銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

大船のドコモshopで、17-3-21に用意されていた攻撃用脚本は、京橋のPen Stationで、2014-6-4に実行された罠と同工異曲であった

2017-03-22 12:26:56 | 政治

 四報前の文章の、副題αの中で、この現象には、既視感があると書いております。それは、2014年に、京橋に在った、ペンステーションと言う人気あるカフェの、右側のコーナーで、起きた、殺人未遂へ繋がる罠でした。

 警察の、特殊部隊は、現在の日本では、CIAの手下として、機能をしています。現在日本には、洗脳用嘘が蔓延をしております。それを、全部正しい方向で、分析して行く私は、大変困った存在であり、その私(=雨宮舜にして、本名、川崎千恵子)をどうにかして暗殺したいのです。

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銀座の通が利用する休憩所+例の悪人達の脳は、とかげでは無くて鰐だったかな?△2014-06-03 10:51:48 | 政治

 トカゲか、鰐か?-2・・・・・湘南信金と言うキーワードから、騙されていた事が解ってくる  2014-06-07 23:01:50 | 政治

 FBに入れなくなった頃から、2ヶ月、爆発的に書いた144章の、私が見た世の中と政治△  2014-06-08 02:42:01 | Weblog

 トカゲか、鰐か?-4・・・・鎌倉では将来は、一軒ごと個別にごみを回収するらしいが?  2014-06-09 18:55:05 | Weblog

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12日は、読みにくかったと思います。申し訳ございません。  2014-06-14 00:41:40 | Weblog

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厚生事務次官殺しに死刑が下ったが、メディアの報道が少なすぎるのは何故だ?△  2014-06-21 14:01:50 | Weblog

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鎌倉で、我が家近辺の街灯が、最初にLED化された影に我が家への盗聴があったかな?    2014-06-23 14:24:03 | Weblog

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1998-9-4 Paris Bastille で、私が拉致されそうになった裏に、その拉致を一般化させ様とする週刊朝日の記事があったのかな?

2017-03-22 10:02:38 | 政治

  この文章ですが、23日の、夜9時半まで総タイトルを『週刊朝日が、昔、日本人女性が性的奴隷化を目的に拉致されている、という記事をさんざん載せていたが、その理由を、今明かそう』としておりました。しかし、その時点で、上のモノへと変更いたしました。今から推敲加筆をして行きます。その部分は、大切であろうがなかろうが、茶色のフォントで、表します。

副題1、『現代日本は、秘匿されてはいるが、実際には、被・植民地国家なので、それを指摘する私は、<あいつは、暗殺してやろう>として、常に、狙われている』

 その目的のために、悪人たちは、最初には外国の地、および外人を使いました。1998年の9月4日に、危うく、パリの地下鉄・バスティーユ駅を出た途端に、拉致されそうになったのです。だって、切符を見せろあと検札する』なんていうのですよ。その当時のパリの地下鉄の、切符って、非常に単純なものだったので、後検札ど、必要がないのが、私には、判って居て、『これはおかしい』と、思い、その瞬間に、拉致を、狙われていることが分かって、火事場の馬鹿力を出して、八方向に広がっているバスティーユ駅の中の、或る地下通路を、一つ選んで、全速力で、走って逃げだしたのでした。で、脱出に無事成功をして、しかも、地上に出て見たら、どんぴしゃりの道路(サンタントワーヌ通り)へ向かう出口だったのです。そして、サンポール駅と言う、自分が住んでいる地下鉄駅に向かって歩き出すと、婦人警官と、男性警官の二人組が、徒歩で、歩道を歩いて来たので、委細を説明すると、二人組はすぐ、走ってバスティーユ駅に向かってくれました。

 彼ら拉致未遂犯の方は、五人組以上の人数で、行動をしているのでした。しかし、後で、よくよく考えると、もっと数多く、サクレクール寺院近辺、コンコルド駅、サンポール駅等に、配置されていたかもしれません。

