銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

青木玉(幸田文の娘)の、父(駄目パパ)への愛に、涙して

2010-12-18 09:04:32 | Weblog
副題『遺族の心構えに違いあり、・・・・・向田邦子、VS 幸田文』

 前報は、膨らまし方ではさまざまな方向へ進みます。たとえば、そこから、発展してウィキりークスへ思いをはせることさえできます。が、今日は昨日頭に浮かんでいた文脈を追及させてくださいませ。

 ただ、また、徹夜なので、今日いったん上げますが、修正する可能性はあります。微妙なところを追求するのは、体力満々でないとできないものです。でも、ブログは、更新するのもまた、それなりの価値のあることですので、番組批評の続編を書かせてくださいませ。これは、心理学的問題とか、哲学的問題へ入っていくこととなる話です。

 敬して遠ざけてきた青木玉さんのエッセイ(小説といってよいのかもしれない)に、とうとう取り組み、昨晩で一冊読み上げたところです。その結果、私は相当に、青木玉さんは見直しました。テレビ映像がどうしてああ見えたかがぴったりとわかったからです。

 そして、『あの一族で、一番才能が充実していたのは、幸田文だ』という私の観点は変わらないし、もんだいであった、文さんのご主人に対するなぞが解けて、そこには、大いに満足をしました。そして、どうして、番組があんなに中途半端な追求で終わったのかも、はっきりと理解をしました。

 幸田文さんの作品は主に、新潮文庫で読めます。そして、古本としても大いに出回っています。青木玉さんの方は、主に講談社文庫で、出回っています。しかし、新刊は八重洲ブックセンターにはありませんでした。丸善にも回ったけれど、時間が8時半を過ぎていて、探索不可能でした。講談社刊の目録を見ると、講談社内在庫としても、1,6,7しか残っていない模様です。でも、幸いにして、秋葉原のブックオフで、2~5を見つけ、今、2である『帰りたかった家』を読了したところです。

 『本の出回り数が少ないから、母親である文さんより下だ』というわけではないのですが、ご本人にも、『文さんより、自分の方が劣っている』と言う認識がある模様です。それは、当然です。文さんとは、あに文学のみならず、一女性としても、すさまじい方ですからね。あの方にかなう人は早々見つけられません。

 (次の日、19日に加えた補遺1あり、それは文末へ置く)

 青木玉さんの講談社文庫ですが、1は、『小石川の家』というタイトルで、幸田露伴と、幸田文の思い出をつづったもののようです。で、世間の評価が大変高かったもののようですが、私が知りたかったのは、お父様のことなので、この2『帰りたかった家』の方が、大切だったのです。ここに、子供から見たお父様と、お母様との、描写があります。特にお父様に対して同情的です。

 そのことこそ、最大にほっとした点です。
 幸田文の小説内では、夫の記述が少ないのです。ごく簡単に、頼りなかったという程度で記されています。まだ、「自伝的要素が濃い」と松岡正剛氏が言っている「きもの」を読破していないので、間違っているかもしれませんが、どうも、心理的には切り捨てられているという感じを受けます。『それが100%なのだろうか? それ以外にはないのだろうか?』と長らく疑問に思っていました。

 『一将、功こうなって万骨枯る』という言葉があります。露伴の影で、文さん自身が偉大な父に振り回されたことはあったし、それについては、感じ取られる文章が多々あります。しかし、文さんとご主人との間にもそれがあったのではないかと思っていたのです。ただし、二人が結婚していた時代には、文さんは、単なる専業主婦であり、別に社会的というか、世間体とすれば、夫を立てて暮らしていらっしゃったわけですが、内実としては、『一種の、後家相の人であった、のではないか』と思っていました。ここで後家相という言葉について解説しますと、それは、手相の一つで、女性なのに、立派な手相を持っていすぎると、ご主人が早くな死亡すると言うものです。

 青木玉さんは、そんなに、簡単な言葉で、母を断罪しているわけではないが、小さなことの積み重ねの描写の中に、それは、くっきりと浮かび上がってくる真実です。二人はご夫婦としては圧倒的に、反対の人でした。似たもの夫婦とは正反対の、異なったタイプの組み合わせです。でもね、青木玉さんが、この『帰りたかった家』という一巻の書物を著すことができたのは、『お母さまは、お父様を好きであった』と信じることができたときだったのです。『特にお父様には、露伴にはなかった優しさがあったからだ』と信じたときに、それが心の開放となったのでした。

