銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

週刊朝日のペット頁ー2、命を猫に救われた奥さんは、娘を統一教会に取られた人だった△

2013-10-14 23:12:12 | 政治

 この記事は、10月14日に、割と、気楽な記事として書いています。だけど、今思うと、私の直感の鋭さには、自分でも、唖然としますね。この文章に取り上げた、統一教会というのが、ちょうど、このころ、世間では、問題になってきています。それは、三鷹ストーカー殺人事件ですが、その被害者のママの実像(ただし、この時点では、公には、被害者の芸名しか名前が公表をされていないので、心の中で不安を抱えながらも、彼女だとは、特定をしていなかった。だが、ママは、統一教会系の教会の信者であって、お嬢さんのお葬式を後日、そこで行うということとなる)を知っている私は、この以下に書いた文章を自然に、呼び覚ましたのでした。

 前報の後半に、以下の文章を着けるつもりでしたが、これを探すのが大変で、つい、本日15日までできませんでした。 やっと探し出せました。****罫線以下は、猫に大きく感

 謝している優しい奥さんの話です。2006年に書いたものです。なお、それを、ここにアップする前に、現時点用の、前置きをこれから書かせてくださいませ。

 私は前報の中で、猫に慕われないことを嘆く投稿者(週刊朝日の14日発売号)に対して、初心者だなあと思ったわけですが、それでも、70歳前後になって、ペットロス症候群になりかかった、その人の純情にも感銘を受けて、馬鹿にする気は起こりませんでした。

 そして、その女性が、『これから、だんだん、猫に慕われる人になってほしいなあ』と願うのです。私の方ですが、信じられないくらいのレベルで、猫に慕われています。たまたま、猫が下へいるときに、私も同じ一階にいたと仮定をして見ましょう。一階にトイレが有るので、私が用を足すためにドアを開けたと仮定します。すると、瞬時に飛んできて、トイレ内に一緒に入ってくるのです。私がトイレ内で、しゃがんでいる間は、長くても一分以内でしょうが、それでも、その時間は、ほかに何もすることが無いので、猫にしてみれば、お母さんを独占できるわけです。それが、うれしくてたまらないという様子で、必死に話しかけてくるので、私も手を伸ばして、彼女をなでながら、会話を猫語で、交わします。

 何か、秘訣があるかと問われれば、何にもしていませんと、答えましょう。それでも、私が大体の、時間は静かにしている人間だということも言えますね。猫は静かな方が好きです。

 猫が子供のころは、真夜中によく遊んでやったものです。そのころ、我が家の猫は、大便を真夜中にする習慣だったらしくて、人間でも、それをカタルシスというように、大変、気持ちがよいらしくて、真夜中、私の周りで、部屋を全力疾走をするのでした。たった4,5mの距離ですが、もっと小さいときは、一階で、全力疾走をしていました。そちらだと、7,8mの距離を走れるからです。5、6回、それをやります。

 で、それが終わった後で、私と二人が二人ともプチ・ライオンと化して、格闘技を行うのです。彼女は目をらんらんとさせて、正座している私のひざを、がっしりと両手両足で抱え込み、そこに、キックほかの荒業を繰り出すので、私のひざはいつも炎症を起こしておりましたが、それでも、やらせて、おきます。でも、ただ、正座するだけでは、この遊びは成り立ちません。ひざがそこにあるだけでは、彼女は喜びません。だから、右手と、左手を、瞬間的に動かして、ちょっかいを出してやらないと、盛り上がりません。

 だけど、今は大人になったので、カタルシス後のマラソンもしないし、真夜中の格闘技もやりませんし、ただ、ただ、今、これを打ち込んでいる間でも、ひざの上に乗ってくるという形で甘えてきます。

 では、2006年の観察の結果のエッセイを。なお、それは、2007年に作った3冊目の本、『電車の中で』に入っているので、第二十七章という、副題が付いております。

 そのころは、私は何もあきらめておらず。ありとあらゆることを欲張って、五重に仕事をしていたので、疲労困憊の果てという形だったころです。

 なお、私は、猫の精神年齢は、大体、人間で言うところの、五歳程度に当たると考ええていますが、下のエピソードに現れた猫は、人間で言うところの50代の女性程度の精神的円熟度を持っていますね。すごい猫です。