 そして、当時はまるで、違った風にその現象をとらえておりましたが、あれから、18年が過ぎた今では、非常に苦渋に満ちた、笑い話ですが、私があまりに大物なので、日本から離れた場所で、家族がいない場所で、拉致して、殺して、パリ、または、フランスの、どこか別の場所で、発見をされるという形で、暗殺が狙われたと、感じています。

 で、プロ中のプロであり、しかも、政治が目的のものだったのですが、1998年当時の私は、それが、性的拉致を狙ったものだろうと、解釈をしていました。どうしてかというと、当時かな? 週刊朝日が、・・・・・性的奴隷を狙って、日本人女性が、外国で、拉致されるケースが多いと、いう記事を組んでいた・・・・・からです。

 ここですが、初稿を書いてから、二日目に、新しい見解を入れます。その・・・・・性的奴隷を狙って日本人の情勢を拉致して行くのだと、言う記事が、私の出発前に、出回っていたとしたら、ひとりでの、海外渡航

 すみませんが、ここで、23日の夜です、強烈な睡魔に襲われました。続きは明日24日に書きます。「

 それを信じていました。1998年9月4日時点での、主役は、背が180cmはあろう美男(50代)で、映画俳優ではないかと、思いました。で、『ああいう男が、クラブ等、を経営していて、本物の、やくざなのだろう。秘密の裏部屋を持っていて、そこで、お金持ちに、性的奴隷を供給しているのだ』と、考えました。

  上は、自撮り棒のない時代に、アトリエの押し入れにカメラを置いて、自分を撮影した画像です。22年前ですが、髪は豊かにふさふさとしていて、顔にはしわやシミが無くて、体は細身でありました。その、一年前の1997年の秋に、有名な手相観の、日傘雅水さんに、「あなたには、金星帯があるので、普通の主婦だったら、事件を起こしていますよ。アーチストでよかった」と、言われていました。それは、換言すると、「自分には、性的な魅力がある」という事でもありますので、『性的奴隷用に、拉致されかかったのだ』と、解釈していました。

 「は、は、のんきだね」と、言うところですが、こういうところも、私が、激しい攻撃をかいくぐって、1998年以来、すでに、21年にもなるのに、無事に生き続けている所以でしょう。このブログを読んで、私の事を<神経質で、弱い女性だ>と、お思いの方は、多いと思いますが、

 実は、本質的に、楽天的であり、ユーモアを解する人間なのですよ。いつも、実際には、余裕があるのです。だから、常に周辺に対して、冷静な目を向けています。それが、たった一人で、このすさまじい攻撃を、かいくぐり、無事に、生き続けている、本当の原因でもありましょう。そして、すべての現象を即座に文章に、書き表せるという事に繋がっているとも思います。いつも冷静だから、それが可能です。パニックに陥ることはないのです。

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副題2、『パリ、マレ地区、嶋田しづさんのアパルトマンについて、些少を語ろう』

 私は文化庁の在外研修生としてパリへ渡ったのですが、当時は、父の遺産が、まだ、2800万円ほど残っていたので、資金は潤沢であり、滞在用アパルトマンに、三か月で、50万円を支払うという形で、了承をして貰いました。持ち主は、銀座百景の目次頁の、口絵を長らく書いて居た(または、現在も継続中か?)嶋田しづさんです。

 嶋田しづさんは、「実家が造り酒屋ではないかな?」と、私が想像をしているほどの、お金持ちであって、戦後の女性解放時代を満喫した方です。で、女子美を出た後で、早稲田大学も卒業し、更にパリへわたって画家となり、パリのマレ地区の、小さなビル内4階(日本で言う実質的な、五階・・・・・パリはセーヌ川の氾濫が多かったせいか、一階を数えない仕組みがあった)に瀟洒な住まいを保有しておられるのです。部屋は、南側に、細長い16畳の、アトリエ兼、客間があり、北側に、4畳半程度の、寝室と、同じくらいの広さの御台所がありました。嶋田しづさんは、紙に下書きをする作風なので、部屋が汚れないタイプの作家(美術系)なのです。きっと、もう一つ部屋があって、そこは、嶋田さんの持ち物収容部屋だったかな?

