銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

渡辺豊重さんは、沙彩・ママを、自分のアクセサリーとして、連れ歩いていたが?△

2013-10-28 01:56:05 | 政治

 以下の文章は、宮崎駿氏の、戦争反対と言う言葉に対する疑惑や懸念からスピンオフしてきた文章です。だから、前報(後注一)に続きます。そして、前報よりスケールが小さいかな? だけど、皆様が関心のある話題だとは思いますけれど。今、30日の21時半ですが、推敲屋、加筆を終わりました。で、恒例の△印を、タイトル横につけておきます。

副題1、『2012年の12月から休んでいた、銀座の画廊めぐりを再開したのは、2013年の9月だった』

副題2、『処世術の達人、渡辺豊重氏は、2002年までは私と仲良しだったのだけれど』

副題3、『美大を出ていないのに、画家になっていく人の、強い意欲を、もっと、尊敬してほしいのだが、実際には、そうなっていない現代日本社会だ』

副題4、『葉山の美術館は、天国でもあるが、地獄でもある』

副題5、『豊重さんに対する、筆調を、ここで、変えるが、その影に、前田祝一(元、駒澤大学教授にして、共産党員らしい)氏の、私への五月の恫喝の影響があるのは確かだ』

副題6、『渡辺豊重氏は、格好のアクセサリーとして、沙彩ママを連れ歩いていた』

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副題1、『2012年の12月から休んでいた、銀座の画廊めぐりを再開したのは、2013年の9月だった』

 私は銀座の貸し画廊で、純粋に、実験的な作品を見るのが好きなのです。有名画廊、または美術館で、名声がすでにある作家のものを見るよりも、新人、または、玄人であっても、お金を稼げない類の絵を見るのが好きなのです。その純粋さとエネルギーに感動するからです。ところが、2012年の12月からずっと休んでいました。どうしてかと言うと、二つ、忙しい項目が出てきたからです。

 まず、自宅のリフォームがあり、それと、不動産物件を買いたいと思う気持ちがあったからでした。それが、7月に、両方とも解決してしまったのです。まず、不動産物件の方ですが、私が主人と共同名義で持っている物件があって、その借家人が、引っ越したので掃除に出向いているうちに、新しい物件を買うより、これをそのまま、キープしていた方が得だと思い始めたのでした。無論のこと、主人の考えもありますので、依然売りに出していますが、土地が60坪ある住宅地で、無理をすれば住めないこともない27.5坪の家が付いている物件なんて、いまどき、年金暮らしの人間には、絶対に、買えないのですよ。だから、代わりに買う物件の方が程度が低くなるのです。

 今マンションがブームであって古い家を嫌う人が多いのですが、トレンドは逆ザヤを張った方がいいという主義だから、この物件もやがて人気が出ると思い直し、新しい物件を探す必要が無くなったのでした。その上リフォーム後の片付けも大体済んで、『おや、また、普通の生活に戻りましたね』と思ったので、画廊めぐりを再開したのでした。

 9月の第三週か第四週だったと思います。ギャルリー志門と言う画廊の入り口で、渡辺豊重と言う大作家に出会いました。この人は、現代アート系では、20人とは、居ないだろうというお金の稼げる作家で、新横浜のサッカー場のエントランスの天井画を制作したことで有名です。

 前報でも、言及している、美術9条の会の呼びかけ人の一人です。その会は呼びかけ人として、最初期には9人だったのですが、2005年に、改変があった模様で、25人になっています。

赤津侃、池田龍雄、稲木秀臣、内海信彦、江口週、江見絹子、岡本敏子、大西みつぐ、 片岡昌、加藤尚、金沢毅、下田尚利、建畠覚造、野見山暁治、針生一郎、日夏露彦、藤田昭子、 堀文子、宮崎進、ヨシダ・ヨシエ、ワシオ・トシヒコ、渡辺豊重 の25人ですが、どうしてか、最初の9人はずいぶんと入れ替わっていますね。そして、私がその名前と、仕事を知らない人が、5人含まれて居ました。2日目に、その5人について、ググって見て、四人はその人となりがわかり増した。最後まで、一人だけ、加藤尚氏と言う人が、どういう人か、わからないままに残りました。だけど、グーグル検索で、何も出てこない人を呼びかけ人にするとは、美術9条の会も、相当にいいかげんな会でも、ありますね。(?????)

 が、知っている残りの20人のうち、10人は美術評論家であって、10人は作家です。そして、すでに、死んでいる、または、ほとんど、社会的な発言をしないだろうほどの、高い年齢の人が、6人含まれています。で、残りの、14人、特に現役の作家として残っている9人の中に含まれているのですから、渡辺トヨシゲとは大人物だといっていいでしょう。だが?????

