夫妻の拘束に至ります。
しかし、大統領の親衛隊による秘密の地下道を使った市民への攻撃は続いており、親衛隊による空挺部隊と戦車を動員した大統領夫妻の奪還計画も伝えられる中で、「救国戦線評議会」は事態を鎮静化させるため、大統領夫妻を臨時軍事法廷にかけ、55分の超スピード審議で死刑と決定、即座に処刑します。

“処刑執行を担当する将校は、警備していた兵士のなかから5人を銃殺隊として選抜した。しかし、警備にあたっていた兵士たち全員が、処刑執行を望んでいた。執行監督官である将校が「銃殺隊、前へ」と叫び、「撃て」と命令した。すると、5人の銃殺隊だけではなく、警備兵全員の発射音が轟いた。チャウシェスク夫妻の遺体からは、100発以上の銃弾が見つかったという。”【前出 惠谷 治氏サイトより】

処刑されたチャウシェスク夫妻の遺体の映像は国内・世界に流されましたが、私も当時TVでこの映像を観て、独裁者の処刑という展開に強い衝撃を受けた記憶があります。

革命20周年にあたり、「救国戦線評議会」議長を務めたイリエスク元大統領(79)はブカレストで毎日新聞と会見し、「その瞬間も続いていた市民の犠牲を止めるには、夫妻の処刑しかないと決断した」「混乱に乗じてパニックを起こそうとする勢力もいた。公開裁判が望ましいことは分かっていたが、市民の生命を優先するため、一刻も早い決着が必要だった。その判断は間違っていない」と語っています。【12月19日 毎日】

「ルーマニア革命」の流れをたどると、ルーマニア全体からすれば周辺的な小さな事件にすぎなかった西部ティミショアラでの騒動、集会で響いた爆発音といった偶然と、腐敗する権力、独裁体制の圧政下にある国民の高まる不満という必然の織りなす歴史の流れを感じます。
歴史というのは常にそうしたものなのでしょう。

【未だ手にせぬ幸福】
“革命後もルーマニアは汚職や勢力争いなどで政情は常に混乱。2007年に欧州連合(EU)に加盟したが、同国の経済はEU内最低レベルで、労働者の手取り給与は月額約1400レイ(約4万3千円)程度にとどまる。
今年の世論調査では、国民の9割が国内で貧困が拡大していると回答。若い世代を中心に、国民の1割近い約200万人ともいわれる人々が国外に職を求める一方、高齢者からは最低限の生活が保障されたチャウシェスク時代を懐かしむ声も上がっている。”【12月22日 東奥日報】

1999年12月、革命10周年に当たって行なわれた世論調査によると6割を超えるルーマニア国民が「チャウシェスク政権下の方が現在よりも生活が楽だった」と答えたとか。【ウィキペディア】
頻発するストライキでは、「我々はとりあえず自由を手に入れた。次は幸福を手にする番だ」というスローガンも見られたそうですが、未だその幸福を多くの国民が実感していないようです。

今月6日に行われたルーマニア大統領選の決選投票は、中道右派与党・民主自由党が推す現職のバセスク大統領(58)が得票率50.37%で、中道左派野党・社会民主党のジョアナ党首(51)の49.62%をわずかに上回り、再選しました。
あまりの僅差で不測の事態も懸念されましたが、無効票の再集計を経て、選挙で不正があったと訴えていたジョアナ社会民主党党首は敗北を認めました。
しかし、バセスク氏を推す民主自由党は少数与党に転落しており、政局の混乱はしばらく続きそうだとも報じられています。



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