 そこで、午前中は、専門家用の版画工房に通い、午後は、日常用の家事をして、夜は、文章を書く生活を、毎日繰り返しました。・・・・・なんと素晴らしい三か月だったでしょう。『これが、自分には六いている』と、確信した私は、その五年後辺りから、パソコンを使って、文章を書くようになります。そして、継続は力なりで、メルマガの読者が、2004年ごろには、住所、名前、顔を知っている、相手(=中流の上の、インテリ)だけで、500人を超える様になりました。

 すると、すさまじい攻撃を受ける様になりました。私の影響力が強まると、困ると、考えている手合いが、多くいるという事です。その攻撃は、2007年ごろから 2010年に掛けてが、最もひどい状況でした。その頃は、主人も元気だったので、攻撃のいちいちを、文章に手書きして、知らせて、心理的援助を乞うたのですが、返事はいつも同じで、「お前ほど、幸福な人間は、現代の、日本には居ないよ。だから、少々のことは我慢をしなさい」でした。確かにねえ。今、思い出しても、『この、1998年の秋の三か月のパリ暮らし程、幸福で、刺激に満ちていて、かつ、学びの多かった時期は、人生に、他には、ないのではないかな?』というほどです。

 この時に、私は、『自分は一人暮らしに向いている。そして、夜が、一人で、自由に使えて、文章を書く事ができる生活は、なんと素晴らしい事なのだろう』と、思い到ったわけです。で、版画制作用のプレスと言う機械が、重すぎて、鎌倉の自宅への石段を4人がかりで、もっても、上がらないと、機械の制作サイドから見込まれているので、仕方がなくて、すでに、保持していた、逗子の古いマンションの一階にある、総計24畳分のアトリエに、夜も寝る様になり、日本国内でも、一人暮らしを始めました。それでこそ、家族の束縛や、反対を、おしのけて、ニューヨークへ版画修行に出かけることが、可能になります。1999年と、2000年にそれを敢行しました。

 そちらも又、得難い思い出ですが、やがて、背中に激痛が走り、その痛みが、24時間続く病(頚椎内神経損傷と、西洋医学では、診断をされて居る)にかかり、それを、治癒してくれたのが、57歳の時にエンジニアから、鍼灸医に転身していた主人だったので、神の啓示を感じて、自宅に戻り、主婦生活を再開します。主人の診断では、発症の原因は、一種のストレス性の、激痛だった可能性もあるとの事でした。家族を離れて、主婦としての責任を果たしていないという事は、相当な、ストレスを、我が身に与えていたのです。しかし、それでも、56歳から、58歳にかけて、毎年の秋、三か月ほど、海外の大都市で、版画修行をしたことは、絶対によかったし、それが無かったら、不定愁訴気味のつまらない人間で、終わったと、おもっております。

 ただし、東洋医学でも、痛みが完全に、除去されるまでには、三か月以上かかりました。その時点で、世界的なアーチストに成ることをあきらめたのですが、神様の命令だったと、思うので、仕方がないわけです。あ、は、は。
 この、アパルトマンの在ったマレ地区は、ユダヤ人が多いので、富裕な地域です。今は、日本人デザイナーなどの、出店も多い人気地区でしょう。それは、ノートルダム寺院と、サンポール寺院の間に在り、パリ中心部の、最も古い街区です。その東北にあるのが、11区で、例のシャルリーエブド新聞社とか、私が毎日そこへ通い、版画を制作した、工房があります。