 なお、冒頭にささげた写真は、無論のこと、我が家の猫で、寝転びながら、遊ぼうと誘っているところです。ただ、カメラが嫌いなので、目が笑っていませんが・・・・・手は恭順の意思を示す形で、折って、いて、遊ぼう、仲良くしようといっています。

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第二十七章、「猫に命を救われて」


 これから書く夫人は、意外と収入が少ないと思われる人です。だけど、『正直者はバカを見る』は、真実で、

 こういう人こそ優しくて純情だったりするのです。イエス・キリストと言う方はご本人自身、生きているときは目立たない貧乏な人だったと、私は思っています。だから、こう言う風に、テレビの世界などには登場しない目立たない善人こそ、その存在を皆様にお伝えしたい人間の一人です。

 その日、私はとても疲れていました。しかし既に夕方の六時過ぎで、電車〔東上線〕は混んでいます。だらしなく座っている人たちがいて、彼らに声を掛けて反省させれば、席を詰めて貰えるはずでしたが、そう言う行動をとるのさえ億劫な感じでした。でも、立ってもいられなくて、ドアのそばにしゃがみ込こんだのです。そんな時には老々介護と言う言葉を思い出します。母の見舞いに、これから常盤台の駅まで行く自分も既に若くはないのです。ぎりぎりの体力で、しかもあれこれやっているので、実際は毎日くたくたで骨皮筋エ門になっている。

 そのとき古いものですが、珍しくも質の良いカシミアの黒いコートを着ていましたので、お葬式帰りみたいにも見えるでしょうから、ドアの傍にしゃがむなど特別に奇妙に見える事は自覚をしていました。でも、それでも耐えられなくて、裾をちょっと丁寧にお尻の下に畳み込んでしゃがんだのです。
 すると斜め前から、「ねえ、そこを詰めてもらえば座れますよ」と言う声がしました。顔を上げると、庶民的な明るい顔の、ほとんど私と同い年くらいの女性が、私を心配そうに見つめていました。それで私は「あ、いいんです。すぐですから」と言いました。本当にそう思っていました。『十分以内で到着する常盤台の駅に降りたら、セブンイレブンで何か甘いものでも買えばよいのだ』と思っていました。ソフトクリームでも買って、それをなめながら母の老人ホームへ向かえば、それで疲労は一時的に回復するはずでした。
 しかし、そのやり取りを聞いていた、ドア傍の席の別の女性がつと立って、席を譲ってくれたのです。私はそれをいったんは固辞しました。確かに体が弱くて疲れ易いたちです。その原因もきちんと説明をできます。だけど、自分は会社に勤めているわけではない。本をつくろうとか絵を描こうとか、私の仕事は、夜昼ないせめぎあいはありますが、その時間の使い方には自由度があります。その自由度があるところが、贅沢と言えば贅沢なのです。毎日きちんと八時間以上を、会社に束縛されている女性に甘えてはいけない。席を譲ってくれた女性は知的なモダンな顔立ちで、どうみても会社や学校などの組織にお勤めのはずでした。で、申し訳ないと固辞したのですが、辺りみんなが『座るべきだ』と言う顔でしたので、座らせて貰いました。その立って下さった女性は目を閉じていて、私たちの会話に入りたくないようすでした。

 しかし、私と最初の庶民的な顔立ちの女性との会話は、引き続き、しかも驚くべきところへ発展したのでした。
 

 彼女は私に向かって、長女がなんとか教会と言う新興宗教の団体に入っていて、韓国で結婚式を挙げたと言いました。「○田淳子(昔タレントとして一世を風靡した女性)が入っているでしょう。あれ」とも続けました

・・・《私は、実はその宗教一派には、賛成ではないのです》・・・もし、自分の娘がそう言う事態になったら、動揺をするでしょうし、その事実を他人には言わないでしょう。だけど、どうしてか、その女性はそんな大事な事を私に言うのです。

 私は、瞬間的にこう思いました。『自分は今、ミダス王になっている。私の指先が相手を金塊に変えるわけではない。ただ、あらゆる人が、本音で向き合う人と、自分はなってしまったのだ。恐ろしい力と責任を天から与えられたようだ。一人の小さな、弱点も迷いもある人間として、あまりにも重い責任』。 しかし、私はその時はその責任から逃げ出さず、ただ話を聞き続けます。


