これもツィッター方式で、書かせていただき、総タイトルは、書けた順番に変える可能性があります。『有元利夫の新婚生活を推理する。妻はなぜ、夫から「絵を捨ててほしい」と頼まれたのか?』が、最初のモノでしたが、夜の10時半に二番目のもの『NYの版画家ホアレスは、毎日三食NYサツマイモ入りの蒸しパンだけを食べていて、孤独死した』へと、へと変えました。そして、次の日に入って、午前三時に三度目のものへと変えております。しかし、これは、文意を総合しているものでは無くて、ちょっと、ずらした路線で書いています。だから、明日、加筆後には、また、変更するでしょう。ただ、画家とお金と言う総タイトルにしてもいいのですが、ともかく暫時これで。
副題1、『全く別方向から、考えてみる、伊藤玄二郎の、銀座への触手』
科学番組の中で、生きている・さんご・がプランクトンを捕まえる映像などを、見せてくれることがあります。触手と言うのを伸ばして餌を捕まえるのです。
私が、常に問題とする、鎌倉エージェントと言う集団は、日本人の顔と生活を送っているくせに、心理的な面での国籍は、インターナショナルであって、ただただ、自分たちの特権が守られればいいと、思っている手合いです。しかし、現代日本社会での、枢要な地位を占めているので、彼らに何事かを依頼されると、『とても大切なことを頼まれた。絶対に言うことを聞くべきだ』と思い込んでしまうのが、一般の人の、頭脳みたいです。
その様に利用をされた一人が、栗田玲子さんであって、頼んだ方は、伊藤玄二郎です。そして、私は栗田玲子さんが、源泉となっているいじめを散々に受けてきています。ところで、これは、個人的な問題ではなくて、パリの同時多発テロ問題も、・・・・・本当のことを言えば、・・・・・彼女について、私がこれから更に書いて行くことを止めさせたいという趣旨で、行われていると、私は見ています。しかし、そういうときこそ、それを、中断させてはならないのです。栗田玲子さんについて、言及することは、旭化成疑惑の、嘘部分を分析する事にもあたりますし、寝屋川事件の真実や、熊谷事件の真実を検討し、現代日本社会の、ありとあらゆる隠された真実を分析する事へも、つながるからです。
しかし、この章では、彼女ではなくて、彼女より以前から、伊藤玄二郎と接触があった画廊と、そのオーナーについて、語りましょう。
~~~~~~~~~~~~~
副題2、『柴田悦子画廊のオーナーは、国文学科出身だそうですが』
銀座一丁目に、柴田悦子画廊と言うのがあります。特色のある展示を続けているところです。まず、*1)現代アートの世界では、めずらしい日本画の画材を使った作家のものも多い。しかも、具象系のテーマの作家が多いということがあります。
多摩美には、日本画を教える科目があるのでしょう。そこ出身の画家、または、東北芸術工科大学出身の画家で、日本画の画材を使って、抽象画(または、現代アート系)の作品を発表する画家の個展はよく見ています。しかし、それらは、作家側にとっては、研究やら発表を、主旨とする作品群であって、買い手としては、美術館、もしくは相当にハイレベルな好事家と言うレベルのもので、たいていは、売ることを目途としてはおりません。
一方で、柴田悦子画廊での、展示品は、サイズも小さくて、誰もが、好きなら、自分の為に買おうと思う様な作品が多いです。テーマも、とてもわかりやすいものを、選んでいるケースが多いです。これは、画廊としては、どちらが上かとか、下かとか言う問題ではなくて、パリなどは、こういう傾向で、運営をされている画廊が多いという事であって、日本の様に、一週間ごうたいで、新しい展示品を展示できる貸画廊システムの方が、独特なのですね。ただ、貸画廊で、展示されている作品は、文章の世界でいうと、純文学にあたると、思います。それで、清新な気分にさせてもらえるものが多くて、私は、そこで、作品を見ることを好んでいるのです。だから、日本のシステムも得難いところはあると思っております。
もう一つの流れがあって、それは、週刊誌や、文芸誌などで、イラストを発表している様な画家の作品もよく展示をしてあるという事です。ある時に、明瞭に、鎌倉春秋社で、イラストを、使ってもらっている画家の個展があったので、「柴田さんは、伊藤玄二郎さんとは、しりあいなのですか?」と質問をすると、「そうですよ。私は国文学科の出身なので、文章についても興味があります」と言う答えをもらっています。