 ここでの、三か月間に、多くの刺激を受け、学びを感じており、それを、また、出版したいものだと、考えていますが、実行に至っておりません。どうしてかというと、週刊朝日がネックとなって居るのですよ。(苦笑)

 週刊朝日の問題は、非常に大きいのですが、ここでも、中学時代の、友人が編集長をしていたので、なかなか、書けないところがあるのです。「大切な友人が所属していた職場(=朝日新聞社)に、悪が蔓延しているのだ」という事は、なかなか、書けません。

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副題3、『1998年9月4日に起きたことを正確に思い出すと、それは、性的奴隷を狙った拉致ではないことが、今ではわかってきている。その詳細を、ここに記録しておこう。特にサクレクール寺院そばの版画工房についても、触れつつ』

 私はパリへ渡航する前に、八重洲ブックセンターの一階で、一枚になって居る、大きな地図を買っていきました。これが、非常に役に立ったのです。が、どうしてか、今では、我が家に在りません。もしかしたら、例の泥棒達が、頻繁に、侵入していた2007年ごろに、両親の写真や、父の画業の業績が、新聞記事になって居る切り抜きが盗まれていますが、それと、同時期に盗まれているのかもしれません。

 で、たった、到着四日目にして、その地図を頼りにして、パリ、サクレクール寺院そばに存在する版画工房に、いけたものだと、自分でも驚きます。その前には、コントルポアンと言う版画工房にも一人で行っています。

 サンポール駅から、東へ向かって、四つ目のコンコルド駅で、12号線に乗り換えて、アベス駅で、降りて、土産物店の集中している街中を少し歩いて、サンポール寺院へ上る石段にたどり着きます。その長い石段の途中の左側に、大変大きな、版画工房があって、そこを上記の嶋田しづ先生に、ご紹介いただいていました。嶋田生ご自身は、版画は、やっておらず、だから、紹介状はないのですが、情報通でいらっしゃるので、「そこが、パリでは、最上の版画工房だ」と、仰っていて、それは、間違いないと、思います。ただ、残念ながら、そこで、摺師として、自分の版を、摺ってもらうのを断られてしまいました。で、縁が切れてしまったので、そこの名前を忘れていますが、パリで、最高レベルの版画工房であるという事は確かです。ただ、アーチストが、自分で、そこを使って版画を摺るというよりも『頼まれて、摺師として、摺りますよ』という種類の工房です。オーナーは、小柄で、大変美しい女性でした。たぶん、二代目か、三代目か、四代目の娘なのでしょう。

 そこで、断られてしまった理由ですが、今では、二つあったと、思います。

 一つ目は、電話で、逗子在住の嶋田先生に、電話連絡を最初にしたころから、すでに、電話が盗聴をされて居て、従って、嶋田先生宅に、私用の盗聴器が仕掛けられていたか? または、他の方法でかは、判りませんが、私がそこを訪問することを、事前に、予想をされて居て、尾行もついていたし、彼等は、携帯のない時代でも、最先端の、通信装置(高性能なトランシーヴァー等)を持っていたので、工房に、「引き受けない様に」、という邪魔を入れた可能性があります。

 これは、その19年後の、大船笠間口支店というNTTドコモショップで、展開した事情と、まったく同じ手筈と、流れに沿ったものだったでしょう。だから、このパリの話題は、今書いて居るモノから、逃げたくて、書いて居るわけではありません。発想も、連想も、今、書いて居るものと連続をしております。

 で、私は、2017年の3月21日には、大船で、盛んな、気炎を上げながら、ミステリー部分の、探索を進めたのですが、内心で、『自分でも、驚くほど、進歩しましたねえ。パリでは、手も足も出なかったのに』と、思って感無量でした。つまり、喧嘩すれすれの迫力で、交渉しつつ、相手の裏側にあるものを知ろうとする、そういう迫力の事です。