 その明るい性格の女性は、「長女の結婚を喜んでいるの」と言いました。「長女は幸せだ」とも言いました。だけど、それを、まったくの他人である私に言わざるを得ない、その心の奥底を考えれば、同情に耐えませんでした。それで思わずバッグの中を探しました。可愛らしい猫と子どもの絵が、コピー版画の一種として誰に上げても良いような形で入っていました。私はそれを彼女に上げました。何かをお返しに上げないとたまらなかったのです。

 するとそのプレゼントを見て、彼女はパス入れの中から、自分の猫の写真を取り出したのです。
 その猫は、彼女が病気だった時に、ずっと、枕の傍で付き添って、見つめてくれたそうです。それゆえに「命拾いをしたのよ。その猫が私を救ってくれたの」と彼女は力説をしました。が、それを見ていると、彼女自身が、まるで十五才の少女のようでした。可愛いと言うか、素直と言うか、・・・・・


 このエピソードは何ヶ月も前の話です。本当は書くつもりはありませんでした。私にとって、これは宝物のひとつで、そう言うエピソードが最近おおげさではなく五マンとあるのです。その一方でつらい会話ももちろんあります。人間が上下関係を作り政治的に動くものである限り、私にとってはつらい会話も、また繰り返されます。だけど、一期一会の人と、なぜか、深い深い会話を交わす、いや、交わせるようになった私なのです。
 ふと、思うのです。『結構、死期が近いのかな』などと。だって、こう言う境地って、ちょっと、人間離れしているから。もし、人間の生活がこころだけでできているのだったら、これ以上はないほどの高い境地へ達してしまったと思ってもいます。自分で言うのもおかしいけれど、自分ではなく相手がそう言う高い境地へ、私を引き上げてくださるのです。
 だけどもちろん、現世、この浮世に未練は数々あって、いわゆる向上(特にアーチストとしての)と言うのも、目指しているのだけど、美しい会話に恵まれる自分は、なぜか、空中に浮遊している感じ・・・・・・

 そんな時にとても、古い本だけど、三笠書房で、出た、加藤諦三の翻訳書を読んでいます。邦題は『「好きな人」に愛される人、愛されない人』と言うので、まるで、恋愛の指南書と間違えられそうです。が、一種の心理学の本です。英語の題は、Are you the one for me? で、原作者はバーバラ・アンジェリス
 失礼だが、私の六十三才(この原文を書いたとき)と言う年齢から言わせてもらえば、そう高い境地の物でもないと思います。同時に読んでいる、柳沢桂子さんの本の方が境地は高いでしょう。でも、人間がどう言うものなのかを、引き続き関心を持ち、問い続ける私にとって、先達の本は、手放せないのです。

 特に、この本から学んだのは、自尊心の高低の問題でした。それが新発見のテーマと言うか、テーゼでした。
 本当に繰り返しになるけれど、もし、この世がこころだけでできているのなら、既にもう何もこれ以上のものはないほどのものを味わいつくしました。でも、どうも人間の世界には別の枠組みもあるようで、名誉とかお金の世界もあるようで、その世界で、まだまだ下の存在である私は、天から生き続ける事を命じられているのでしょう。でも、生きる事って、結構厄介で大変な事なのだけど、生かし続けられています。そして、その名誉とかお金の分野の戦いはしごく面倒で、実は私には、億劫な分野なのですけれど。多分、それが残っているから生かし続けられているのでしょう。
                                 二〇〇六年二月二十五日

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 これから先は、2013年の今付け加える、あと添えの文章ですが、上に名前を伏せてある宗教とは統一教会を指し、入信している有名タレントとは、桜田淳子を指します。文鮮明という個人によって、韓国人の奴隷として、引っさらわれてしまった若い女性がいっぱいいるということです。日本政府は、彼女達にも、救済の手を差し伸べるべきでしょう。

 なお、このブログの2010年より数えはじめた伸べ訪問回数は、1839259です。

  では、2013年、10月15日、なお、後日ですが、アップした日付だけを、14日に変えさせていただきました。ブログ全体の編成のためです。あしからず、ご了承をいただきたく。

雨宮舜(本名 川崎 千恵子)

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