このやり取りですが、2006年の、私が月刊ギャラリーの連載をしていた頃に、交わされたと、覚えております。その時点では、私はやや、社会的地位が、上だとみなされていて、やや、大切にされていたので、長年の疑問を、柴田さんにぶつけてみたのですが、推察通りでした。
と言うのも、柴田悦子さんには、微妙な方法で、いじめられていました。だから、裏に、伊藤玄二郎が居て、讒言を入れ込んでいると、推察していましたが、この日、確認ができたわけです。で、「伊藤玄二郎は、栗田玲子さんよりも、ずっと以前から、長期にわたって、柴田悦子画廊を舞台として、銀座を支配していたのだ」とも言えます。だから、栗田玲子さんの籠絡の手法も、上手だったわけです。柴田悦子と言う、先例というか、練習台、があったのだから。
だが、悦子さんは、頭のよい人だし、柔軟性もあるので、尻尾をつかませないというやり方で、いじめて来るのです。だから、私は、その頭脳レベルの高さを、愛でて、彼女について、実名入りで、その所業を、書いたことはありません。明瞭なるいじめをしてくる画廊が、20年前から、二つありましたが、その二つを比較をすると【画廊るたん】の中島さんなど、野暮の骨頂だということになります。柴田悦子さんの方が、はるかに、洗練度が高い女性です。
今般、彼女について、実名入りで、触れているのは、ひとえに、伊藤玄二郎たち、鎌倉エージェントが、行ってきている悪が、ひどすぎるから、とうとう、相当に、気合を入れて、彼を分析しようとしていて、そのためには、瓜南直子さんについて、さらに、書いていく必要があって、それゆえに、柴田悦子さんにご登場を願うわけです。
~~~~~~~~~~~~~~
副題3、『有元利夫・家の、新婚生活を推理する。妻はなぜ、<絵を捨ててほしい>と、夫から頼まれたのか?』
ここで、いったん瓜南直子さんから離れます。ちょっと、別のところへ寄らないと瓜南さんについても語れないので。
日曜美術館で、物故作家について、特集をすることがよくあります。8日も若林いさむ特集だったのですが、有元利夫特集だった時もあって、(今、見ると、再放送が、2003年とある)奥様が、しみじみとした静かな様子で、「・ありもと・から、あなたは、絵を捨ててほしいと、言われました」と、おっしゃったのです。しかし、この部分ですが、奥様は、事情のうち50%しか、語っていないと、私は推察しています。だって、これだけを聞くと、奥様が、はい、そういたします」と言ったら、有元敏穂が、独裁者として、見えてきます。しかし、奥様は、そうは思っていないわけですね。それほど、彼は、真剣だったと、言いたいわけです。
しかし、語られていない50%のうちに、お金の秘密があると、思います。お金とは、汚い事だという通念もあるので、奥様は、そこには触れなかったのです。つまり、生活の上での必要経費を生み出すために、奥様の方が、新卒時に、いったん就職をされたのだろうと、私は推察しています。職種は先生だと思いますが、芸大出身だと、広告宣伝会社などにも入社できるでしょう。デパートなどからも求人は来ると、思います。出版社等からも求人は来るでしょう。
ともかく、奥様は、サラリーマン稼業と、主婦と、さらに、絵描きの三足の草鞋を履いた時期があったと、私は推察しています。でも、芸大出身だから、意欲もあるし、国費を使って勉強したことを、社会に返さねばならないという義務感もあるでしょう。私の妹も国立大学の出身ですが、卒業時に教授から、「あなた方は、国費で勉強したのだから、簡単に仕事を辞めたりしてはいけませんよ」と言われたそうです。
:::::::::::今、念のために、有元利夫の没年を調べ様として、wikipediaを開いたら、ありもと自身が、電通に、三年ほど、勤めています。その後、芸大の非常勤講師をして居ますが、その間も、奥様は勤めていたと、私は、考えます。40で亡くなるのですが、亡くなる直前に、お子様が生まれています。その前に安井賞を受賞しています。このころには、奥様は、サラリーマンを辞めていたと、推察しますが、・・・・・新婚当時は、奥様は、サラリーマンだったと、推察していて、だからこそ、絵はやめてほしいと、ありもととしお側から、頼まれたのだと、私は、推察します。この部分が、50%はあるでしょう。おくさまの負担が大きく、消耗が激しいのを、、彼は、見て居られなかったのだと、推察しています。::::::::::::