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副題2、『処世術の達人、渡辺豊重氏は、2002年までは私と仲良しだったのだけれど』

 上に上げたうち、実際にはあったことのない、5人は別として、知っている人のうち、その誠実さを信じられるのは、池田龍雄、江口週、片岡昌、金沢毅、故(建畠覚造)、堀文子、だけですね。それ以外は、相当に、ちゃらんぽらんなところがあると思っています。または、「他者に迎合しやすいところがある」と思っています。そして、今はまだこのブログの世界では、書いていませんが、いずれ、書く事があるでしょう。とくに、五人ぐらいの人からは、ひどく失礼ないじめを受けているので、それぞれ、2万字から10万字程度、書けるでしょう。今は忙しくて、それに取り組んでいないだけです。

 上の節の最後に、渡辺トヨシゲ氏は大人物だがと、して、?マークを五つもつけているのは、彼の人間性に対して大きな疑問を持っているからです。

 で、今から、それに取り組むわけですが、私はある一人の人を分析する際には誕生日を大切にするので、それを目的として、ググって見たところ、驚いたことに、まだ、Wikipediaがたって居なかったのでした。

 ただ、美術界に疎い読者の方が経歴を知りたい場合は、ギャルリー志門のホーム頁で「取り扱い作家」と言うところをご覧になると、相当に詳しい経歴が出ていますので、どういう人物かが、お分かりいただけるでしょう。

 で、私は、誕生日を探るために、凸版が印刷製本をした、氏の画集(16,000円)を取り出して来ました。これは、日本橋高島屋の、ホールで、出版記念会が、開かれた豪華本です。

 が、その内輪だけの、お祝いの会に、私はきちんと招かれております。だから、その時点までは、仲良しだったのです。

 で、今改めて、経歴を見て、なるほどと思いました。氏は5人兄弟の末っ子で、三歳のときに父親を亡くしています。常に他人に、甘える感じがあり、人懐っこいのは、末っ子だからですが、それほど、強い性格とも、人格とも言えない人です。

 その父の早死にと、東京への米軍の空襲で、焼け出され、無一文に、なった事で、美大を出ていません。それに、一般的な意味での大学も出ていません。あの時代は、そういう人間は大勢いたのです。

 だから、氏は、Wikipediaを(2013年10月25日現在のことですが)立ててもらっていないのでしょう。ちょっと書きにくいところがあるのだと思います。名声に比して、大学を出ていないということが、書きにくいところとなるのでしょう。なんとも、言いようがないのですが、現代アートの世界とは、コップの中の嵐の世界でもあって、存在する人間の数が少なく、その上、出回っているお金も少ないので、非常に狭い、また、古い世界でもあるのです。現代アートといいながら、めちゃくちゃに、強者の恣意がまかり通っている世界であって、私も海外で、生活をしたかったし、・・・・・そうですね。母の遺産が、2004年に入っていたら、海外へ行きっぱなしになっていたでしょう。今まで、それを言うと、母の死を、願っていたことになるので、言わなかったのですが、事実上、サイは、『国内で、暮らせ』という方向に投げられたのでした。

 しかし、海外で、生活したという共通点が、渡辺豊重さんと、私の間にはあって、そういう意味で、本来なら、仲良くできるはずだったのです。

 それは、『美術をやるものにとって、大学の学歴なんて、関係ないのだという事。それから、色のセンスが悪い人間は、本当のことを言って、美術家としては、レベルが低いよ』と言う、そういう信念が共通していたはずです。

 ただし、こういうことも口外すると、大変なものだから、私もトヨシゲさんも、口に出したことはありませんでした。けれど、内々で、そういう基準(または、尺度)を共通に持っていたはずです。本当に才能がある人間も日本の現代アートの世界にはいます。ただ、美的才能ではなくて、頭がよいから、または、家が金持ちだから現代アートの世界に入ってくる人もいるのです。

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 ここで、挿入として、超がつくほど、ぶっちゃけた話をしてしまうと、

 現代アートって、アイデアが勝負のところがあるので、オノヨーコさんなど、その典型ですが、頭がよいから、有名作家になっている人もいるのです。森ビルの一族の森万理子さんは、お金持ちの一家出身だから、有名作家になっているという向きもあります。こういうことも言っちゃあ何だがと言う語弊のある部分ですが、本当の話です。

 現代アートはお金がほとんど、稼げないので、作家としては、だいたい、よいうち(経済的に豊かな家)のご子弟が、多いです。

 そして、私と豊重さんは、そういう大金持ちとか、頭のよい作家(コンセプト重視の作家といわれる人たち)の範疇には入らない作家ながら、才能が高いとか、『才能とは何だ』という側面で、知り合って、10年ぐらいは、共通の基盤にたち、スムーズな関係だったと思います。

 ただし、私は豊重さんの作品を知っていましたが、豊重さんが、私の作品を、変遷ごとに全部、知っていたかと言うと、知らなかったでしょう。そこが、豊重さんが、変節した大きなポイントでもあったでしょうが。

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 元に戻ります。

 で、氏はその親しみやすさから、とよしげさんと、愛称で呼ばれる人ではあるのですが、一方で、お金を稼げる作家であることで、嫉妬の対象となっているのです。

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副題3、『美大を出ていないのに、画家になっていく人の、強い意欲を、もっと、尊敬してほしいのだが、実際には、そうなっていない現代日本社会だ』