 パリに戻ります。最初は全員が、親切だったのですよ。各種のプレスが整然と、16台ぐらい置いてある工房の中にも実際に入れてもらいましたし、若い男性摺師は、興味津々で、私の版を見つめてくれていました。ここで、版と言うのは、すでに、模様が設置されている銅板のことです。彼の仕事場の、すぐ傍に棚があって、そこにプチダノンの容器が、200個ぐらい整然と保存をしてあって、過去に摺った色付き版画で、使ったインクの残りが、とりのけられて残されて居るのでした。それにもびっくりしたものです。豊かで、爛熟した芸術の街と言われるパリでさえ、雑駁ではないのでした。渋ちんと言うか、しっかりしているというか、だったのです。

 ところが、突然に、はしごを外されて、何が何やらわからないままに、版画工房を後にしました。不思議な建築で、入り口は、洞窟なのですよ。版画工房自体は、奥の山に在って、窓もあるのですが、入り口は、岩石がむき出しのトンネルなのでした。

 で、今では、裏からの差し金があったと、確信をしているのですが、長らく、『値段を、こちら側が、正確に提示しなかったので、駄目だったのだ』と、考えておりました。

 私の版画は、ヘイター方式と言って、やってる人が少ないし、1998年とは、私はそれを、新横浜のOMという版画工房で、始めたばかりで、日本で、日本の摺師に摺りをお願いをしたことがなかったので、一枚摺るだけで、一万円を、実費として、取られるという事を、まだ、知らなかったのです。

 だから、あそこでは、当時、一フラン72円だった、「フランスフラン3000(=日本円で、20万円)程、払いますので、六種類の版を、一版につき、五枚ずつ摺ってください」という風に頼むべきだったのだと、考えています。

 しかし、19年後の今では、刷りの実費としての値段が問題だったのではなくて、裏(CIA)から急な電話が入ったのだろうと、おもっております。そちらの方が正しい推察でしょう。

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副題4、『私がパリに居て、幸せだったと感じたのは、いろいろなつてを頼って、小さいながら、最上級の版画工房に所属をする事ができたからだった。そこで、9月15日から毎日、版画制作の仕事をする事ができた。海外では、プロ級の人は鍵を渡してもらえる。自主性が尊重されている。コントルポアンには、プレスがあまりに少ないので、これほどの、作業はできない見込みがあり、作業場所を変更したが、それが、大正解だった。主に午前中にそれをやり、午後には、元からそこを使っていた所長さん(工房のオーナー)が、そこを使う。プレスは、全部で三台だが、通ってくる人は、一人職人さんが、居て、後はすべて、プロ級の作家だった。作家と職人の間には、区別(というか差別)がある模様だった。日本には、それがないと思うが。

 上にあげた、サクレクール寺院そばの工房は、職人としてのプロの摺師が、所属する一種の会社であり、作家本人が、作業をする場所ではない。

 嶋田しづさんの、パリの家では、細長い16畳のアトリエには、2m正方の白木づくりのしっかりしたテーブルが置いてあった。それ専用の、硬い椅子だけが、置いてあり、昔風の暖炉や、高いフランス窓など、ビロードのカーテンなど、背景が、ロココ時代の、様式の背景の中に、スパッとした、働きやすいテーブルが置いてある。ほかには、ソファーなどはおいて居なくて、端正な部屋だった。嶋田さんは、その上に大きな、美術用の、専門紙を広げて、美術の、作業をなさるのだけれど、私は、版画工房で、午前中7時間ぐらい、みっちりした重労働をして帰宅をするので、

 夜は、文章を書くのを、専一にしていた。テーブルの上を整理して、只白いレターサイズの紙を置く。日本で言うA4サイズの代わりに、少し幅広なこの紙を毎日使った。そこに、滑りの良い製図ペンで、さらさらと、縦書きで、文章を書く。1998年は、まだ、パソコンを使っていない時期だったので、手書きで書く。原稿用紙は、嫌いな方だった。あの大きさを埋めると、自分の書くピードとあわないのだ。だから、一行に、40文字入れてさらさらと書いていく。

