銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

墓にまで持っていく秘密(化学反応の、ありえる限界)

2009-05-29 11:06:46 | Weblog
 もしかして、二回前の、『ポスドクとアカハラ』というのを、アップの時間を間違えて、皆様にはお読みいただけなかったかもしれません。もし、そうであると、今回のものは、その続きとなりますので、二回前の、部分を再度ご検討をいただけますと助かります。ただ両方とも大変長くて恐れ入ります。ブログの世界は、こういうことを書くべきではないのかもしれませんが、AOLの閉鎖されているメルマガで、ずっと、こういう調子でやってきたので、つい、地が出てしまい、恐れ入ります。

 実はどうして、湊先生との約束を破ったかをお話をさせて頂きたいのです。一見すると驚天動地の失礼な事をしたように感じられるし、先報では、歯にものが挟まったように、書いたので、私がとんでもない、あまい、わがままな人間であるかのごとき、印象を皆様に与えたでしょう。しかし、中央大学教授殺しで、始まったこの文章です。最後に、本当の事まで、とことん申し上げさせてください。私ももうスグ天国(?)で湊先生にお会いするからです。

 学者と言うものは、新しいテーマに取り組まなければなりません。この地球上で、今まで存在をしていない物質を合成で作り出す、・・・・・それが化学者たる湊先生の望みでした。だから、先生の方に問題はありません。

 ただ、先生が命令なさった課題が不可能なことだったのです。終点が無い、つまり、どんなに時間を掛けても、そして、誰がやっても失敗する実験だったのです。それが問題の本質でした。

 今あれから、45年間経っていますが、だれも、先生が提案したベンゼン核を含む石油類(ベンゼン、トルエン、ナフサ)から重合物(いわゆるプラスチック)を作り出したということを聞きません。もし、これらの物質に、酸素、チッソ、硫黄等や金属などを加えて、枝をたくさんつけ、錯体をつくり、その上で重合すれば出来るかもしれませんが、それは、課題も物質も違うものが出来上がることになります。工業生産段階に入れば、製造費も抜群に違うものになり、この1965年に先生がお考えになっていた物質とはまるで違うものとなります。そして、先生がこの年に私に命令された物質は、45年後の今でも、まだ製造されていません。


 ベンゼン、トルエン、ナフサ等の物質には、亀の甲と言う構造があって、二重結合が6角形のうちの三本もあるのですが、それは、切れることが無いのです。しかし、先生のもくろみはそれを切り、隣の水素と炭素を結びつけ、プラスチックを作ることでしたが、カメの甲がもし、楽に切れるとしても、最終的な生成物は、エチレン、スチレンと同じ性質が生まれるはずで、それがプラスチック化したものは、既にスチロールと言う名前で、発明をされていた後だったと思います。

 そういうわけで、亀の甲を持っている原材料は、アルミナを加えて、40度ぐらいに熱しただけでは、どうしても、無反応で、空気中に蒸発しきってしまい、フラスコのあとには、痕跡程度の燃えカス、特に触媒が残るのでした。

 しかも一番悲しいことは、突然の沸騰(とっぷつと発音する)が起きることなのです。それが、起きると、水銀があたり一面に飛び散ります。有機水銀ではないので、毒性は低いのですが、それを床から拾い上げる姿勢が惨めなのです。

 化学実験室の床とは、厚手の木で出来ていて、薬品との反応で、がたがたになっていて、小さなもの、大きなもの、穴がたくさん空いているのです。そこへ水銀は、ころころっと、小は一ミリ、大は七ミリぐらいの粒として、しかも数十を越える数として、入り込んでしまうのです。それをいちいち、丁寧に床にかがみこみながら、拾って行くのですが、同僚に「あの人は、失敗をしているよ」とみなされる屈辱のほどは、言うに言われませんでした。

 今にして思えば、湊先生は実験器具の組み立て方にも無理があったのです。フラスコは、パイレックス(当時としては超がつくほど高いもので、日本製に比べれば、厚みが6倍ぐらいあるしっかりした器具)を使っているので、傍目には、無理がないようにも見えましたが、一番の問題はふたのことでした。

 内圧がすさまじく高いので、ふたをぶっ飛ばすのです。そのふたが水銀シールと言う方式で、水銀はベンゼンなどの溶剤に比べれば質量が圧倒的に高いので、そこを泡となって、ベンゼンが通り抜けることができず、突沸が起きるわけです。ところで、水銀シールをなぜ使うかと言うと、下においたフラスコの中にある物質を攪拌して、反応を早めるためです。

 あまりに専門的な事が続くのは恐れいりますが、水銀シールの入れ物は、お寺の鐘をさかさまにしたような、丸いガラスです。その中に水銀をいれ、水銀の表面張力の強い性質を利用して、真ん中、特に底にアナをあけたものなのです。水や油などの、普通の物質ですと、穴があれば下に落ちてしまいますが、水銀だけは、その表面張力が強いので、穴から落ちずに、そのガラス容器内に、とどまり、まとまります。

 そのアナに、上から、スターラーと言う下向きの、かざ車をつけて、下のフラスコ内の液体を攪拌するのです。反応が早く進むように願ってです。

 先生にしてみれば、水銀を蹴破って、内圧の高くなったガスは出てくるはず、または、そのガスが出る前に、重合が起きるはずだ・・・・・、だから、これは一時間以内に終わる無理の無い実験だという予想をもっていらしたと思います。しかし、5時間掛けても化学反応は何も起こらず、内圧の高さに負けた、突沸が5分おきに起きるということに、実際には、なりました。