  私が『自分の渡辺トヨシゲ論』を書くつもりだといったのは、ひとつには後に起きる、三鷹ストーカー事件の予知能力の高さから来るものだったと思いますが、もうひとつは、やむにやまれぬ思いを持って、画家になる、その意欲の強さに、感銘を受けたし、また、私もそういう人間の一人だからです。そこに、大きく共感するものがあります。で、わかる。わかるということが多いのです。

 私の発言は矛盾していると、皆さんの中で、思う方はあるでしょう。特に画家である方は、そう、お思いになるでしょう。たとえば、女流画家には、「結婚はしないように」と勧めながら、本人は結婚をしています。それも矛盾のひとつです。ところが、種明かしをすると、画家になる前にすでに、結婚をしていて、子供もいたので、どうしても、仕方がないのです。では、結婚前に、どうして画家にならなかったの?と、問われれば、それは、15歳のころに、その道は、あきらめていたから、とか、怖がっていたからと、申し上げましょう。

 私は国立大学の付属中学で、入試が一番の成績であって、入学式も卒業式も総代だったので、父は、「絶対に医学部へ行ってほしい」といっていました。「私立の医学部でも、学費は出す」と言っていました。だが、医者だけは、自分にはできないと、知っていました。もし、私が、医者になったら、患者のおなかの中に、ガーゼを一枚置き忘れたまま、縫合してしまうような医者になったでしょう。ともかく、いつも頭の中に何らかの考察の種があって、それが、邪魔しているから、はたから見れば、注意散漫だということになります。

 それに、毎日同じ事をするなんて、真っ平ごめんでした。毎日新しいことをする。特に、創作をする事、それが好きなんだという事だけは、小さいころから、わかっていたみたいです。考える事とか、創作をするということが大好きなのです。

 でも、医者になれといっている父に、美大に行きたいとか、音楽大学に行きたいとか、文学部に行きたいとは、どうしてもいえなくて、かつ、親元から飛び出す事も考えられなくて、ただ、ただ、平凡に生きる事を、めざし、かつ、頭のよい事だけは、証明もしたくて、当時は、とても人気が高かった、ICUへ入学したのでした。

 しかし、1986年に父から遺産が入ったのでした。お金がある。と言う事は個展などができるという事です。父も絵を描いていたので、どうしたら公募展に応募できるかとか、個展ができるかと言うような事を知っていたので、すっと、一直線に画家になる道に入っていきました。そうしたら、15のときから、45歳まで、画業とはまったく別の世界で生きてきた、その道程で、培った、人間的強さが役に立ったのか、厳しい画家の道も何とか、歩み始める事ができたのです。15のときにあきらめていた道が、わき道を通ったからこそ、楽に、歩ける道へと変化していたのでした。

 ただし、美大を出ていないと、損が多いのです。理不尽にも、下手(しもて)に置かれます。いじめられます。そういう私から見ていると、同じく美大は出ていないが、画家になる事への強い意欲を持っていて、やむにやまれぬ強い意欲をもって画家になって行った、渡辺豊重さんのやる事なす事が、『ああ、理解できるなあ』となるのです。だから、そこが、私が、私のトヨシゲ論を書きたいと言った、ひとつのポイントでした。

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副題4、『葉山の美術館は、天国でもあるが、地獄でもある』

 ところで、「日本の現代アートの世界は、思いがけず古いのです」と、申し上げているでしょう。そこから逃げ出したくて、海外へ行ってみたのですが、どこにも理想郷はないのでした。だから、ゴーギャンみたいに、タヒチに逃げて、いわゆる画壇と言うものから、離れないと、常に、ストレスはある事となります。パリでも、ニューヨークでも、才能だけで、浮かび上がれるわけではないです。

 しかし、日本って、茶道や、華道、また、能の世界などで、すでに、家元制度と言うのがあるでしょう。それが、パリにあったサロンと言う制度と結びついてしまって、上野を中心とした公募団体展の世界で、極端に、古い世界が実現したのでした。

 その公募団体展の中のいくつかは、抽選で当たったと言って、六本木の新国立美術館へ移動をして行きました。が、あそこも、評判の悪いこと、悪いこと、すさまじいですよ。「トイレさえ、無いのよね」と、画家達から、言われています。確かに、数が少ないし、展示場内に、トイレがないので、入場券の端を一回切られてしまったら、トイレに行かれません。ひどい設計です。黒川紀章さんですか? 有楽町のフォーラムも同じですけれど、使う人、特に芸術家の日常を助ける設計だとは、とてもいえない設計です。黒川紀章さんが、特別にいい建築が受注できたのは、若尾文子さんが、在日の女優さんだからと言う説がありますが、『それは、ありえるなあ』と思うほど、ひどい設計なのに、いつも、大金をかけた建築物を、受注しています。