 それ以前に、自分が文章書きとしても、結構優れた才能を持っていることをひそかに、自覚をしていたので、日本に居る三人に、お願いをして、「レポートを送るから読んでほしい」と頼んであった。手書きを、一枚手元に置き、後、念の為、4部コピーを取った。そして、航空便で送った。確かに、あの頃の私は、最高に恵まれていたのだ。コピー代、航空郵便代、すべてを、何の、心配もなく支払うほどの、お小遣いを持っていたのだから。国費とは別に、私費200万円を三か月間で、消費した。すべて、版画の材料と、通信費である。

 この三人は、中学時代の同級生である男性一人と、大学時代の、同期生である、女性二人である。深い信頼を寄せていたのだが、女性のうちの一人は、すでに、1966年以来、私と仲良しだからこそ、相手方にリクルートをされて居たのだった。また、もう一人の女性も、この18年間に、100%鎌倉エージェント側の取り込まれている。

 そして、実のところ、嶋田しづさんも、相手側に取り込まれている。酒井忠康氏などが間に入って、大岡信氏等を、紹介されれば、私の事など、捨て去ってしまうのも当たり前だ。

 そんなことは、口外は、したくない話だ。自分のみじめな話など公開しても、読者だって、陰院滅滅足る心地になるだけだろう。

 しかし、今般、その島田さんが、個展をした銀座(京橋を含んで言っている)の画廊こそ、信州大学一年生が、暗殺をされる出発点になって居ると、私は考えている。それは、佐野研二郎の、五輪エンブレム盗作問題を引き起こした、多摩美と、私との、自由が丘駅での、小学時代の、友人との会話から始まった、ひそかな軋轢(後注1)と、そして、鎌倉エージェント側の、すさまじい悪辣さが、からんでいることであり、改善を目指したって、私の方では、手も足も出ない話ではあるのだけれど、

 しかし、やってもいない、高一少女を斬殺したことにされて、その罪を、死人に口なしを、狙って、別の街で、轢き殺されてしまった気の毒な信大一年生の事を思えば、それは、書き進めないといけないのだ。今、その画廊名と、その問題のスタッフの名前を明かさないのは、彼女が私が、京橋に入るときを狙って、共同トイレに鍵をかけたのは、彼女一人の発案ではなくて、裏に鎌倉エージェントが控えていると、思うから、伏せているだけであって、これから先の彼ら+銀座(京橋を含む)の画廊街の反応次第では、すべてを明らかにする可能性はある。

 しかし、ともかくの処、本日は、その画廊にまで、筆を及ぼすつもりはない。それを説明するのは、非常に大変な事であって、準備段階が必要だ。それには、雪の下の安野智紗(または、夫の忠彦氏がやったのかな)夫人の、2017年3月17日の、二度にわたる窓の開閉が、問題だし、

 それと、そっくりな、NTTdocomo大船笠間口支店での、フロアースタッフ二人組の異様な行動を書かないと成らないし、

 それを説明する為には、京橋に在った、ペンステーションでの、2014年の、6月4日の異常事を語らないといけなくなるし、

 と、どんどんさかのぼって行って、だまし討ちとして、暗殺されそうになった、パリ・バスティーユ駅での、拉致未遂を語らないといけなくなっているのだから。

 さて、送り先の一人が、男性で、彼が、朝日新聞社勤務の記者だという事は知っていたが、元、週刊朝日の編集長だったという事は知らなかった。私がこのことを依頼したころは、銀座の、朝日新聞・子会社の社長さんだったから。私はそれ故に、ガレリアグラフィカのオーナー栗田玲子さんと、この男性が、お互いに、知り合いであろうと、推察しているのだけれど、三か月間、エッセイを送り続けて、もしかしたら、読んでもらっていると、言う、現象があるので、どうしても実名を曝すことができないのだ。