有元が亡くなってから、30年が過ぎているので、奥様は、画業を再開されていますね。
有元夫妻は、二人とも芸大出身です。で、学生時代から、将来結婚をする約束を交わしていたとすると、生活費をどうするかと言う問題が起こります。二人とも、実家は裕福でしょう。で、一生にわたって、食いぶちを、実家から保障をして貰えるめどは、立っていたかもしれません。
まあ、記述としては、夢のない話を語っています。お金の問題は、全く関与せず、ただ、ただ、僕に奉仕してほしいと、有元が、言ったとしたら、その方が傲慢ですよね。奥様は、愛情のこもった言葉として、それを、覚えておられるのだから、『絵をやめてほしい』は、自分勝手な亭主関白風の、言葉ではなかったと、私は、推察しているのです。
~~~~~~~~~~~~~
副題4、『NY在住の、老版画家、ホアレスは、毎日三食、サツマイモ入りの蒸しパンだけを食べていて、そして、私が去った、9か月後、孤独死した・・・・・私は、滞在中は、彼が貧乏である事には、一切、気が付いていない。そして、毎回の、三か月研修で、200万円を使っていた。彼は、私の生活ぶりが、どんなにうらやましかったであろうか? 自分が、金持ちであることを、彼に、見せつけてしまったのだ。いじわるで、そうしたのではない。ただ、ただ、それほどの、貧乏な芸術家が、NYには、居るということに、私の方が、気が付かなかっただけなのだ。その言うに言われぬ悲しさを、書いた本が、<黄色いさくらんぼ>である。これは、本屋で売らなかったのにもかかわらず、そして、実質700冊しか他人には、渡していないのにもかかわらず、AMAZONや、BOOK OFF(ネット上)で、古本が出回っていた』
私は、1998年パリで、秋に三か月、1999年に、ニューヨークで同じ時期に三か月、また、2000年の同じ時期に三か月NYに滞在しています。そして、すべての滞在時に、そこにある、最高級の版画工房に所属し、毎日、そこへ出かけて居て、大勢の芸術家に接触をしました。
逗子で、一人暮らしをしていた際には、毎日手書きで、自分が海外暮らしで、学んだことを書き記していました。だから、このブログでも下書き無しで、グングン書き進められるのです。裏に、修練として、大量に文章を、書いている過去があるからです。その時(=1999年から、2002年の一人暮らしの時期)も大量に書いていますが、それ以前にも大量に書いています。そして、それ以降も大量に書いています。だから、すらすらと、下書きの段階だけで、因果関係がまとまるのでしょう。
::::::::ここで、挿入に入りますが、その頃、こちら、自宅のある雪ノ下では、「川崎さんは、離婚をするらしい。こっちが勝ったぞ」と、言い合って、鎌倉エージェントに所属する悪人連中が、みんなで、大喜びをしあっていたらしいですよ。(苦笑)実際に、大原光孝さんから面と向かって、そういわれていますが、まったく気にも留めませんでした。
私が、こういう嫌なことがあったのよと、愚痴を言うと、母がよく、「<燕雀、いずくんぞ、鸛鵠の志を知らずん>やという、気持ちで、生きたらいいじゃあないの」と、忠告をしてくれていました。それが、できない自分だと、長らく、思っていましたが、今、人生を思い返してみると、心の中では、嘆いたり、愚痴ったりしているモノの、実際の行動としては、それを、実践していたのでした。でね、この世界で、いじめられ屋、恫喝について書いていますが、書くと同時に、昇華されて行って、ほとんど、何も傷は残っていないのですよ。それが、文章を書くという行動の真実なのです。ところが、鎌倉エージェントたちは、違う風に解釈をしているみたいですね。一度、文章化したケースは効果があったと、見て、繰り返すのです。リメイクをして繰り返します。まあ、安藤照子さんと言う、警官が偽装した、私のブログのファンが、被害が、大きいというものですから、救済してあげたくて、ふぃえすブックや、ブログ投稿をなさいなと、獅童をしてあげたことがあるのです。その時に、1000字の身辺雑記を、書くだけで、青息吐息でした。みんな文章を書く修練って、積んでいないのですね。そのことには驚きましたよ。