 現代日本も、汚いものに、満ち満ちて来ています。共産党・中国と、あるところで、似て来ています。

 だから、抽選に当たったといって、喜んで、移動をして行った、独立や国画、行動、などの、公募団体展に、天国が訪れたとは、いえないのです。私は、あの抽選そのものにも疑問がある人間ですが、ともかく、神様っているものですね。不純な動機で、作られたものに、光は当たりません。人気が高まらないのです。むしろ、上野の都美館に残った方が、以前の人気をキープし続けているでしょう。上野の方が、ほかに、芸大と、西洋と、二つの魅力的な美術館があるし、都美館にも、新聞社主宰の、いろいろな催しがあるので、ずっと、魅力的なのです。

 で、有名な公募団体展ほど、人気が失墜し、権威も落ちていると思いますよ。

 で、私は、銀座の画廊街で、この人は若いなあと、思うと、気軽に、「どこの美大を卒業をしていますか?」と、質問をしてしまいます。中年過ぎの作家が、個展をしている時は、美大を出ていないケースもあるのですが、お若い方が個展をしている時は、たいてい、美大を出ているものです。で、美大を出ていると聞くと、「あなたは、個展だけで、やって行った方がいいわよ」といいます。それほど、公房団体展には、ウミがたまっているのです。

 しかし、ここで、美術評論家と言うのの、存在が大きく立ちはだかって来ます。個展で、やって行った方が、自由で、効率が高いと言っても、メディアで、紹介されないと、行き詰って来ます。生涯、自分のお金で、個展をやらないといけなくなってしまい、副業のつもりでやっていた先生業などから足を洗えません。

 で、美術評論家がのさばって来ます。今度は、そちらのくびきに、組み、しだかれる事となります。そちらの方面で、自由を奪われ事ととなって来ます。美術評論家といっても、ご自分が、文章以外の、別のことで、きちんとしたお給料をもらっている人は、上品です。美術館・館長、または、学芸員、大学教授、または、準教授、新聞社づとめの正社員、雑誌社づとめの正社員、等は、金銭的に余裕がある人たちなので、作家(=画家)を脅かしたり、いじめたりはしません。

 だが、フリーランスの美術評論家の中には、ひどい人間がいます。半分、以上の、割合で、ごろつきだと思われる人物もいます。私は実際に、二人、または、三人の、有名美術評論家から脅かされた過去の経験があります。

 酒井忠康氏みたいに、陰に回っていて、こっそりと、ほかの人物を使っていじめたり脅かしをかけ来くるのではなくて、ご本人から直接に、恫喝を受けました。面と向かって口で恐ろしいことを、言われる。もしくは手紙やら、ファックスの形で、脅かされた過去があります。または、銀座で悪口を言われるという形で、脅かされています。それも、きちんと将来書いて、行かないと、いけません。

 が、ここでは、葉山の美術館が、美術評論家の最大のサロンになっているという事を言わないといけないのです。葉山の美術館と言うのは、行くという事、自体が、大変に贅沢な場所です。時間はかかるし、交通費もかかります。それで、上に上げたような、私をいじめるような、ごろつきめいた、フリーランスの、美術評論家は来ていません。

 ほとんどの人が安定した立場のある、美術評論家です。そのオープニングパーティ、(二ヶ月か、三ヶ月に一回開かれる)に出席して、「帰りに、逗子か、鎌倉か、横浜あたりで、一杯、やりましょう」というのが、その人たちの、よい情報交換の場所となっているのでしょう。

 と言うのも、葉山の美術館に行くのには、ほとんど、一日がかりとなります。となると、「どうせ、ほかのことはできないのだから、夜は、飲ミュニケーションに使いましょうね」となるでしょう。東京の美術館のオープニングパーティとは違うムードがあるのです。しかし、それは、それで、私には大きなストレスにもなります。大変な場所です。

 それは、私だけではなくて、三田晴夫さんと言う、毎日新聞に継続して、現代アート向けの美術評論を書いていた、有名人でも同じでした。氏は、わざわざ、報道と言う腕章をスーツの上から巻いていました。そして、いささか緊張して、出席者にインタビューをしていましたよ。

 腕章なんか巻かなくたって、名刺を出すだけで、皆さん、あっと思って、すぐ尊敬をすると思うのですが、それでも、気詰まりな感じを受けていらっしゃったのでしょう。

 それほど、サークルを作っている、その、高いお給料をもらっていると思われる美術評論家・集団の輪には、入りにくいものがあるみたいでした。東京の弁護士会には、第一、第二、第三と言う区別があるみたいです。あれがどういう区別で、団体を形成しているのかは、私は知りませんが、美術評論家の団代にも、数種類があるみたいで、夕方、葉山・美術館前のバス停で、仲良く歓談をしている紳士達には、確かに、ある厳然たる、ソサイエティが存在しているのです。そして、その中には、入れない人間もいて、その人間は惨めさをしたたかに味わわされます。