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副題5、『元週刊朝日・編集長であり、私の、たった、100人しかいない、横浜国立大学付属横浜中学時代の、同期生(1958年卒)、I(アイ)君と、銀座の有名画廊、ガレリア・グラフィカのオーナー栗田玲子さんは、親しい可能性がある。

 ここらあたりが、私が常に、最後までは、事の因果関係を書きぬけないところに繋がってしまうのだ。だから、「本日は、これほどの事を書いても、まだ、35%の開示です』とか、「本日は、相当に、突っ込んだことを書きました。65%程度開示しました」とは、書くものの、決して、100%の真実までは、開示しないで置くゆえんなのだ。

 だけど、栗田玲子さんが、ひどい攻撃を、あっけらかんとやってくる陰に、彼女が、伊藤玄二郎やら、酒井忠康氏と親しくて、そのラインだけで、二人のいう事を信じて、攻撃して来ているとも、私の方は、実は、思って居ないのだ。こちらの男性、苗字のイニシャルが、I(アイ)氏と、栗田玲子さんは、日常的なレベルでのご近所付き合いがあって、それゆえに、そこからの教唆命令も重なっているので、私を足蹴にして、踏みしだいても、構わないと、思って居るのではないだろうか?

 「彼女ったら、バカみたいね。中学時代の同期生にすら裏切られているのよ」と、あざ笑っていて、それゆえに各種の、非常にあくどい攻撃を、瞬時にできるのだと、私は思って居る。

 I(アイ)君は、池田利代子さんと、仕事上、知り合いである可能性があり、池田利代子さんと、栗田玲子さんは、教育大学西洋史学科卒という縁で、先輩後輩にあたるからだ。

 しかし、私の我慢の緒が、本当に切れたなら、今度は栗田玲子さんが、I(アイ)君に大迷惑を掛けるということになるだろう。それを避けるために、私は暗殺をされるの? うーん、ついにその実名を曝すか。アイ君とは、飯田隆氏です。知る人は知っているでしょう。

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副題6、『週刊朝日は、数々のあくどい記事を書いて来た。特にワシオトシヒコ氏の格上げを狙って、駿河台・大学の教授に押し込んだのだけれど、

 その前に「理事長さんが、愛人におぼれている」などと言う記事を書いて駿河台大学を、恫喝している。私は理事長さんのご母堂が、非常に立派な方であり、戦争未亡人になった、母校(お茶大付属高校)の同窓生の、経済的支援をなさったことを知っているので、この記事の掲載には、激怒した。

 ただ、リアルな世界では、喧嘩をしない主義だから記事を見た時点では、何も書いて居ない。しかし、銀座井上画廊のロビーで、ワシオトシヒコ氏が、何もしていない私に対して、長瀬いずみに勝るとも劣らない激しい侮辱をくわえて来たことがある。

 その時も我慢をしたが、周南事件が起きてからは、書き始めている。ワシオトシヒコ氏は、私の後釜として、月刊ギャラリーでの連載を、2006年から始めていて、すでに、12年に成らんと、しているが、彼の、格上げを狙って、駿河台大学に押し込んだ、のは、誰の発案だったのかな? 酒井忠康氏? それとも、伊藤玄二郎? で、酒井忠康氏は、朝日新聞の顧問になって居ます。月に、30~50万円の謝礼は、出るでしょう。品格を保たせるためだから、100万円?