 これを読んで、私も心からほっとしました。人にはそれぞれ、持分があります。幸田文さんは大物として、日本文化に貢献するべき使命がありました。だけど、無名な、かつ不幸な人で終わったご主人の人生も、命も無駄なものではなかったのです。と信じたいですし、この『帰りたかった家』(それはお父様と家族三人が仲良く暮らしていたころの家)を読むと、それを確実に信じられるのです。

 この本にはさらに二つほど、私が知りたかった大きな情報があらわされていました。それから、知りたいとは思わなかったのに、知りえてしまって、『あ、そうだったのか』と納得をした事実もありました。

 最後の知るつもりでもなかったのに、知ってしまった事実とは、『青木玉さんが、結婚に何を求めていたのか。また、求めていたものが獲得できたかどうか』というポイントです。
 青木玉さんは母をそばで見ていて、『かなわない』という思いが強くて、『専業主婦ぐらいなら、できるわ』と思って、結婚なさったのです。『これって、あり』です。決して敗北でも、逃避でもないです。すばらしい選択でした。ご自分にあった選択だったのです。

 結婚とは挫折を経験して、人生にある程度のあきらめをもたないと、できないものなのです。一種ひざを屈することなのだから。幸田文さんの時代には、結婚することが当たり前だったから、自己分析などはしないうちに、結婚することが当然だったのですが、戦後の教育の洗礼を受けた女性にとって、そうは、簡単にいきません。

 また、これは結果オーライともいえますが、ご主人が、家族を形成する人としては、すばらしい人間だった模様です。職業は研究医(もしかしたら、大学勤務かな?)です。しかも、ご主人のご両親は円満で優しい人たちでした。ご主人のご兄弟も、普通の人で、暖かい交流ができたのです。この優れた縁組は、幸田露伴の盛名が、効いたところがあるかもしれません。

 しかし、この結婚がすばらしい結果をもたらし、二人のお子さんができたことこそが、あのNHK特番をつまらないものにしてしまったし、比較して、向田邦子さんの特番が印象濃く成功したものとして、思い出されることにさせたのです。家族は時として、芸術家の足を引っ張るの典型でもありました。

 また、それこそが、私にして青木玉さんを、長らく敬遠させた理由ででもあるのです。

 高校の先輩ですから、内輪向けの情報が伝わってきます。和服をぴちっと着こなしたきれいな奥様としての、情報が、伝わっています。すると私はこう考えます。『何だ。良妻賢母じゃあないの。そんな人には、情熱のこもった文章など、書けるはずがない。インテリにはエッセイは書けても、小説は書けないはずよ。大体お茶大の付属高校から、芸術家など出ないわよ。大学はトン女ですって。そちらも同じ。理性が勝ちすぎて駄目よ』と。

 戦後宮本百合子さんと言う女流作家がそこから出て、私は『播州平野』とか、たくさん読みました。が、ぜんぜん感動せず、その方が若いころ大変な美人だったということを写真で知り、また、夫が宮本顕治であることが、評判を高くしているのだと、感じて、『駄目だ。この学校からは、文学者は出ない』と感じたのです。

 何がいけないかというと、半分以上は良家の子女なのです。そうなると、そのお嬢様方は、破綻をすることが許されません。で、ほかの生徒も影響を当然受けます。で、人生の節々で、選択上、破綻をしないような選択を繰り返します。

 私だって、もしお茶大の付属高校には行かないで、神奈川県立のどこかの高校へ入学していたら、もっとたくましかっただろうし、大胆な選択をしたと思います。で、結果としてどうなったかというと、シューベルト級の芸術家になっていたかもしれません。音楽の分野ではありません。だけど、美術の分野に進んでいても、文章の世界に進んでいても、資質として、シューベルトみたいなところは大いにあるのです。健康を害することなどいとわず、打ち込むところがあります。好きなことに対する集中力は、ものすごく深いです。
 だから、早死にしていたかもしれないが、なんらかの傑作をものしていたかもしれません。