 夕食を早めに取り、ずっと、観察を続けていて、ちょっとでも、内圧が高そうだなと思えば、三首フラスコの、ほかの二つの首にはめてあるふたをはずして、内圧を逃がすのですが、その時に、触媒から出る塩酸ガス、と、原料のトルエンも大量に私は肉体内に、吸い込みました。キュリー夫人の時代からではないが、理工系の学生には、誰にも大なり小なり、そういうリスクはあります。

 実を言うと、カラダがぼろぼろになっています。スタミナは無く、すぐ、眠くなります。ハンストをしても、一番早くドクターストップがかかるほど、弱いからだとなってしまっています。『スト破りか』と誤解されるので、それも恥ずかしいのですが、そのストップが掛かった血圧の値から30ぐらい下がると、蘇生困難になるみたいです。

 立ちくらみが原因で、四時間もイスタンブールで、気絶をしていたこともあり、ホテル側が呼んだお医者さんに蘇生措置を施してもらったこともあります。やっと生き返った後の血圧が、40から60でした。外からはそれは、見えませんが、極端にカラダが弱い人間です。

 八年前に頚椎内神経を痛めたときに、レントゲンを見ながら、「あなたの骨は90歳ぐらいの人の骨になっています。だから鋭角にとんがりすぎているので、内側の神経を痛めるのでしょう」とお医者さんが仰ったのですが、骨が悪い事をはじめとして、全身の血管にある弁がうまく作動をしないようで、心臓が悪い時期もあって、ニトログリセリンを帯同していた時期もありました。

 でも、それは、45年後の今わかることで、当時は、ただ、尊敬する先生の実験をうまくできないと言うことで、自分を責めました。突沸を避けるタイミングを見逃して、こぼれると、収量が変ってしまうので、化学実験としては、正しい結果とならないので、毎晩、ただただ、フラスコを見つけ続けているのですが、時には見逃してしまって、真っ白な保温器(ガラス繊維で出来ている)を触媒の色で茶色に染めてしまった日もあります。

 そんな日は、夜の十時過ぎに、電話帳で調べた、荻窪か阿佐ヶ谷の製造所を訪ねて、「同じ型の新品を売ってください」というつもりでしたが、その場所への到着は夜の十一時過ぎていて、どこの家も真っ暗で、道を聞くわけにも行かず、見つかりませんでした。家内工業で作っているらしくて、工場もありませんし。その夜は、ほとんど、泣きながら歩きました。阿佐ヶ谷の暗闇でも、泣きましたし、三鷹近辺の暗闇でも泣きました。つらくて、つらくてなりませんでした。

 次の日に、「かくかくしかじかで」、と申し上げたら、湊先生は、今まで見たことのないような優しい顔で、「そこまでする必要はありません」と仰ったのですけれど、「この実験は無理ですね。止めましょう」とまでは、仰らなくて、それ以降も、私は絶対に出来ない物質を求めて、いつも床を這いずり回り、水銀を集めていたのでした。周りの人に軽蔑をされながら。

 私の大学はマスプロではないので、湊先生の下の学生が三人、他の先生の学生が、二人しかおらず、実験のために、夜までそこにいる人は、9時ごろまで二人、それ以降は一人ですが、誰にも理解をされず、ただ、『あの人は実験がもろ、下手な、劣等生だ』と、みなされていたと思います。1965年の秋はすさまじいまでに不運な年でした。

 でも、ね、それを全く気にしなかったのは、世の中が学生運動で騒然としていて、私は、『自分が静かな実験室にいられるだけで、幸せだ』と感じていたのです。夜、誰もいない実験室でさびしくて、しかも目だけを動かす実験で手は何も動かさないので、よく歌を歌って、無聊を慰めました。セロ引きのゴーシュと違って、ねこは現れなかったのですが・・・・・唄が好きになったのは、あの実験のせいかもしれない。

 しかも残念な選択へ向けての、決定的な瞬間があったのです。途中で先生と実験について、懇談するのですが、あるときに、大かみなりが落ちたのです。その時に、『この先生には、ついていけない』と感じたのでした。先生も見通しが間違っていたとお気づきになったからこそ、潜在意識の中で辛くて、いらいらなさったとは思いますが、私にしてみれば、『今は学生だから甘やかされていて、この程度なのだ。もし、就職して、お給料でももらったら、先生の命令には100%逆らえず、こういう苦境が永遠に続くのであろう。それには耐えられない』と感じたのでした。

 これは当たり前の話です。人間は無理なことをやり続けることは出来ません。そして、自分で決断をして、そこから、逃げたからこそ、先生を恨んではおりません。ぐずぐずすることは無いのです。次のステージに移らなければなりません。

 でも、化学者としては、新しい物質を追い求めるのは、その本質的な・さが・ですから、私は、その当時も今でも、湊先生を責めるつもりはなく、この《ベンゼン核を持った溶剤を、プラスチックへ仕上げる》と言う卒業実験が、化学・反応としては、無理な課題だった事実を、墓まで、秘密のまま、持っていくつもりでした。

 ただ、中央大学教授殺しを分析しているうちに、チラッとですが、これに触れてしまったので、それは、最後まで書かないと、私が甘ちゃんで怠け者だったがごとく、皆様がお考えになるでしょう。だから、書きました。が、卒業後、他の学生は推薦された日本化学会へ、私は入れませんでしたし、思い返せば、本当に、運が悪い時期でした。そこから、どういう風に抜け出したか、そして、生き続けるということ・・・・・つまり、自殺もせず、他人を殺害もせず、普通に、行き続けるということは、・・・・・どういうことなのかは、次に、書きたいと存じます。
                2009年5月28日           雨宮舜
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