オランド大統領など、日揮襲撃事件の時に、マリ共和国へ、ジェット機を飛ばして、行った日から、考えると三度も、対・私脅かし用道具として、使われておられるのですが、今回だけは、彼らの目的(脅かして、文章を書くのを止めさせよう)には、逆らって、その事件については触れず、ひたすらに、銀座の画廊、ガレリアグラフィカについて、書き続けております。今回は、別の人物について、書いているので、一種の、スピンオフですが、実質的には、その一環であります。
それからね。最近10年間の私は、ひどい言論・弾圧に苦しめられてきていますが、一方で、主人が「お前ほど、恵まれている人間はいない」と、常に言う通り、非常に恵まれている人間でもあります。主婦が変身をして、何事かに、挑戦をしようとする場合、過渡期が、難しいのですね。そこが、乗り越えられないケースが多いのです。私だって、散々な挫折を経験してきています。
だが、やみくもにでも50代に、三回の、海外研修をして来たことが、今になって、大きな財産となっています。誰が認めてくれなくても、自分が自分に対して、自信があります。こういうものを書けるのは、私しかいないのだという自信があります。
英語が自由自在に使えて、ニューヨークでは、すぐさま、現地に溶け込んで、交流ができることが、大きな財産だったわけです。しかし、お金の裏打ちが無いと、あれほど、安全にして、充実した研修生活はできません。そこが、また、恵まれていると言う点です。毎回、三か月で、私費を、200万円使っています。
:::::::::ここで、挿入から元へ戻りますが、皮肉なことに、「画家などになったら、生活ができないから駄目だ」と、言っていた父が、遺産をくれたので、私は画家とか、版画家としての長い修業生活に入ることができたのでした。
しかし、お金に恵まれていた為に、他人の境遇やら、生活ぶりが、想像もできませんでした。たとえば、毎日、新聞紙にくるんだ、サツマイモ入りの、蒸しパンを持ってきて、10時間程度、版画工房に滞在しているホアレスが、朝、昼、晩と、それを食べ続けて、過ごしていたなどと言う事には。
アメリカにも、日本の、生活保護制度みたいなものがあるのかどうかを、知りません。だが、きっと、不法滞在者であるホアレスは、その種の制度を利用しようとはしなかった模様です。表向き、聞いていた噂では、彼には、日本人の奥さんが居るという事でした。彼が新聞紙にくるんで持ってくる、蒸しパンは、ふくらまし粉を小麦粉の中に入れて、蒸し器で蒸す形式のもので、日本では、昔は特に主食として、利用していたものですから、「日本人の奥さんがいるのなら、これを作ってくれるわけですね」と、気楽に考えていました。が、孤独死したと聞いては、日本人の奥さんとは、とっくに逃げていて、彼は、一人暮らしだったと判ります。包んできた新聞の方は、ただで、手に入ります。日本でいう、コンビニ(または、キオスク)風の売店には、無料のタブロイド判が、大量においてありますから。だから、彼は、本当につつましい金額で、ひと月を過ごしていたというわけです。
工房は、ニューヨーク・一・古いもので、200平米ぐらいの、スペースを、月、1000ドルで、家主さんから借りていると、所長の、ブラックバーン氏の秘書さんが言っていました。昔から借りているので、超がつくほど、お安いのです。つまり、都心(テレビか、雑誌の業界の人が良くパーティをしていたので、日本なら、恵比寿か、原宿あたり)の200平米を、月に、11万円で借りているという事。そのうちの、6万円(=500ドル)を、私が支払っていました。
工房は、日本人版画家、ミミ(これだけは、仮名です)の、自分が使用料を払いたくないから作り出したモニター制度と言う仕組みのために、モラルが落ちてしまい、使用料を出す人が居なくなり、私が去った後で、つぶれます。その後、数か月で、ホアレスは、孤独死するのです。彼にとっては、ここだけが、生活の場所であり、お金を稼ぐよりどころでもありました。そこがつぶれたので、行く先も無くなり、お金も無くなり、気力も無くなったと、推察されます。