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副題7、『そして、この章内で、問題にしている、例の、・・・・・性的奴隷化を狙って、日本人女性が拉致されている・・・・・と、言う記事の掲載だ。これが、何度も行われた様な気がする。その時点で、編集長が、飯田隆君ではなかったと、思われるが、朝日新聞自体が、CIAエージェントたちの大牙城なので、「こういう記事を載せなさい」と、トップとか、先輩から、命令が下ったら、載せざるを得ないだろう。

 ところで、パリではないのだが、フランスのリヨン市に留学していた筑波大学大学院在学中の女性が、チリ出身の男性に、リヨン市で殺害をされ、遺体がどこかに埋められて居る可能性があるというニュースが、最近、報道をされ大騒ぎだった。また、さらに古い時代だけれど、アムステルダムの運河に、バラバラ死体が、浮かんで、それが、日本人女性だと、判明したことがある。犯人は、彼女が足手まといになった、僧職についている男性だった。と、こういう風に、海外で、日本人女性が行方不明になったら、たいていは、表ざたになるだろう。

 だから、この週刊朝日の、日本人女性が性的奴隷化されて、魔窟の中で、両手両足を切断され、性の餌食になって居るという記事は、嘘の記事だったと、今では、私にはわかってきている。では、誰が創作をしましたか。それは、若いころに、浅草のストリップ劇場で、シナリオを書いて居た例の、大作家でしょう。絶歌も彼の筆になると、思って居ますが、こちらのフィクションは、ストリップ劇場に滞在していたのですから、自家薬籠中の文章の筈です。

 しかし、1998年当時には、まるで、うぶだったので、それを信じていました。

 で、バスティーユ駅で、私を拉致しようとした五人組がそういう集団だと、誤解をして生きたのです。ずっと。

 だけど、裏側の実情はこうだったのです。週刊朝日は、私が渡航をする前から、この手の記事を載せていて、しかも、拉致する予定があったのですから、そういう点では、頭がいいですね。誰が?と、言えば、成岡庸司君でしょう。

 この成岡庸司君も、私の中学時代の、同期生です。高校時代は、成岡庸司君と、飯田隆君は別々の高校に進学しました。しかし早稲田大学で、また、出会う事となります。入学が同期だったかどうかは知りませんが、多分、政経学部と言う点では、一緒です。

 さて、もう少し、説明を咥えないといけないのですが、すでに、午前五時に近いので、就寝しないといけないので、ここで、一気に結論を申し上げます。

 成岡庸司君が、現在の、日本のトップです。実質的な支配者のトップです。彼は、普段は、アメリカが石管内で、生活をしていて、時々、毎日新聞出身の、板垣英憲氏に、情報を漏らして、国民を、洗脳して行く方向へ導いている可能性があります。だけど、それは、表に出てもいいと、思って居る部分であって、もっと、深奥で、大きな活動をしているでしょう。

 派手さという意味では、井上ひさし等の方が上でしょう。また国民への知名度という点でも、そうです。彼がトップエージェントです。彼は、自分を公的には死んだことにしていますが、実際には、まだ生きていて、地下潜行をして、あれこれの、策謀の案出をしています。

 実行者は、成岡庸司君が持っている手勢か? 彼も相当な年ですから、若い人間に影響力がないと考えると、警察庁内部に、実行をゆだねていると、考えられます。

 しかし、政治的階級で言えば、成岡庸司君が、現在の、日本のトップであり、俯瞰して眺めながら、権力の移動なども、勘案していると、思います。

 伊藤玄二郎、石塚雅彦、酒井忠康、まだ生きている井上ひさし等の、さらに上に存在していると、私は考えていますが、パソコンがシステム破壊を起こさないので、もしかしたら、違う? わかりません。成岡君と、飯田君は、近所に住んでいないし、石塚さんみたいに、同窓会法で、その消息が知れるわけでもないので、傍証づけをしにくい人物なのです。

 だから、成岡庸司君が、現代、日本社会の実質的なトップであるという断言は、もしかしたら、間違っていると、お断りをして置きます。

  明日の夕刻からですが、2010年3月10日の、ホテルニューグランド(横浜の、老舗ホテル)での、飯田君の様子とか、語らないといけないことがあって、相当量を、また、加筆をします。その後、書いた日付と、署名を入れます。

 なお、このブログの、2010年より、数え始めた延べ訪問回数は、3951350です。

 

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