 東京の美術館だと、交通の便がいいので、あるソサエティで、固まるという形が目立ちませんが、葉山では目立つのです。

 で、そういうソサイエティには、私も気後れしてしまいますが、例の大作家、渡辺豊重さんも気後れすると推察されます。

 そこに、沙彩ママ、(例の三鷹ストーカー殺人事件の母)が登場するのですが、その前に、少し、渡辺さんが、いつも、女性を引き連れて歩いていた事について、解説をしないといけません。

 現代アートの世界って、狭い小さい世界です。そこで、回るお金は、地方税が、回ってくる、美術館が作品を買い取る仕組みです。その世界で、早くから頭角を現している豊重さんは、大勢の人から嫉妬されていました。「あんなのペンキ屋じゃあないか」と、私の目の前で、言った人も知っています。年表を見ると、確かに、18歳から、20歳まで、塗装業に従事と書いてあります。

 だけど、それを言っている人間が、美大出であったら、ひどいいじめであることが、皆様にもお分かりいただけるでしょう。私もそれを聞いたときは、とても嫌な感じがしました。彼本人も、嫌な感じを受けたでしょう。そういう攻撃から、身を守るために、彼は、女性の力を利用したのです。人当たりがよくて、人懐っこくて、人との温和な関係を保つことができる彼には、相当なファンがいました。そういう人と二人連れで、歩く。そうすると、もし、悪口を言われたときに、その女性ファンが目撃することなり、彼女の口から、外へ漏れますね。だから、悪口を言う方も用心するようになります。そういう形で、とよしげさんは、自分を防衛するようになったのでした。

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副題5、『豊重さんに対する、筆調を、ここで、変えるが、その影に、前田祝一(元、駒澤大学教授にして、共産党員らしい)氏の、私への五月の恫喝の影響があるのは確かだ』

 ところで、渡辺トヨシゲと言う人の絵や、着色をされた立体類は、明るくて、美しいです。私は好きですよ。そして、ずっと、平穏な関係を続けてきた10年間があります。彼は、1994年の私のセンターポイントにおける個展に、すでに、出席をしてくれており、「ずいぶん、にぎやかなオープニング」と言ってくれました。

 だから、急に彼が変節していじめて来ても、『ああ、裏があるわけですね』と、思うので、あれこれを語りたくないほどです。彼が変節して来たのは、2005年ごろでした。美術9条の会が、できたのが、2005年ですから、彼の変節もまた、裏からの教唆であったと思われます。

 1994年から数えればすでに、20年間にわたって知り合っているわけです。だが、2005年以来、険悪な関係になっています。毎日会うわけでは無いが、私はすでに、心を開きません。彼も無論、私を大切にはしません。

 そして、これから、すごく、えぐい事も書いていきます。ぐいぐいと、沙彩ママを批判をして行きます。お嬢様が惨殺されてお気の毒ですが、その一因は母親である、あなたにあると、今、断言します。そして、私は、それをすでに、2005年ごろから8年間にわたり、感じ続けて。来ています。

 ただし、一見意地悪極まりないように見える、そこまでの事を、書くという事を、裏で、進めさせさせているのは美術界の人間では無くて、ご近所住まいの前田祝一氏の恫喝(後注1)です。そして、その夫人の清子(元、國學院大學講師)の恐ろしい行為であり、その友達の、安野忠彦+夫人です。また、すべてのきっかけを作り出した、石川和子+柳沢昇夫婦(かまくら春秋窯主宰者夫婦)も含まれているし、石川和子さんの元愛人だったという伊藤玄二郎(鎌倉春秋社・社長)も、含まれています。彼らが、三鷹ストーカー殺人事件に対する、私の独特の論理を展開させることとなります。・・・・・

 前田祝一氏が、自分の方が長年にわたる、種々の側面での、加害者であるにもかかわらず、「あんたを、刑事訴訟にかける」という、ひどい脅かしの言葉を、五月、27日(?ともかく火曜日だった)に道路で、かけて来た時に、私はすっと、彼の攻撃をそらして、何も言わず、自宅内へ引っ込みました。

 それで、私が負けたとでも、考えていますか? とんでも無いです。私の方は、『こんな嬉しい言葉は無いね。将来大きく利用できる』と考えて、いただけです。『この幼稚な、まるで、中学生のいじめ教室の生徒みたいな、連中をとっちめる、最大の材料が手に入った』と思っただけですよ。わかっていますか?

 私が東大に勤めていたときに、往時の上司は、「あんたは、東大卒ではないけれど、このまま、勤め続ければ、必ず、東大教授になれるよ。ともかく、頭がいい。分析する能力とともに、統合する能力もあるからね。東大生は、受験で消耗してしまうので、その統合する能力が失われているケースが多い」と言っていただいているのです。

 だから、私は、この三鷹ストーカー殺人事件を通して、統合の能力を発揮しようと言うわけです。渡辺豊重氏は、美術9条の会の呼びかけ人です。美術9条の会の上の組織として、9条の会がある模様です。そのように、ググルと出てきます。