彼は、普段は、悪ぶっていて、私にも曲がってしまった銅板を売りつけようとしたりしましたので、三か月しかいない私は、彼は、悪者だと、思い込んでいました。が、今では、それは、防衛のために装った、バリアーとしての、悪(=鎧)でしかなくて、本当は善人だったと、判ってきています。彼は、クラシック音楽が好きで、工房のラジオは、常に、クラシック専門局に、チャンネルが合わせてありました。そして、時によって(それは、私が、日本人の、先住者にいじめられていた時ですが)は、思わず、出てしまう私の短い歌唱を、たいへんに、ほめてくれました。実は、日本人の、ミミが先頭に立って、数を使ったいじめを受けていたのです。
ミミに、いじめられると、泣いたりするのではなくて、自然に、歌が出てくるのでした。
・・・・・そういう悪辣なものを、自分の周辺から、追い払いたい。神様に助けていただきたい・・・・・・と、思うと、自然に、お歌(クラシックの器楽曲の数章)が口の端に上るのでした。すると、ホアレスが、近寄ってきてくれて、「まるで、マリア・カラスみたい」と、言ってくれました。いつも、眉を狭めて、悪態ばかりついている彼が、びっくりするぐらいに素直な、表情になって、そう言ってくれました。後ろの、先ほどまで、目を吊り上げて、いじめてきていた日本人女性たちも、いつの間にか、静かになっているのです。このようにして、音楽とは、いつも、神様が、寄り添ってくださっている、しくみだと、思い到るのですが、ホアレスが、あれほど、クラシック音楽が、好きだった側面を思い出すと、彼は、本当は、純真で、素直な、男だったのだろうと、思うのでした。私と同い年でした。2001年に亡くなったということは、ちょうど、60歳で、亡くなったのでした。早死にと言えましょう。それも、飢え死にだったのかもしれない。そう思えば、本当に、切ないです。
彼は、工房がつぶれたことで、摺師としての収入も無くなり、出かける先も無くなり、ついに、気力も失い、食べるものも無くなり、孤独の中で、死んでいったものだと、推察されます。
~~~~~~~~~~~~
副題5、『ニューヨークではオリジナリティを発揮する人は、尊敬をされている。たとえ貧乏でも。芸術家とは、創作をする人間で、それは、その人にしかできない仕事である。だから、尊敬をされていて、どんなラフな格好でも、平気で、歩けるし、過ごせる街なのだ。あなたが、創作をする人なら。
しかし、日本では違う。何よりもお金があることが大切だ。渋谷に、個人事務所を構え、高級なブランド物に、身を包んで、頭をモヒカン刈りにしていた、佐野研二郎みたいな、人間が、立派な人間だと、みなされるのだろう。そういう風土がある』
ニューヨークと日本の圧倒的な違いは、芸術家が、ニューヨークだと、芸術の仕事一本やりで、暮らせるという事です。ホアレスみたいに貧乏でも、本人が、別にそれを気にしないのなら、誰も、彼を避けたりはしません。亡くなれば、それを悼んで、遠く、日本に住んでいる私にまで、メールでお知らせが来ます。彼は、モノのよくわかる優しい人間からは、ちゃんと、認められていたのでした。
~~~~~~~~~~~~~
副題6、『日曜美術館の、アトリエ訪問で見たのだが、平山郁夫さんは、500瓶近い、絵の具を、壁に並べておられたのだった』
日曜美術館の中では、物故作家訪問もあるのですが、一方で、現在活躍中の有名作家(または、大家)のアトリエを訪問するという企画もあります。
私が覚えているのは、山口華陽、田淵俊夫、平山郁夫、船越桂、山口晃などです。そのうち、深い感銘を与えられたのは、山口華陽のアトリエと、そこで、華陽が、制作をしている姿でした。端然という言葉は、この方のためにあるのだと、思い到ったものです。明治生まれと言う事実をシカト、感じさせられました。
さて、五人それぞれに対して感想がありますが、ここで、取り上げないといけないのは、
平山郁夫さんのアトリエ訪問記でした。平山さんは、華陽とは、違って、洋風のひと間で、制作です。その洋間ですが、白木が多用されていて、清潔で、かつモダンです。後ろの壁が、カメラの視野に入るのですが、そこに絵の具がずらっと並んでいました。