 だけど、常に、創作バカとか、芸術バカには、徹しられないところがあるのです。ここでは、『右に進んだ方が、自分を生かすよ』と、どこかでささやく声がしても、反対の耳では、『違う。そっちへ進んだら危ない』という風にきこえて来ます。だから、時々、「ヒット数だけを上げれば、松岡正剛さんに迫るというか、上回る勢いでこのブログは伸びています」と自慢をしたって、ぜんぜん満足をしているわけではありません。自分の生き方に対する疑問は常にあって、『熱いトタン屋根の上の猫』という状態に陥るときは多々あります。

 だけど、子供や孫がすでにいるから、破綻をすることができないのです。孤独死してもいいから、翻然と自分の本質を生かすなどということは、もう、できないのです。それで68歳にまでなっちゃいました。

 そういうときに、65歳から(ということは、未亡人になったから?)書き始めて抜群の記憶力を生かして、父君を、真に追悼する文章を書き上げた、青木玉さんは推奨に値すると感じました。しかし、娘の奈緒さんも言っているように、「四代が下に行くほど小粒になるのは仕方がないです。でも、それって、世間の人も同じではないですか」はあたっていて、どうしても、幸田文には、青木玉さんは、追いつけません。そして、それで、よいと思っていらっしゃいます。そこは潔いです。

 ご自分を父君に似て優柔不断な人と規定をなさっているが、なかなかどうして、できることを立派にやり遂げていらっしゃいます。見直しました。でも、どちらも未読の若い方に勧めるのなら、青木玉さんより、やはり、幸田文が上です。文化勲章をもらっているので、この一族の中では、露伴が最上のように見えますが、感動を与える力は、文さんの文章の方が上だと思います。

 でも、幸田文の傑作小説『闘』の背景を探るためには、この青木玉さんの『帰りたかった家』が大きく役に立ったのです。

 『闘』は結核病棟が、舞台のグランドホテル形式の小説です。主人公は健康なら、野性的で男性的な魅力がいっぱいのはずの中年男です。それが結核によって、シニカルにならざるを得なくなっていますが、ある種の英雄でもあります。戦う人なのです。

 ここに幸田文さんは、ひとつの理想(男性としての)像を造形したのです。アイデアルな形。再婚をせず、創作一本で人生を送った幸田文さんの、架空の恋愛が、この小説に込められています。かといって、小説の舞台上では、何も恋愛は起こらないのですよ。とくに幸田文さんと思しき存在は登場しません。

 でも、玉さんの父君が結核で亡くなっていることを知ると、あの小説の主人公が、『私の主人には、本当は、こういう態度をとってほしかったのだ』という文さんの思いが、結実していることがわかってくるのです。弟さんも結核で亡くなっている。そして、ご主人も結核でなくなった。その多数回の見舞いの際に、実際に出会った男性をモデルに使ったことも考えられます。

 が、今の私には、『これは完璧な創作であり、文さんの、<やさしすぎて優柔不断で、戦わない人であったがために、離婚に至った>ご主人に対する一種の恨みが、浄化されて、理想的な対照例を作り出すことで、癒されたことを感じ取らせるのです。この二つの本は、抱き合わせで読むと、補強しあいます。補完しあいます。

 そして、『文学者青木玉を産んだのは、実はお父様だった』ということがわかってきます。父を13歳で、亡くした悲しみ、自分が病弱なゆえに、感染をおそれて、父とは、引き裂かれたまま、六年を過ごしてしまった悲しみなどが、小説家青木玉さんのモーチヴェーションでしょう。彼女はインテリだったから、書き出したわけではなくて、書かざるを得ないほどの、悲しみの記憶があったから、書き出した人だったのです。そのあたりを想像すると、泣けてきます。

 ただ、彼女に書き手としての元気(または体力と自信)を与えたのは、そのお医者様と作り上げた暖かい普通の家庭だったわけです。だけど、NHKの特番に限っていえば、矛盾極まりないことに、その暖かい家庭で二人のお子様ができたからこそ、彼女は、あの番組の中では、父については深くは触れませんでした。というのも現在の日本社会では、お金が優先です。慶応の幼稚舎から、プリンストン大学(補追2)にまで、戦前に遊学できるほどの恵まれた経済状態から、結婚後は、破産、離婚、結核による死に至ったお父様の人生は、いわゆる『負け組みである』との印象を与えかねません。