 その9条の会は、井上ひさしが、主宰していました。と言うことは、ほとんどのメンバーが、共産党員と、オーヴァーラップをしていると思います。そして、集団訴訟などもやって来ているでしょう。前田祝一氏が、集団訴訟の原告メンバーであることは、すでに知っています。その上、日常生活を、考えてみても、・・・・・特にペンキ塗りお当番をやった日の、組織運営を、考えてみても、・・・・・共産党員である事は、疑いも無いです。むろん、こういう文章を公開した後では、離党しているかもしれません。だが、2005年までは、確かに党員だったと思われます。または、9条の会の会員だったでしょう。

 ここで、前田氏から離れて、三鷹ストーカー殺人事件に戻りますが、その事件で、誰かが、ネットの世界で、美術9条の会に、沙彩ママが、所属していた事をアップしていました。それを、知り、こここそ、前田祝一氏たちの、きわめておぞましい、姿を、分析する好機だと、私は感じました。

 今まで、読者の皆様も、どうして、ああいうこと(=近所の主婦達のいじめ)を、しつこく書くかと、不思議だったでしょう。そのご批判の気持ちは、わかっていました。具体的に、批判をして来た方もあります。

 だが、この現代日本を覆っている黒い霧、そして、国民を苦しめている本当の支配制度について、幾分かの解明が進むと、信じて、ご近所におきている忌まわしい事を、書いて来ました。批判も恐れず、きちんと、一歩、一歩進んでまいりました。

 三鷹ストーカー殺人事件が起きた、2013年10月8日以来、美術の世界も、その黒い霧が、大きくはみ出している事がわかりました。それとともに、私への攻撃として、鎌倉ご近所と、美術9条の会が、連動をしていたと言う事の二つが、、証明できる様になりました。それは、30年前から、私だけには明瞭に、わかっていましたが、他者へ説明する際に、説明がしやすくなったのです。

 彼らが、どうして悪人なのかの、説明が、以前より、よりはっきりと、して来るでしょう。少し幅が広くなり、拡散している問題の、全貌が見えて来ると思います。

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副題6、『渡辺豊重氏は、格好のアクセサリーとして、沙彩ママを連れ歩いていた』

 ところで、ここで、鎌倉の前田祝一氏に関する記述から、葉山の美術館のポープニングに出席していた、渡辺豊重氏に戻ります。その会場で気後れをしていた豊重さんに戻ります。その気後れも、私以上に、大きなストレスだったと、推察されるのです。顔が売れていますからね。かえって大変なのです。顔が売れているのに、パーティで誰も話し相手がいなかったら、惨めさもいや増します。皆が、見て、あざ笑うかもしれないじゃあないですか。昔から嫉妬の対象なんですから。

 それを救っていたのが、沙彩ママです。ここで、お断りをしておきますが、沙彩ママの実名(と言うか、画家としての実名)を知っています。だが、この一文の中では、常に、沙彩ママで通します。一種の武士の情けです。これから、彼女は、生涯を、画家として、活動をして行くでしょう。

 むしろ、さらに有名人になっていくのかもしれません。この事件を一種のレジェンドとしてね。どんな画家でも同じですが、何らかの劇的な、物語が付随していた方が、名前を覚えてもらいやすいですから。そして、ご自分の一生を伝記ででも、出版すれば、それは、決定的になります。

 画家としての復活などと言う、そんなことは、普通の女性と言うか、ふつうの、お母さんなら、これほどの、事件を経験すると、できないと思いますが、私の判断によれば、彼女は、普通の、お母さんではありません。ほとんど、お母さんの役目を果たしていなかったのです。主観的には『自分は、よくやっています』という気分だったと思われます。が、私の目から見ると、まったく違っていました。

 でも、だからこそと言うか、やがて、この事件を水に流して、画家として復活をするはずです。だから、実名を伏せておきます。一方、渡辺豊重さんの方は、直接の関係者ではありませんので、今現在から、実名をさらしておきます。

 沙彩さんは、特別にいい子だったのです。親の前ではね。不満を言わない子でした。でも、だからこそ、私は、母娘の間に、愛情の交流がなかったと推察するのです。だから、『沙彩ママは、演技としては、悲しみを、一生、見せ続けるでしょうが、心の底では、そんなに、悲しくないはずですよ』と、推察しています。

 だけど、それは、後ほど、丁寧に分析していかないと、皆様にはご理解ができないでしょう。でも、ここでは、渡辺豊重さんが、自分の気後れを紛らわせ、他者に、負けないために、女を利用する方法について述べる事に戻ります。

 その女性は会うたびに人が変わっていました。それも私には意味がわかっていました。つまり、恋愛関係(特にホテルまで行く関係はない)は無いということ。家来として、自分を強化防衛するためだから、自分が出かける際、特にパーティなどに出席する際には、必ず、付き添って、自分をサポートしてくれないといけないので、数人をキープしておく必要があるからです。

 だから、未婚のお嬢様作家は選べません。そういう人が、もし自分にほれてしまったら、それはそれで、大事ですからね。彼はその年齢の男性としては、いいお顔の紳士です。

 で、奥様作家を選ぶこととなりますが、彼女達では、「PTAの行事と重なりました殻、お付き合いできません」という事も起きるわけなので、人間貯金箱に、常に、数人をキープしておく必要があるからです。誰かと寝てしまうと、必ずそれは外に現れます。そうすると、ほかの女性はそれを嫌って、氏のお誘いに乗らなくなり、利用できなくなるでしょう。だから、常に冷静な関係をキープしておく。

 江戸時代までは、名家のお嬢様が、外出するときは、必ず下女がお供をしたでしょう。あれと同じです。

 しかし、豊重氏が、20003年に新たに開館をした葉山の神奈川県立美術館のオープニングパーティに、沙彩ママを伴って現れたときは、ぐっと違う意味を感じました。それも何回も続いたので、確信をしたのですが、単なる家来以上の意味を沙彩ママは持っていたのです。

 つまり、豊重さんが、仮にブランドのお洋服、たとえばアルマーニのスーツを着て現れたとしましょう。すると、対面したあいては、アレッと思って引くでしょうね。現代アート関係の人は、作家にしろ、評論家にしろ、たいていの、人は、貧乏です。上に、ハイサラリーをもらっている人たちの集団があったとは言っていますが、そう言う人たちは、それなりに、外国に調査に行ったり、海外で刊行された書物を買ったりしないといけないので、服装に高いお金を出して、凝る人はいないはずです。

 そこに上下、50万円以上のスーツを着て現れたら、皆ぎょっとするでしょう。そして、かえって反感を強めるでしょう。ところが、沙彩ママを引き連れている事は、反感をもたれません。有名な高松二郎の関係者だと吹聴している女性だからです。

 ところで、私、親戚だとは聞いていますが、姪だったかな? または、いとこだったかなと言う程度だったので、NHKニュースで、沙彩さんが、ひい孫だと聞いて、びっくりして、今、高松二郎の方を確かめたのです。すると、そちら側では、「沙彩さんと、親戚であることを否定されている」みたいですね。何がどうなっているのだろう? だけど、倉本聡さんとは、親戚であることは映像を見ても確認できました。だから、彼女は、ブランドの人であり、連れ歩くと、とても格好がいいわけです。

 洋服ではなくて、人間がアクセサリーとして、渡辺豊重さんを飾っているわけです。私はそんな沙彩ママを見ていて、この人は将来、子供の事で悩むことになるだろうと思っていました。それが、どうしてかは、画家と言うものがどういうものであるかを語らないといけないので、また、多数の字数を必要としてしまい、午前二時である今、その続きを書く体力が残っておりません。

 ただ、はっきりといえることは、当時の、沙彩ママの外見から、お子さんが、中学生だろうと思っていたのに、今回の報道によって、沙彩さんは、当時、まだ、9歳か、10歳だったとわかったので、ますます、いけないなあと、感じているということです。

 その年齢のお嬢さんを学校から帰宅後、一人にしておいて、葉山にまで遠征していてはいけません。しかも、その用事は、ご自分が主役ではないのです。葉山の美術館でご自分の個展をしているのなら、オープニングパーティに出席して、最後までそこにいて、お客さんをもてなす必要はあります。でも、別の人の個展です。しかも、渡辺豊重さんの家来と言うかアクセサリーとしてくっついて来ているだけなのです。画家は孤独でないといけません。

 金魚の糞みたいに、誰かさんの後を引っ付いて歩くのはレベルが低すぎます。その上、それが、利用をされている外出であることは、私には見え見えであり、同じ事を感じている人はほかにも大勢居たでしょうから、なおさらよくないです。

 そして、そして、帰りの電車の中で、私を、とよしげさんと一緒になっていじめて、笑っている。

 横須賀線でした。ボックス席ではなくて、ふつうのベンチ状の席で、それは起こりました。一番左側の豊重さん、真ん中に、沙彩ママ、一番右に私と言う順番でした。

 豊重さんが、私をいじめたときに、彼女が、もし、眉でもひそめたら、私は、彼女をまともらだと、考えて、この文章を書かなかったと思います。と言うのも眉をひそめても、それは、渡辺トヨシゲ氏には、見えないからです。見えない安全な位置にいるのに、そういう反応が出なかった。『で、だめだわ。この人』と思いました。

 渡辺氏の方を私が問題としなかったのは、彼は、すでに、20代後半から、人になついて、人に持ち上げてもらうのには、どうしたらよいかを知っていたと、推察されるからです。彼の、自分より上の存在に対する媚と、それに反比例するいじめは、50年近い年季の入ったものですから、私一人では、どうしようもありません。

 しかし、沙彩ママは、それに同調してはいけません。大学に入学する前の子供を育てている母親が、そんな、ダル(鈍い)感性の持ち主でどうします? 子供がまともには育ちませんよ。

 今回だって、沙彩さんは、被害者だから、皆さんが、何も言いませんが、18歳で、どうして、ああいうことをする、道徳観なのですか? 変ですよ。ふつうなら、こういうことはしてはいけないのだという道徳観が、すでに、身についている年齢だと思いますけれど。

 ママの方が、きちんと育てていないのです。外出ばかりしていて、きちんと子供を見てこなかったのです。

 そういう女性に、どうして神様が、ご支援を与えます。私は前田祝一氏に、2013年の現在でも、何も口答えしないように、彼女にも、トヨシゲさんにも、何も、反抗はしません。注意もしません。だが、予知能力のアンテナは、見事に立つのです。・・・・・・この人は、将来、お子さんのことで、何か、大きな悩みを抱えることとなるだろうと。・・・・・・それが、すでに、私には、2005年度中には、見えていたのでした。

 無論のこと、それを毎日思い出すことはありません。

 だが、2013年の9月の第三週か、第四週に、渡辺豊重さんが、ギャルリー志門の入り口で、オーナーと話しをしていたときに、彼の周辺に黒い霧が立っているのには、見事に気がつきます。それに対して、私は、この事件の予告歯、しませんでしたよ。それとは、別の、軽口で、その、おぞましさを、緩めようとしたのです。が、豊重さんは、その裏にあった、私の真の思いをわかっていたかしら?

 私はね。非常に蓮っ葉な感じで、「豊重さん、川崎って、土地の値段が上がってよかったわね」といったのです。彼は、「うっ」といったん詰まった上で、「僕、川崎には住んでいないよ」といいました。そうですね。そのとおりですね。彼が川崎には、普段は、住んでいないことも、無論知っていました。

 川崎市、刈宿には、お嬢さんが住んでいて、ご本人は那須に住んでいます。それは知っていて、それでも、その軽い調子の言葉を彼にかけたのは、そのおぞましい黒い霧を、少しでも軽くしたかったからでした。そして、軽い感じでギャルリー志門を去りたかったのです。銀座へは清新な絵(または、作品)を見に行っているのです。黒い霧に、身を巻かれては、たまりません。

 川崎市は、全体に格があがっていますが、武蔵小杉にすぐ近い、刈宿一帯は、さらに、地価が、上がっているでしょうから、そのくらいの話題しか、人間として、発せられるものが無かったのでした。悪魔か神かの、どちらかに変身するのだったら、「豊重さん、あなたの周辺に恐ろしいことが起こりますよ」とか、「起きていますね」といったと思いますけれど、私は人間です。人間としての警告は、ただ、その蓮っ葉な調子に、こめたジョークめいたものが精一杯でした。

 社会階層上は、彼の方が上です。もっと、敬語とか、丁寧語を語尾につけないといけなかったでしょう。デモ、あれで、よかったと思います。ひとつのサインですから。

 文章の中に、意味は無いのです。ただ、恐ろしいものを見たというサインとして、ギャルリー志門のオーナーと豊重さんの両方に聞かせたかったのでした。私に予知の能力があることの証明として、その言葉を聞かせておきたかったのです。

 もしトヨシゲさんが勘の鋭い人で、何かあると感じて、追いかけてきて、「お茶でもしませんか?」といったら、詳細を語ってあげたでしょう。で、それを聞いてびっくりした沙彩ママが、この件で、私に相談するために、鎌倉の家まで来てくれていたら、絶対にお嬢さんは、殺害はされなかったと思いますよ。まず、「警察には届けるな」と言うし、もし、どうしても届けるのなら、「沙彩さんをどこか、別の場所に預けなさい」といったと思います。「非常に危険です」と言ったと思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

 この次に、初稿として、五千字を書き足しています。だが、結論が出ないままに、2万字を超えました。それで、これ以降は、次の章へまわしたいと思います。ちょうど、ここまでで、前報から続く、予知の問題が完結しますから。

 その続く、五千字の内容は、

副題7、『ここで、一足飛びに、10月8日に飛ぶが』

副題8、『中学と高校の時期が、一番大変なのだが、それを沙彩ママは、知らなかったと推察される。フロイトの言うとおり、母と娘は、相容れない。それもあっただろうし、それを克服するほどの深い愛が、ママの方には育っていなかったと思われる』

副題9、『母親が偉いと、子供が、たいていだめになる。そのことさえ、沙彩ママは気がつかなかったのだろうか』

副題10、『だけど、沙彩ちゃんの家系に、あの秘密(=自殺)が隠されていれば、この不思議に、ふわふわした、様子も、それで、仕方がないのかなあ?と、思い至るのだった』

 となります。

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 後注1、

岩合光昭氏は、体重の重い猫が好きだと言うが、(前田祝一氏の恫喝、-1)△

2013-06-04 23:34:42 | 政治
 

前田祝一様、貴君に行動の自由があるのなら、私にも、その行為を記録する自由はあるでしょう?△

2013-06-11 15:31:49 | 政治

 これらは、過去に書いた記事のタイトルです。

    このブログの、2010年より数えはじめた、伸べ訪問回数は、1859748です。

一部を、26日に書き始め、初稿は、29日に完成し、30日に、推敲と加筆を終わる。

     雨宮舜(本名、川崎 千恵子)

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