ひと瓶で、10万円を優に超えるだろう岩絵の具が、300瓶以上並んでいるというイメージがありました。日本画については、その画材を使ったことはないのですが、粒子の大きさによって、発色が違うそうで、ラピスラズリーなどでも、荒く砕いたものと、微細に、砕いたものでは、現れてくる色が違うので、同じ原料でも、10瓶程度、必要になるのだそうです。
『平山さんの画材は、もし、それを一回で、買うとしたら、数億円を超えるのではないかなあ』 だけど、それを、カメラの視野に入れてしまうところが、平山さんの、平山さんたる処でしょう。元芸大学長なのに、結構なレベルで、悪口を言われておられます。
華陽篇でも、田淵俊夫篇でも、岩絵具・収集のすごさには、私は、気が付きませんでしたから。田中一村が、どうして、奄美列島に住みながら、日本画を描けるのかが、不思議でしたが、お姉さんが、千葉に居てサポートをしていたらしいのですね。その名前が、難しく、また、お値段が高いものの注文を、どうして、他人に頼めるのだろうと、不思議に、思っていましたが、お姉さんは、心底一村をサポートする人だったらしいので、間違いなく、買って、送ってあげたのでしょう。非常に高いものを、ごく少量ずつ、注文をしていたと、みなせます。粒子の大小など、彼が自分で、乳鉢で、調整したのかもしれません。
横浜美術館で、東山魁夷展を見たことがあります。東山魁夷と、田中一村は、入学だけは、同期なのですね。学費が続かなくなったのか、同級生と話が合わなくなったのか、一村は、やがて美校を中退していきます。東山魁夷の大画面と、厚く塗られた岩絵の具を見ていると、一村の絵との違いを、感じさせられます。それ以上は、言いませんが。
~~~~~~~~~~~~
副題7、『山口みつ子さんが、金と芸術と言うシンポジウムを開いたのだが・・・・・私は、坂本弁護士の、遺族並みに、<山口みつ子さんの死因が、自殺ではない>ということを証明したいと思っている』
ギャラリー山口のオーナーだった、山口みつ子さんは、2010年の、1月17日に亡くなっていて、自殺とされています。ビルから、転落したと、いう事で。しかし、絶対に違うと、信じています。その後の川島女史(村松画廊のオーナーだった)の動きとか、読売新聞の記事とか、それを、わざと森邦夫さんが、私に呉れた事とか、その三か月後の、私の森さんの画廊
exibit Live and Moris での、個展と、それにまつわる、怪異な現象の数々を考えると、山口みつ子さんは、絶対に自殺ではないと、信じています。そして、その私の個展の際に、井上ひさしは、自らを死んだことにしたのでした。
私は、あまりにも彼ら鎌倉エージェントの悪意が目に余る・・・・・たとえば、個展準備で疲れ切っている私に、主人が癌であるかの様な、脅かし策を、病院サイドを巻き込んで起こしたとか、・・・・・10月中に受けたがん健診の結果を、4月5日の一時ごろ、主人が、銀座の私の個展を見に行っている最中に、自宅に、連絡するという形で、私の方へ知らせて来る。「結果は、ご主人にだけ、伝えます」と、言われたが、それは、私を、30時間ぐらい、不安に落とす作戦だった。
また、一週前の土曜日の、展示準備の日に、北鎌倉で、電車が、なんの車内放送もないのに、1時間半も停車して、森さんに不義理をしたとか、森さんが、展示をわざと、逆効果になる様に、やったとか、
瀬木慎一さんが、火曜日に、『あんたを、刑事訴訟にかける』という手紙をよこして脅かしてくるとか。・・・・・この件は、再度、2013年に今度は、前田祝一氏の肉声を使って、繰り返されるということと成ります。ここで、言明しておきたいのは、彼らは、同じケースをリメイクしてくるという事です。少し変えてですね。
だから、シャルリーエブド事件について、あれは、鎌倉エージェントを助けるためだt、何度も文章を書いているのですが、その中で、彼ら悪人側が、失敗したポイントを、今度は、抜かりない様にして、再び、繰り返したというわけです。でも、このイスラム過激派を使った、脅迫は、2010年度の、地点では、それほどに、目立たない出来事でした。それは、繰り返しますが、日揮襲撃事件の後で、起ったことです。
