銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

15年前に保田春彦氏から水沢氏へ渡されたメモの怪? 大原光孝、中島千波、本多隆彦、柄沢斉、浜田地明

2020-07-05 12:55:31 | 政治

最初日本語入力ができなっかたので、英語で、書き始めました。こういう事は慣れていて、驚きもしません。それだけ、重要な真実を書いて居るわけで、驚きもしません。

 で、おととい初稿を書き、昨日、推敲した、副題1~6を読み返していただくのは、申し訳ないので、新しく書く部分(副題7)からを最初に持ってきます。しかし、その部分は、先に書いた、副題1~6に続いてこそ、意味を成すのだと、お考え下さいませ。ともかく、続きを書くのをお待たせして居たのは、お詫び申し上げます。

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副題7、『私は、大原光孝という人物を、どう考えるかについて、一段と、深化した、考察を、開示する方向へと舵を切った。それは、彼の変化が始まって、15年もたっているし、攻撃量が、多大になったので、より真実に近いことを書いても、天がお許しくださると、信じて居るからだ』

 それでね。私は、もう結論付けてしまったのですよ。・・・・・なんと、結論づけたかというと、大原光孝という人間は、見かけ上の素敵さとは、全く異なった、裏の顔を持っているという事を。それは、相当に、ずるくて忌まわしいものですが、全く反省の色が見えないのは、彼が、このブログを読んでいないからだと、ずっと、考えてきました。 しかし、ちょっと違うかもしれないと、何時か思い始めました。が、見えているのは大原光孝本人だけなので、書き方を変えなかったのですが、ごく最近では、もう、そういう書き方は、止めて、より深い真実に近づこうと、方針を変換しました。それが、結論付けてしまったのですよと、言う表現の中身です。

 実は美術界の大物である酒井忠康氏達のお墨付きをもらっていると、考え始めています。それも15年以上前から。それで、ふてぶてしく、ふるまって居て、全く反省をしないのだと、考え始めました。
 で、裏にいるそれらの大物たちは、一応防波堤としての大原光孝がいるので、おお助かりであって、それで、かれを、ちやほやちやほやと、持ち上げているとみています。で、彼は、自信満々であって、何を、私に、書かれても反省をしないという態度を取っているのでしょう。で、私は、汚い事だけを書き続けないといけないので、このブログの世界を嫌う人も出てきているでしょうから、大損をしているというわけです。
 しかし、いったん書き始めたテーマから去って、違うテーマで、書き始めると、それもまた、新たな攻撃を招くので、この我が家への、泥棒と大原光孝の関係というのは、相当な所まで、書きあげないと去ることができないテーマなのです。しかし、嫌なことを書いて居ても、物事は必ずフェイフティフィフティであって、酒井忠康氏の実像に、ぐんぐん迫っているわけですね。大原光孝が飛んだり跳ねたり、ちゃらちゃら動くたびに、ひたすらに、柄沢斉とか、酒井忠康氏の、影が、見えてくるからです。それが、ラッキーだから、彼を自由に、そして、やりたいように、泳がせているとも言えるのですよ。だって、彼は、舞い上がって大得意ですが、酒井氏あたりは、ピリピリしていると思いますよ。大原光孝みたいな、背伸びして、インテリぶっているフェイクなインテリと違って、真のインテリだし、頭がいい人だからこそ、怖がるでしょう。やって居ることが汚すぎるから。

 小学校時代を思い出してみてください。公立の小学校だったら、クラスに、3人から5人の頭のいい子がいたと思います。しかし、そのうちに何人かは、いじめっ子から、いじめられていたでしょう。怖がっているのを、感じ取って、さらに虐めるという悪循環を傍から、見ないといけなかったのではないですか。これは、ほとんどの人が経験している事実だと、思います。

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副題8、『私は大原光孝が、50号程度の絵を、唐草模様の緑色の風呂敷に包んで、山の外へ持ち出しているのに出会った。で、私に姿を見られたからか、彼は、「春季院展に入選した」と、言った。この入選だが、裏から、中島千波氏がサポートをしたのが、見え見えである。というのも、三越で、開かれる、春季院展に展示をされている作品すべてと比較をすると、あまりにも異質だったから。まず、テーマが剽窃だった。マチエールの非常に複雑な油絵を描く、本田和博さんのテーマと全く同じだ。総計美術学校の同窓で、本田さんの方が年下だと、思う。その上、春季院展は、偉い人が、売るために、展示する場所だと、思うのだけれど、べニア板に、アクリル絵の具で、書いて居て、手製の額に入ったそれは、その点単会を見にくるお客の、好みには全く合わなかったし。中島千波さんは、鶴岡八幡宮のぼんぼりまつりに、出品をしていて、しかもちゃんと、ぼんぼりまつりを、見に来る人なのだった。ああいう偉い人が来る場合、八幡宮は、社務所に上がってもらって、お茶ぐらい接待をすると思う。そこへ、酒井忠康氏も、近代美術館・旧本館の、職員用、事務室から、呼ばれて、一緒に歓談する可能性が高い。で、30分ぐらいすると菓子を変えましょうとなって、今度は、美術館内の、応接室、又は、会議室で、歓談が始まると、推察して居る。だから、中島氏は、他の、ぼんぼり献灯者(有名な洋画家、や、日本画家)より、酒井氏と、親しさが、高いと考えられる。

 そうなると、「来る春季院展に、大原光孝が、この様な絵を出品するので、必ず、入選をさせてください」と頼むのなど、簡単だと、思う。その依頼だけど、神奈川県立近代美術館応接室で、柄沢斉、酒井忠康、大原光孝、伊藤玄二郎、井上ひさし、等が集まって、協議し、そこへ酒肴が出れば、大原光孝は、舞い上がってしまうだろう。ところで、その場所だが、私は、伊藤玄二郎が、自由自在に使える川喜多記念館でもいいし、彼の社屋の、会議室でもいいし、もっと、素晴らしい場所として、旧里見頓邸が、使われたとも推察をしている。そうなると、大原光孝は、極上レベルで、舞い上がってしまうだろう。で、何故、本田和博さんの絵の剽窃だったかというと、その人の個展を、奥野ビル一階で、見た私が書いた、文章が極上の美術評論になっていたからだ。

 私の文章は、文体が易しい。誰もがわかる、口語体で、難しい語彙は使わない。しかし、頭が悪いわけでもないし、教養がないわけでもないし、感性が足りないわけでもない。ので、大変な人気を博していたらしい。

 元、exibit Live and Moris のオーナーだった、森さんが、「川崎さん、月刊ギャラリーの連載をしていた時期にいくら稼いだ?」と質問をしてきたので、きょとんとしていると、「2000万円は稼いだでしょう」と、彼は言う。私は、本当に驚いて、息をのんだ。月刊ギャラリーの連載は、それこそ、一年間で、20万円程度の原稿料をもらっただけで、登場した作家からは、一銭ももらって居ない。

 ただ、美術評論家というのが売文業であるという事を推察した。::::::::ここで、スピンオフに入るが、月刊ギャラリーの連載が、たった、一年で終わってしまって、私は大恥をかいた。私の前の担当者、日陰ゲン氏など、スペインで、食べているスパゲッティが何とか、勘とかという文章で、728回も連載しているのに、私は、たった、12回だ。本当に大恥をかいた。

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副題9、『ここで、本多隆彦さん、及びその奥様との、エピソードを二、三、語らせていただきたい。こちらも水沢勉氏と同じで、今では、全く交流がないのだが、ある時期は親密な時代もあったのだった。で、それが、又、世間を騒がす問題(=バター不足)へつながっていくので、私の周辺は、どこもかしこも、政治だらけなのだが。そして、本多さんは、のちに渡辺幸子さんとか、岸田淳平氏を、特集するのだが・・・・・という事は、私は、同じ、国際キリスト教大学卒の、渡辺幸子さんとは、一時期非常に近かったし(心理的な意味で言って居る。同じ鎌倉住まいだが、家・同志の距離は、2キロぐらい離れて居るはずだ)、岸田淳平氏など、(それがペンネームだから、ご近所人間は知らないかもしれないが)、住まいは、お互いに、10メートルとは離れておらず、斜め真向かいの位置に在るという近さなのだ。だが本田さんは、美術系作家としての私の特集を組むことはなかった。ニューヨークでの高い評価など、無視、無視となっていく。

 しかし、保田晴彦先生やら、水沢勉先生との間柄も、深く書いたこの章だ。一種の遺書として、本多さんとの関係も書かせていただきたい。

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副題10、『本多隆彦さんに、交渉事としては、二回ほど、出会った。一回目は、銀座の古いカフェ・パウリスタで。二回目は、我が家で。いや、反対だったかもしれない。2005年の事だった。本多さんとのアポは、電話でしているので、パウリスタのキッチンに、盗聴装置が仕掛かられていたと、推察される。

 で、その時見せた、【敷石を磨く男】が、とても出来がよかったので、(ただし、本多さんは、別にほめなかったが)、のちに伊藤玄二郎達は、瓜南直子さんに、全日本アスハガレンと、言う組織を立ち上げさせる。だから、盗聴をされていたと、見る。そして、それに関する投稿を毎日行わせた。それが、激しい攻撃にあたるのだった。 

 敷石を磨く男とは、小町通りのある商店の旦那さんだ。わたくしは、鎌倉への買い物は夕食後にする習慣で、毎日そこを九時過ぎに通るのだったが、毎日道路を水と、たわしで磨いてる人がいた。当時そこは赤と白の御影石のモザイク模様で、作られた美しい歩道だった。私の子のエッセイが原因で、そこが、アスファルト変更をされてしまったのだった。毎日汚れるのに、どうして磨くのかしら?と、不思議でならなかったが、彼の厳粛な雰囲気に気おされて、質問をすることはなかった。

 同じ這いつくばる姿勢でも大原光孝が天に叱られた日の、みっともなさったらなかった。そちらは、2016年7月18日に放映をされたテレビ東京のドリームハウス内の、劇的な一場面として、登場した映像だったが、台風でも雨でもない普通の日に、さして大木とも思われない樹木が倒れて、しかも斜めに倒れて、大原光孝が作った掲示板を直撃したのだった。その掲示板に貼ってあるものが警察の脅かし用ポスターだけだし、その上、大原光孝が、やって居る数々の恐ろしいことがたまっていたので、そういう風になったと、私は考える。そういうみっともない姿ではなくて、非常に厳粛なオーラを放ちながら、しゃがんで、無駄なことこの上ない事をやって居る。でも、ある日突然に、気が付いた。彼は、哲学をしているのだと。・・・・・もし彼が東大教授で、本が大ヒットした養老先生だったら、何もしないで、ぼんやりしていても、誰も、不思議には思わない。先生は、ものを考えて居るのだと、して、許容されるだろう。しかし、さほど、おおきな立場がない人が、天空を見つめて、ものを考えて居ると、異様な人だと、誤解をされる。だから、家の外へ出て、敷石を磨いているのだ・・・・・と。

 その日、パウリスタで、もう一つ私は、鋭いことを言った。それで、本多さんは、私を採用することにしたのだろう。それは、「本多さん、本多さんの会社って、かくかくしカジカの、予算で回っているでしょう」と。それが、図星だったらしい。本多さんは、その通り。どうしてわかるの?」と聞いてきたので、「いえ、だいたいの勘で言ったのよ」と答えた。普通の場合だったら、編集者の方が生殺与奪の件を握っているので、怒ってしまうところだろう。『お前を採用してやるか、やらないかは、こっちが決めるのだ。なんでためぐちを利くんだよ』と内心で思って。で、ここらあたりは、魚心あれば水心ありの典型で、私は本多さんに感謝したからこそ、こう続けた。「本多さん。私は、月刊ギャラリーの連載と、同時並行して、婦人公論でも連載ができる様にうごくつもりよ」と。

 これは、単純に聞くと、私が大変な欲張りに思えるだろう。しかし、本音は違って居た。私は、ひそかに敵がいることに気が付いていて、敵への、対策として、数社、同時並行的に、連載を持った方がいいと、考えて居た。でないと本多さんが、困ることになるだろうと考えて居た。それは、秋に入って証明をされることとなる。4月に連載が始まってから、たった、6か月以内だった。浜田知明氏との懇談を本多さんは断られたのだった。それを本多さんは、熊本からメールで知らせて来た。

 「僕は今、熊本にいます。飛行機で、熊本に来たのに、浜田知明に面会を断られました。今、熊本名物の馬刺しで、お酒を飲んでいます」と。この個人メールは、本当に大きな衝撃だった。この時、本多さんは、本当に悔しかったのだと、思う。そして、私が原因だと知って、恨みのメールとして、これを送ってきたのだろうか? いや、それなら楽である。かえって楽である。そうではなくて、たまらないほどにやるせない思いを、誰にぶつけるかを本多さんが、考えた時に、私が頭に浮かんだのである。ただ、単に、自分の雑誌に連載をさせてやると、言う間柄だったら、私には甘えてこない。だけど、私は、27歳も年上の母にさえ、甘えられていた存在だ。男性からも女性からも甘えられる。しかし、私には体力がない。で、体力的に負担が、大きくなりすぎると相手を切る。こちらから縁切りを申し出でる。

 本多隆彦さんが私に甘えてきたのは、たった一回だった。それに背景を考えると、十分すぎるぐらいに気の毒だった。国会議員とか、国公立の、美術館の学芸員だと、出張費は、税金で賄われる。心理的負担が軽い。ところが、本多さんの飛行機代は、彼が汗水たらして稼いだ、自分のお金だ。

 しかし、私が、大きく、大きく混乱に陥ったのは、『もしかしたら、水沢勉先生が、阻止したのではないか?』と考えたからだった。

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副題11、『これから先、いったん受諾した浜田知明が、熊本に来させたうえで、ドタキャンした裏に、誰がどういう助言をしたのでそうなったのかを解いていきたい』

 大変ないじめだった。私が、直接意地悪を受けたわけではないが、ぐし、ぐしと、私の心を刺した。順当に考えると、戦後最大の、CIAエージェントであり、北久里浜における、地籍変更届の、秘密を全部知っていて、(それは、実質的な大詐欺事件でもある)其れゆえに、実質的な、主犯である、益山夫妻は、私を殺そうとして、その結果、反対に重夫氏が死んだのだった。それを恨んだ智恵子夫人に同情した、重夫氏の親友だという、瀬島龍三が、一連の動作を行ったと考えるのが正しい解釈であろう。

 奥さんの智恵子さんが、1978年の10月11日、私を轢き殺そうとしたのは、午後四時の事だった。私は、午後五時に東京の弁護士さんに自宅の電話、及び公衆電話の二つで、このことを知らせた。盗聴をしている重夫氏は、奥さんが帰る前に、急死した可能性が高い。自殺か、心筋梗塞か、脳溢血かは知らないが、午後の、九時には、医者の死亡診断書は、既にできていて、夜の10時には、葬儀屋が来ていて、彼等は、夜の11時には談笑しながら帰って行った。

 私の北久里浜の家は、木製の雨戸を閉める形なので、その葬儀屋は、見えない。玄関を開けても、目の前は、高いブロック塀となっていて、道路が、間知石何個分か、下がっているので、見えない。しかし、私には声だけで、真実がわかった。数十年のち、因縁の土地にルネ北久里浜(売り出し時の名前・ソラヒルズ)が、竣工した時点で、(又は、工事に着工した時点で)、益山智恵子さんが、鎌倉の雪ノ下のこの家に、罵りの電話をかけて来た。又は、恨みの電話というべきか? 何をやって居るのですか? 馬鹿者め!と、相手にもしなかった。

 そのころも、それ以前も、私は創作者として、自分の実力を高める事へ、集中をしていたのだった。しかし、そのころ、益山智恵子、仲野通巳吉(智恵子夫人の実弟)瀬島龍三などは、そこでの、実質的なぼろもうけ(濡れ手で粟の大収入)を得ながら、一方で、私が、そういう悪に目をつぶりただひたすら追い求めていた、創造者の世界へも魔手を伸ばしていたのだった。なんという強欲な事か? そして、1978年当時、彼等に協力したので大出世をした、杉本俊一正子夫妻、彼等は、横須賀市の税金を大量に島田章三に、注ぎ、島田章三は、それを愛知芸大に注いだ。はいはい、忖度に次ぐ忖度の連続の世界だ。週刊文春が取材に来ないので、かれらは、のうのうとしている。

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 ここで、午前五時過ぎになったので、以下はメモだけ書いておきます。

副題2、『もし、浜田知明に本多隆彦さんへのドタキャンを、命令したのが、水沢勉氏だったら、私には、衝撃が過ぎるのだった』

 浜田知明に本多隆彦さんへドタキャンをする様に命令をしたのが、水沢勉氏だったら、それは、非常に深い衝撃である。しかし、私は水沢勉氏から、「僕は、本多隆彦と、本江邦夫は、嫌いです」という言葉を聞いている。それは非常によくわかる。水沢氏は、エスタブリッシュメント中のエスタブリッ主メントで、一般の言葉でいう上流階級の人だ。一方で、本多さんは、美術界では、成り上がり者である。学閥はない。自分の感性と、エネルギーで、のし上がってきた人だ。カラーが違う。私が、安野夫人を嫌う流れと似ている。

 本江氏の方は、成り上がりものではない。東大卒で、立派な職業がある。しかし、水沢氏と年齢が近いだけに、ライバル心をお互いに抱いた可能性もあり、本江氏が、水沢氏に挑んだり、挑発的論争を仕掛けたりした可能性はある。ただ、私には、本江の羽田での急死は、飛行中の飲み物に、筋弛緩剤でも、適量入れてあったのではないかと、言う疑念が消えないので、これも、複雑中の複雑になって来る。

 ただ、水沢氏は、本多隆彦さんの電話を盗聴したり、メールをハッキングしたりする能力も可能性もない。だから、本多さんと浜田知明の面会を阻止する可能性は、一般的に言うと無い。しかし、神奈川県立美術館は、清宮質文と、

たをドタキャンする様に依頼をしらのだったら、それは、盗聴とかハッキングを利用したという事となる。しかし、おぼっちゃま中のおぼっちゃまである、水沢氏が、そんな汚い事をするはずはない。でも、浜田氏の方から、水沢先生に電話がかかって来て、「本多隆彦という人物から、しゅざいのもうしこみ

@@@@@ここが、7日に入って書き始める最先端です。以下は、4日に書きはじめた文章を、6日に推敲したものです。副題1~副題6まであります。

  最初に置いた写真を説明をさせてください。

 

 これは、この一文のキーとなるメモです。本当は、こういうものを世間にさらしたくないです。しかし、ご近所の二人(一人とひとつの別の夫婦)が合鍵を持っていて、自由自在に我が家に侵入していることへの深い怒りを持っています。特に大原光孝という画家の方が、この二年間、動きに動く(勿論、汚いことにですよ)、事へ、深い怒りを持っているので、こういうメモを公開します。そして、昨日も小細工をいたしました。すると、このメモを最近(いつだったか、わからないが)、私の寝室に入れこんだ、人間が、普段だと安野夫妻のどちらかなのですが、今回だけは、大原光孝という画家ではないかという疑いが生じました。ともかく、その三人に対して、本当に深く怒っているので、このメモを公開します。彼には何年も前から警告をしています。「あなたが、ちゃらちゃらと、軽薄な行動を取ると、大勢の人、に、迷惑が掛かるのですよ」と。しかし、やめません。本当に、怒り心頭です。

 今夜、色々整理して、まとめて行きますが、まず、初稿をご覧ください。

副題1、『土曜日は、一日かかって、熊本大災害(水害)について、文章を書いて居ました。それを、急に、一旦、引き揚げようと決意したのは、大事な、文書(はがき大)をスキャンして、ここに添付した方がいいと判断をしたからです。

 で、それを含めて、その一文を、さらに、充実させて、未来に、公開しようと考え直したのです。そのはがき大の、文書とは、水沢勉・神奈川県立近代美術館・現・館長と、保田春彦・武蔵野美大教授との間のメモです。保田春彦先生が、水沢先生に、郵送または、メモを手渡しという形で、渡されたものを、水沢先生が、郵送で、私に転送してくださったものです。それをスキャンする必要が出て来たからです。

 それは、大変古いもので、今、何故、私の寝室の床に転がっているのかが理解できない文書です。はがき大で、筆ペン、手書きのものですが、2004~6年ごろに、水沢先生から、郵便で転送されてきたもので、今、寝室の床に在るはずのないものでした。

 というのも、忙しい私にとって、寝室のお掃除は後回しになるといっても、2004~2006年以来、15年間も寝室のお掃除をしなかったという事はありえないので、これは、例の泥棒が入れこんだものです。

 さて、例の泥棒とは、盗む方もやりますが、脅かしたり、いやがらせをしたりするために、入れ込む方もやります。手書きのはがき大の、文書を、高齢の保田先生がスキャンして、ご自分のパソコンに入れ置くはずもなく(したがって、そこから、再発行できるはずもなく)、又、それを受け取った、自分には、直接の関係がないその文書を、スキャンして、ご自分のパソコンに取り込むはずもなく、これは、再発行というか、再度、プリントアウトされたものではなくて、原初のもので、私の自宅に在ったものでしょう。

 彼らは、最初、父が、新聞記事になったものを盗みました。絵が上手で、満州で、ラストエンペラーの宮殿、甘粕、満映理事長の部屋、他を飾って居ました。それが、新聞記事になっているのです。

 父は、いわゆる画家ではなくてサラリーマンでした。仕事は、満鉄調査部、中央研究所で、石油の資源探索をしていたのです。で、頁油岩(今の言葉でいうオイルシェールです)を、どうにかしようとしていました。今は酸を地中深くに注入して、石灰岩部分を溶かし、石油を浮きあがらせるらしいのですが、第二次大戦中の、日本に、工業的な大量の酸を生産している余力は無くて、結局のところ、頁油岩から、石油を生産するという事は、実行はできなかったのですよ。

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副題2、『2020-6-29に、鶴田真由さんのファミリーヒストリーが放映をされ、色々感じるところがあった』

:::::::::ここで、スピンオフに入りますが、この6月29日に、鶴田真由さんのファミリーヒストリーが放映され、真由さんの母方の祖父が、東大理学部卒で、昭和17年に、地質調査研究所の所長に任命されたと、出てきました。それが、どこにあったかを聞き漏らしたうえで、番組を削除してしまったので、残念ですが、祖父君の、先輩が乗った船が沈没しと、あったので、「おー、大洋丸だ」と、懐かしかったです。

 大洋丸事件というのは、非常に有名な事件で、中国大陸に渡る、優秀な青年たちを乗せた、民間船なのですが、大連到着直前に、アメリカ軍によって、魚雷攻撃を受け、沈没したのでした。

 そこには、お茶大付属高校の先輩で、とてもかわいがってくださった高木きよ子さん(元お茶大教授、スタンフォード大学日本文化研究所所長。文化勲章受章者、数学者高木貞博士のお嬢様)とか、同じく先輩で、同じく、かわいがってくださった元アメリカ大使館職員にして、その前は、神奈川県立大津高校(旧制、横須賀地方での、第一高女)の先生をしていた斎藤敏江さんとかの、若きご主人が亡くなった船なのです。

 その名前をNHKが出さないと、言う事も、相当に、このブログを意識していることでした。

そして、お正月の二日に、ベッドの上で、亡くなっていた高木きよ子さんの、死は、おかしいと、私は考えて居るのです。これも、侵入者が、筋弛緩剤でも、打ったのではないかと。だって、その日、清子先生は、お友達と会食する予定があったのです。で、現れない清子先生に、不審に思った、友人達によって、遺体は、即座に発見され、孤独死ともならなかったのですが、非常におかしいと、私は、覆っているのです。でも、ここでは、その詳細には触れません。しかし、斎藤敏江さんに、「あなたに裏切られた」と言われたのは、不思議極まりないのです。それは、どうした事なんだろうと、思って居ます。でも、忙しくて、斎藤敏江さんを訪問できません。

 真由さんの祖父君と、私の父は、全く同じ仕事をしていたのでした。父の場合は、撫順炭鉱で、頁油岩を、どうにかすると、言う研究でした。真由さんの祖父は、東大出です。私の父は、秋田鉱専卒です。しかし、石油科の第一回卒業生でした。東大出は、学問研究に励む人で、父などは、エンジニアだと、自覚をして居ましたね。父の上司は、カリフォルニア大学卒の博士で、下から、研究を持ち上げよと、おっしゃるので、父は非常に驚いたと、言って居ました。で、満鉄調査部、中央試験所に、真由さんの祖父君(東大卒関係者)は、いなかったのです。

 こういう職業の人は、大変優遇をされていたのです。それで、お金も時間もあったのです。敗戦までですが。藤田嗣二などとは、正反対でした。だから、私の父は、芸大とか、文学部へ行くことは、全く許さなかったのです。

 で、特急アジア号(今の新幹線みたいなもの)に乗って、北京まで、写生に行ったりして、天壇などの、中国古典文化とか、雲崗(又は、大同)の摩崖仏(洞窟の中に、仏様が彫ってあるもの。敦煌とか、アフガニスタンのものが、NHKによく出てくるが、雲崗や、大同は、出てこない。しかし、関口宏の、鉄道の旅で、突然に、ちょっとだけ、出て来た。石炭の露天掘りの影響で、それらの仏様が真っ黒になっているのだった。それで、NHKの画面に登場をしないと、言う事もわかったが、私がブログに書いて居るので、取材をされないと、いう可能性もある。

 うちの父は、もし、実父が長生きしたら、東大・・・・・(東大ではなくてもいいが、各地方の帝大)へ行かれたかもしれないのですが、学費を兄にたよっていました。旧制・萩中の教師・後に校長だった兄に、学費を援助してもらっている立場なので、旧制ナンバースクールにはいかれなかったのです。でも、秋田鉱山専門学校、石油学科というのは、現代で言う大学の位置に在って、当時は、人気学科であって、日本の石油(元売り)会社の重役はほとんど、秋田鉱専卒だと、言われていました。1980年代までですが。

 鶴田真由さんの実像は、ベニサンピットで、(その入り口の、空間)で・・・・ほかの劇場だとロビーというところだがあそこは、バラック仕立てなので、ロビーとは、言い難いところだが・・・・蜷川幸雄さんと談笑して居るところを見かけたことがあるのです。それは、2005年から2008年の間で、彼女が、ものすごくきれいな、時期でした。蜷川さんも若くてね。で、それをメルマガか、ブログかのどちらかで、書いて居ます。

 「その時の舞台は、佐藤オリエの【桜の園】ではなかったかなあ?」

 それで、ベニサンピットは、閉鎖になったと、私は思って居ます。裏で、井上ひさしが、動いたと、見ています。紅三と、言う会社の誰かが演劇青年であった時期もあって、非常に大きな建物が全部演劇青年向けにできている建物でした、老朽化、嘘でしょう。もともと、バラック風な建物だから、老朽化したって、使えたのです。井上ひさしは、本当に意地が悪いのです。あっちこっちで、大切なものを破壊していきます。だけど、自分だけは、得をする様に動いているのです。自分の方は、もっと、有名な劇場で、公演ができる立場になっているので、ベニサンピットなんか使う必要がないからです。

 で、鶴田真由のファミリーヒストリーを見ながらも、あっちこっちで、私は、鎌倉エージェントが、私を攻撃してやるぜと、語り合っているのに気が付きました。::::::::

 で、スピンオフから元へ戻りますが、NHKを、ニュースだけではなくて娯楽番組とか、文化番組でも、攻撃に利用する鎌倉エージェントが、いると、結論付けて、副題1に書いた、文書に戻ります。

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副題3、『復元不可能な父や母の写真も、盗まれているが、針生一郎さんから、もらった数枚のはがき、豊島屋の前社長、雅彦氏からもらったお手紙、安西篤子さんから、私の文章をほめて、頼ってきなさいと、言う主旨らしい、新住所(安西篤子さんは、私の、北側、今の別館との間に住んでおられた。その後、横浜へ転居されている)も書いてあるお葉書とか、たくさんの大切なものが盗まれているのです。

 そして、盗んだうえで、タイミングよく返す場合があるのです。一番恐ろしいやり方は、大久保忠春さんを、老女の無謀運転という形で、殺したのですね。九州での話です。これは、全国ニュースとしてもおかしくないのに、東京圏では、報道をされませんでした。後で、銀座の画廊で、大久保さんが、教授をしていた、九州産業大学卒の、作家が、個展をしていたので、「あなたの大学で、教授をしている大久保忠春さんは、私の中学時代の、同期卒なのですよ」と言ったら、彼女が「大久保さんは、交通事故で、亡くなって居ます」というのです。

 その事件のころ、我が家の一階の本箱に、大久保さんと、私との関係を書いてもらった毎日新聞の小さなコラムをパネル化したものが立てかけてあったのです。これは、江ノ電の、駅そばの、小さな画廊で、個展をする様にお友達が手配をしてくださったときに、作ったものでした。鎌倉には、旧制男子師範学校附属がありますので、旧制女子師範付属出身者の、仲良しぶりは、見物客に訴えると、思ったのです。銀座の画廊での個展では、こういうものは使いませんが、江ノ電の、駅そばの、素人さん向けの画廊だったから、アッピールに役立つだろうとして作ったものでした。

 でも、其の20㎝×20cmのパネルって、奥の奥にしまって居て、どこにあるかもわからない物なのに、急に玄関すぐそばの本箱に立てかけてある。変だなと、思ったのですが、それは、大久保さんを殺したことを、増幅して怖がらせようとしたのでした。もし、私が大久保さんに電話をかけたりしたとしても、独身で、住んで居たらしい、大久保さんには、電話が通じないでしょう。そうすると、私が関係を切られたかと思って悩むだろうと、見て、そのパネルを本箱に置いたのでした。

 これは、被害妄想ではなくて、その後、このいきさつをブログで、書いたら、80代の男性で、トラックの荷台に、廃品を山ほど、積んだ老人が、横浜上大岡で、暴走をして、小学一年生の、男の子(やまと君?)を轢き殺しました。そして、無罪になったはずです。本当に鎌倉エージェントは、恐ろしい事をします。

 鶴岡八幡宮の龍村さん、あなたが、大切にした、安野智紗夫人って、こういう件でも、大活躍をする人なのですよ。合鍵を持っていて、入り込みます。ほかにも四種類の泥棒がいますが、彼女とその夫も、頻繁に、侵入し盗んだり入れこんだりしています。

 副題1にあげた、保田先生から、水沢勉先生に、渡された手書きのメモとは、入れこまれた物でしょう。ずっと、以前に、何度も旅行に言って居ます。夫婦二人と、親戚と一緒に。その際に、朝、必ず、横浜銀行・鎌倉支店前にデモ隊、もしくは、署名お願い隊がいるのです。つまり、常に井上ひさしに代表をされる鎌倉エージェント(=CIAにして、左翼なので、共産党員を手兵として使えるのだったが)が、-----お前が旅行に行くのを、こっちは知っているぜ-----と、言うデモンストレーションをするのでした。そして、ある時期から(2007年ごろからだった)気が付いたのですが、留守の間に、泥棒が入るのです。それは、ご近所の安野夫妻とか大原光孝という画家ではなくて、CIAの家来としての警察no特殊部隊でしょう。

 つまり、鎌倉では左翼と警察がぴったりと結びついているのでした。それこそ、奇妙中の奇妙ですが、そうなんですよ。常識では考えられないことが、起きているのです。

上は安野家の門前に長らく、打ち付けられていた看板です。これが、13号で、14号は前田家に在りました。が、さすがに、1960年代に大学生だった前田家では、こういうものを門前に貼ることが、恥ずかしい事だという認識はあって、たわしで、白い文字を消して、青い看板だけが置いてあったのです。しかし、うっすらと字が残っているし、数字が14であることも読み取れました。

 今、この看板は白井達雄・小野寺夫人宅に置いてあるらしいです。しかし、グッと若くて、安保闘争も知らないであろうし、大学紛争も知らないであろう、白井夫妻であっても、警察が犬と呼ばれた時代もあったことをうっすらとは、知っているのでしょう。だから、門前などにはおかないで、玄関内に置いてあるのです。が、わざと、それが、見える様な手配をされたこともあって、私は、知っているのです。ところで、安野夫妻とは違う置き方をするとか、そのほか、もろもろがあって、あの二人は、まあ、安野夫妻よりも、教養は、高いらしいので、それに、早稲田大学を軽蔑をしたので、私としては、東大卒だと、思って居るのですが、4月15日に小野寺夫人(二人は夫婦別姓です)から、言葉で、「東大卒ではありません」と明瞭に否定をされたので、東工大卒なのかもしれません。京都大学ではないです。たとえ、北海道で、育っても京都に四年居ると、京言葉になってしまうのです。しかし、あの二人には、京都の雰囲気はみじんもないし、大阪弁の名残りもないです。そして、何よりも、雄弁な証拠は、奥さんが、早稲田を軽蔑した過去があることです。東工大の人が早稲田を軽蔑するかなあ? だから、小野寺夫人の頭の中ってどうなっているのだろうと、いつも不思議です。

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副題4、『この泥棒行為をやる際ですが、やって居る人間の頭脳は、非常に単純です。単純なので、特徴を残すのです。それから、CIAエージェントの命令によって、盗むケースでは、NHKニュースと連動するので、誰が何を盗んでいるかは、それらをすべて総合すると、殆ど正確に分かって居ます。特に五年前までは、はっきりとわかっていました。

 でも、ブログ読者が誤解をするだろうと思ったので、このブログで、その件は、あまり書かなかったのです。で、やられましたよ。2007年ごろからずっとやられっぱなしです。で、銀行の金庫を三つ借りているのですが、鎌倉では、三菱銀行だと、古い形式なので、却って安全な気がします。しかし、一度返してしまったので、その後は、三菱銀行で、貸金庫を借りるほど、貯金ができないので、残念で、今の所、浜銀で二つ、みずほで一つ借りています。

 しかし、浜銀が、おそるべきレベルで、こういうCIA部隊=警察に支配をされていて、一冊の本ができるぐらいのエピソードがすでに集積して居ます。まあ、どうしてかというと、その建物は、リフォームされたのですが、その新館の設計が西隣の白井達雄さんですって。だから、浜銀鎌倉支店は、極端に警察に支配を受けているのかもしれません。だけど、貸金庫を開けられるなんて、100%の人権侵害です。

 主人が入院中に、駅に在る、図書館の返却ボックス1に 9:00すぎに返却した、雑誌【演劇界】2011年6月号が、「返却されていません」と図書館から言われて、買って返却した事があるのです。で、主人が五月に退院して、やっと、其の4か月後の九月に浜銀の貸金庫に税務申告用の領収書(これの古いものを自宅に置いていたら盗まれたわけですが、新しいもの、つまり、申告前の領収書を、二つ借りている貸金庫の内、上の方に在る、#1331に入れておいたのです。それをやっと九月に開閉したのですよ。すると、以前からすでに入れていた領収書の束の下に、問題の雑誌が返却(?)されていたのでした。いや、はっきり言うと入れ込められていたのでした。

 主人が入院中に9時から5時までの間に、浜銀の金庫室に行くなんて圧倒的に無理な事でした。でも、それほどのことをやられて、ほとんど、役に立たない感じでも、まだ、貸金庫は、二つとも返却して居ません。だって、雑誌以外の、金銭的な被害が出たら、一応浜銀の責任を追及できるわけでしょう。それで、自宅に置いているよりも、浜銀の貸金庫に入れて置いた方が、まだ、安全なので、その二つも借りている、貸金庫を、まだ、返却していないのです。

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副題5、『ある時に浜銀の金庫室で、金塊、六キロインゴットを、4本見せびらかしている人(=老人で、男性、貧しい服装の人で、顔もよくない)がいて、そばで、女子銀行員らしき女が、「きゃーっ。何々さんすごいですね」と騒いでいたことがあるのですが、100%、嘘だと思いました。金塊の方は、映画の小道具の金塊であろうし、そばにいて、矯声を挙げていた女子行員も、浜銀の女性であるはずもないです。きっと、警察の女性の変装でしょう。そして、これは、井上ひさしのアイデアに基づいていますね。又は、鎌倉の警察署の生活安全課の課長のアイデアです。

 これはね。私の貸金庫ボックスの中身を点検して、すでに知っている警察の特殊部隊が、鎌倉エージェントの伊藤玄二郎に、内容を告げているのでしょう。「紙ばっかりだよ。馬鹿みたいだね」と。で、井上ひさしと二人羽織というほどに、二人はべったりだから、井上ひさしが、「それなら、金塊を入れて置こうぜ、そうしたら、領収書みたいなものを入れている自分の貧乏さがわかって、恥ずかしくなるはずだから」と言ったのでしょう。

 でね、脚本が練られて、一芝居打たれました。だけど、すぐ嘘だってわかりました。どんなにお金持ち(例えば歯医者さん)で、金を売り買いする御用聞きが訪問する様なお宅でも、買うのは、二キロ延べ板が、普通なのです。お金があれば、それを三枚とします。でないと、持ち運びに不便だし、税務申告もできませんしね。

 6キロインゴットだと、今なら、4000万円です。品のないおじさんで、けっしていい洋服を着ていないのに、どうして、6キロ単位で、人生で、四回も四千万円を支払う事が出来たのですか? あのね。退職金をもらった時は、一回程度、六キロインゴットが買える可能性があります。しかし、それ以前には、子供の教育費、家を建てるお金、それから、老後資金などなど、いつもひっ迫して、いて、換金が不自由な、金塊六キロなど、ゆうめいじんでも無い、普通のおじさんが買うはずもないのです。

 むろん、三十年前は、今の、価格より安くて、126万円だったので、六キロインゴットは、1500万円で買えました。でも、六キロを四回も買える、ふつうじんは居ません。マスコミ有名人でない限り、損な買い物はできないのです。

 もし、会社のお金を使いこんでいるなどという悪いお金だったら、銀行の貸金庫なんかに入れませんよね。しかも赤の他人の私に見せびらかしますか? というわけで、井上ひさしが、考え出した、嘘事案(謀略)は、すぐわかるのです。

 やまゆり園事件もボロボロ、瑕疵(ほころび)が、見つかっているし、京都アニメーション放火事件も同じです。だけど、一般人って、手もなく騙されるんですよね。本当に日本人は劣化しました。それで、花をもって献花台へ向かい、「お気の毒です」と、いかにも善人そうに、意見を述べるのです。はずかしい。

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副題6、『連中がもし、頭がよくなっていたと仮定をすると、これは、かくらん作戦なので、誰がやったかは、三人の候補を挙げるだけにして置こう。役割交換をして、いつもとは違う人間が、行っているかもしれないからだ。大原光孝、安野夫妻、警察の特殊部隊と、泥棒陣は、成る。 

 ところで、この保田先生が書いたメモを、を入れこんだ目的だが、「お前さあ、自覚をしているのか? 水沢勉との間柄って、100%切れているんだぜ」と、言いたいのでしょう。そんなこと、180%分かって居ます。

 水沢勉さんと、私は、実家が、同じ分譲地の隣の隣の区画という間柄で、年は、12歳水沢先生の方が下です。だから、私が、横浜国立大学の付属中学校に、入学した年に、氏は生まれたというか、よちよち歩きの時代だったのです。父君が東大卒で、いすゞ自動車の社長さんで、両親は二人ともすらっとしたやせ型の人で、水沢先生は、お母さんの方に似ていて、お姉さんが、お父さんの方に似ているとか、・・・・・

 でね、メモの内容は、私が・・・・・シルヴィア・保田(春彦先生の奥様)の人生を知ったことを、をきっかけとして、自分を考える・・・・・という長い小説形式の文章を書いて保田先生に送ったことへの、感想のメモです。画家の方(実名を挙げると、上條陽子さん)に読んでもらったら「面白い」と言われたけれど、一般向けではないです。だから、紙の本へは、直していません。

 これから、先大量に加筆をしたいのですが、それは、8日から、9日にかけて行い、トップに置いてあります。

 

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