 「あの番組は奈緒さんのお見合い用ビデオであった」とまでは言わないが、どうしても、奈緒さんを生かすという方向性があり、それゆえに、その父君の部分はほとんどが伏せられていました。それは、親としての玉さんにとっては、当然のことでしょうが、テレビの特番が、特別に期待はずれの、つまらないものとなってしまったのです。

 比較して向田邦子さんの方は、番組が緊迫感に満ちていました。同じクルーで制作をされたのなら、「今回は、腰が引けていましたね」といいたいです。違うクルーなら、正面から「せっかくの大量な経費を使うのなら、もう少ししっかりした作り方をしてください。情報量不足でした。あれでは、幸田家の本を読む人の数を、減らしたはずですよ」といいたいです。

 二つの番組の違いは、向田邦子さんにお子さんがなかった点に帰するでしょう。で、主たる語り部の妹さんは、遠慮する部分が少なくなったと感じられます。で、覚悟が決まっていて、腹が据わっていました。つまり、世間には伏せられていた、恋愛と同棲と相手への看病(癌だったかな?)の事実を公表したのです。『向田邦子さんが人生の機微をえがきだしえたのは、単に創作力だけではなかったのだ。裏打ちがあったのだ』という新事実の公開です。だから、向田邦子の文学研究にはひときわ役立つし、はらはらどきどきはさせました。

 というのも、向田邦子さんがその人と付き合い始めたころには、その相手にはすでに妻子があったからです。でね、その番組が放映されることは、新聞や予告篇で、多数の人の知るところですから、『相手の遺族は、この放映をどう考えるだろう。もちろん、やめてほしいと思っているだろうなあ』とか、思うと、私ははらはらどきどきしました。

 でね、番組が終わってから、『あ、私って、どこか、向田邦子を好きではなかったけれど、こういう裏側があることを予知していたのかしら?』と不思議な感覚を抱きました。世間的な評価が高くても、一度も好きにはなれなかった人なのです。

 青木玉さんや、幸田文さんには懸念がありました。上に言ったようなポイントでです。だけど、一度も嫌いになったことはないのです。不思議なことでした。評価が交錯することがです。番組の成功云々と、作家としての主役への、好悪や評価は互い違いの組み合わせになるのです。

 (次の日、19日に加えた補遺1)・・・・・・この一文を書いたあとで、『きもの』と、『流れる』を読みましたが、『流れる』の中で、百戦錬磨の経験を積んだ花柳界のくろうとより、しろうとのご自分の方が強いのを感じるし、相手方にも それが悟られてしまう場面が、 何度もあります。生活技術としは、幸田文さんの獲得したものは抜群に高いのです。


 さて、ここで、挿入へ入ってしまいますが、幸田文さんは、花柳界を全否定するわけでもないのですよ。特におかみ(美しい年増芸者)のしなや容姿へ賞賛は、聞いていて心地よいものです。そして、生活態度全般への二人の文明批評部分が完璧に現代へ通じてしまっているのにも驚きました。 

 そして、小さいが未来予測に当たっている部分がひどくたくさんあるのです。せいかつ態度がこの小説の中では ありえないだらしなさだと既定しているレベルが、普通のこととして蔓延していると感じます。

 病気になりかかっている子供の面倒もみないで、夫婦雑誌(多分エロいもの)を読んでいる母親なんて、車の中に用事を寝かせつけたままパチンコをやっていて、熱中症で死なせてしまったというのとおなじです。

 そして、現在、コンビニがオオはやりになっている原因の、少量を気兼ねなく買えるその買い物形式を、推奨しておられます。当時の花柳界(花街)には、芸者が個人営業主であるからこそ、りんごをひとつだけでも気兼ねなく買える文化があった模様です。

(補遺2)今回の一文につけるタイトルに「パパ」とつけたように、戦前にプリンストン大学へ留学できるとは、本当のエリートだったのです。AOLのメルマガの中で繰り返し書いていますが、1999年の秋、プリンストン大学へ音楽の講座の事を調べたくて寄った私はその自然美しさを知っているし、広さも広いことをしている知っているからです。
 では、2010年12月18日                   雨宮舜
コメント (3)
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