森さんの画廊での、個展の話に戻ると、その同じ週に、今度は増山麗奈さんから、渋谷のユーロスペースの最終上映版で、私の活動記録の上映会があるから、来てくださいと言われたり、
本当は、三月中に行われる個展が、森さんの都合で、伸びたと思ったら、なんと、ガレリアグラフィカで、山本容子展をぶつけて来て、それに、お客が万来なのに、あんたの方は少ないね』と嘲笑をするつもりだったらしい上に、普段は、来てくれる銀座の画廊のオーナー陣が、まったく来てくれなかったといういじめ(苦笑)もあって、
私はとうとう、伊藤玄二郎の会社へ、2010年4月8日(木)に、この個展の案内状をもっていって、『どうか、見に来てください』と言いに行ったのです。それは、むろんのこと、本当に来てほしくて、そうしたわけではなくて、『あなた方が、策略を弄していることは、すべて、判っていますよ。大元は、北久里浜の土地泥棒から始まっているのに、こういう悪企みをするんだったら、そちらの方の、悪を書きます』と、宣言する、為でした。
そして、実際に、そうしています。そしたら、その次の日の9日の火曜日に突然に、井上ひさしが、自分を死んだことにしたのでした。彼の死亡は、まったくの嘘ですよ。
彼は、地下潜行をして、私が、これは嘘ですと、書いている諸種の、嘘ニュースのアイデアを練っている処でしょう。
すると、すぐそれは、井上ひさしには、判ったらしくて、彼は、2010年4月9日に、自分を死んだことにしたのでした。そして、マイクロソフトの、XPヴァージョンに対するサポート停止も、4月9日に設定をしましたね。脚本を練っているのです。ネットで、文章を発表している私が過去に、XPのパソコンで、充分だと思う。これ以上、発展させる必要が無いのではないかと、語っているのを、からかってきているのです。
ともかく、私のその、悲惨極まりない個展は、4月5日から10日でしたが、その前に、3月4日だったか、鶴岡八幡宮の大銀杏が倒壊しましたね。
私は、あの倒壊の、30%ぐらいは、山口みつ子さんが、他殺として、殺されていることを天が怒っているのではないかと、見ています。これで、100%の原因がそろったでしょう。すべての悪は、伊藤玄二郎と、井上ひさしの二人羽織にあります。
そして、その二人が、そういう風に行動する裏に、瀬島龍三の、北久里浜における大規模な、土地のただどり用の、地籍変更届と言う事案があって(ただし、書類上は整えられているので、
犯罪として、訴訟を起こすことはできない。が、実質的には、公的土地をただで、私有化したので、犯罪ではあるのだけれど)、それを隠すために、伊藤玄二郎と、井上ひさしの二人に多大な特権が与えられているということにあります。
山口みつ子さんが、もし、本当に自殺だったとしたら、「画廊経営の上で、借金ができていたのだ。それが原因だった」という説がありますが、私は、他の状況から他殺説を取っていて、それを、できるだけ、追及したいと思っております。彼女にはお子さんが無かったらしいので、こういう事をやってあげる人がいないでしょう。で、私は、ひたすら、頑張っているわけです。オーム真理教に、殺された坂本弁護士のお母さんとか、犯人がまだ、挙がっていない世田谷一家殺人事件の、父君や、姉君と同じです。
~~~~~~~~~~~~
副題8、『2011年度中の瓜南直子さんの、FBへの投稿を読んでいて、彼女には、お金がないのだということは、すでに、私には、判っていたのだが、そこに拍車をかけて、さらに、緊迫感を与え、彼女を追い詰めたのが、伊藤玄二郎との付き合いだったでしょう』
瓜南さんは、4月に「体調が不良である。苦しい」というツィートを上げています。その前に、1月9日に亡くなった、小泉淳作氏の、画材を遺贈をされています。しかし、それが、渡ってきたのは、3月ごろだと、思われるので、間に合わなかったですね。
これから先がありますが、あとで加筆をいたします。
なお、このブログの2010年より数え始めた延べ訪問回数は、3214849です。
~~~~~~~~~~~~~~
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます