銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

秋葉原の車椅子

2010-12-15 02:25:57 | Weblog
 以下は、今から二年半前の2008年七月に書いた文です。その中では、一切警察を批判をしていないのに、井上ひさし氏はこれから、警察擁護をする必要を感じた模様で、次の年、2009年度の桜桃忌、直前にNHKクローズアップ現代で、加藤被告の文章をけなしました。

 そのいきさつすはスクロールすると上にある、『秋葉原のホコ天再開の裏側』に詳しいのですが、それが「一万字以内にせよ」というグーブログ規定に引っかかり、最後まで書きぬけませんでしたので、別項としてこれを挙げました。

 最初の部分は重なって投稿しています。それは『こちらだけをお読みになる方もあるだろう』と推測したゆえです。これ一本でも、叙情的なエッセイとしては完結していると思いますが、秋葉原のホコ天の再開がどうして、何度も延びたのかを含めて、現代日本政治の裏側を探っている、上の文章と併せてお読みいただければ幸いです。では。

『秋葉原の車椅子』
    ・・・・・事件の後も、優しい人たち・・・・・

 私の母は老人ホームで車椅子を使っています。それで、私は、車椅子にはちょっと詳しいのですが、動輪が二つあるのを、皆様はご存知でしたか? つまり、実際に人間を運ぶ動輪とは別に、乗っている本人が動かす動輪(より直径の小さいもの)が外側に、二つ目としてついているのです。ですから左右で四つの動輪がついています。
つまり、使っている本人の手を汚さないで、進めるようになっているのです。老人ホームは床がきれいです。でも、外に出たときに、一組の動輪しかなければ、土で手が汚れます。それを防ぐシステムです。で、幅が結構広くて80センチ近くあると思います。

 バリアーフリーというのは、段差を無くす事も指すのだけれど、ドアーの幅も広げる事なのでは無いかと、私は考えているのです。

 ところで、JRは、ほとんどの駅に自動改札機を導入しました。その通り抜けの幅ですが、結構狭い。私の感覚的認識では、幅が60センチ以内だと思います。親がこどもを、横に手を繋いで、ただで、通り抜けるのを防止するためなのだろうと、私は想像しております。
 でね。車椅子は通れないはずなのです。ところが夜の九時近くの秋葉原駅で、誰かが車椅子でそこを通り抜けようとしていました。私は親切という事では、躊躇した事がありません。すぐ近寄って、彼の車を導き、自動改札機のそばに、大きな駅ではたいていは設置されている、有人改札口へ押して行こうとしました。

 すると、まだ、その改札口へ入ってはいない青年は、私の行動を右手で払いのけるように制止しました。そして、方向転換に、二、三度、苦労をした後で、自動改札機へ入って行きました。このたった、二、三分の間に、私は多くの事を考えさせられたのです。

 彼が言葉もなく、つまり、声を出さずに、私を振り払ったのは、・・・・・やはり、彼の障害が、相当な重荷として、彼にのしかかっており、彼はそれを覆すために、人間として大きな修行を積んでいる・・・・・甘くない人間である。・・・・・・という事が、第一番に察せられた事でした。

 二つ目は、昔の鎌倉駅の情景です。鎌倉駅には最近、エレベーターとエスカレーターが設置されましたが、それができる前の話です。階段に、車椅子を運ぶ機械が据え付けられていた頃の話です。その機械は、車椅子の乗り手本人では、操作不可能なもので、駅員さんが三人ぐらい出て来て手伝うものでした。

 そして、その日の主役は、高齢者で、それゆえに車椅子使用者になった人で、太っていて裕福そうで、娘さんか、お嫁さんか、お手伝いさんかは、わかりませんが、付き添いの人もいます。まるで、大名行列のような大騒ぎです。それを批判するのは意地悪になるだろうから、批判はしませんし、もう、エレベーターができたので、ああいう大騒ぎに接する事がないけれど、「中年のおばさん族のあつかましさ」という事がちょうど、週刊誌のテーマとして、ブームとなっていた頃だから、私は、その主役の婦人に対して、・・・・・ずいぶん、鈍感な人だなあ。『済みませんねえ』という表情が浮かんでいないもの。当然の事として、周りの人を振り回している・・・・・すごいわねえ。世の中にはこういう人もいるんだ・・・・・と悪い意味で、感心したのです。

 その婦人に比べれば、この秋葉原の若い人は、加齢によって歩けなくなったわけでは無く、何かの事故(特に頚椎損傷)か、サリドマイド禍、か、小児麻痺系統の病気の結果であるように見え、下半身が発達していなくて、車椅子を使っていても、全体の高さが無かったのです。


 それは、彼が通路に入ってから、証明をされました。まず、スイカを機械に当てるのだけでも、彼の体(座高)が低いために、相当大変でした。その上、この車椅子は特別仕様で、例の外側の動輪がないのです。でも、手が汚れても良いから、内側の動輪で、進むのだろうと思っていると、なんと、幅がぎりぎりで、左右の動輪と、通路の壁面の間は、二ミリか、三ミリしかありません。となると、彼の指が入りません。


 『どうするのだろう、大丈夫かしら』と心配しながら後ろから眺めていると、彼は「えいやっ」という感じで、左右の手を可能な限り伸ばして、左右の機械の上端を捉えました。簡単にはつかめず、そうですね。機械の高さは一メートルを超えているように見えるし、彼には、骨盤あたりのお肉が発達していないように見えましたから。
 それで少しだけ、車椅子を進めて、機械の上端を握りなおし、また、『えいやっ』という感じで両手を、大きく後ろへ流し、車椅子を、60~80センチほど前へ進めました。
 
 彼を見守り続ける、私の左側に、すっと寄り添った若い女性がいて、彼女も「お助けしましょうか」と最初は言いました。が、その人も彼が、えいやっと、手で自動改札機の間を、漕ぎ抜き始めると安心して去って行きました。

 

それは、新しくできた東口の方で、照明は明るく、歩道は広いのです。きちんとしたスーツを身につけた、その青年は、ヨドバシカメラの方へ消えて行きました。私はしばし、呆然として、その青年を見送りました。
 体にハンディがある。しかし、気力も充実していて、『自分は、できる事は、できるだけ、自分でやる。誰にも援助を請わないのだ』という姿勢が明敏です。『もしかしたら、あれは、乙武君だったのでは無いかしら』と思うほどの、毅然とした姿勢。誰にも甘えない雄々しい姿勢。文字通りの意味で凛とした姿勢。

 私はさらにいろいろな事を考えました。ハンディがある人も、頭脳を使えば、人と互角の生活ができる。パソコンなどを使って、インターネット上などで意見を交換するなどの、シゴトなら。そのためには、秋葉原は、拠点となる街なのだ・・・・・という事。そして、陰惨な事件が起こったのに、彼のそばに寄り添って、私と一緒に助けようとした、若い女性がいる事・・・・・そういう事にも感心しました。

 私は、六十五才(この文章を最初に書いた当時)の女性としては、秋葉原に頻繁に出入りしている方でしょう。そして、東口にヨドバシカメラができたために、西側の本拠地が、沈んでいると思ったり、他、さまざまな観察を重ねております。
 その日も、電車から広告が見えたBOOK OFFを夜の八時過ぎにたずねようとしていました。今まで一度もたずねた事がない上、私は、夜は方向感覚がつかめない方です。自分だけで探すのは、あっさりと諦めて、おのぼりさんと誤解をされる事を恐れず、人に聞いたのです。

 そういえば、数年前に、麻布十番で、「六本木ヒルズは、どこにあるのでしょう」とモダンな女性(ブティックのオーナーだとのコト)に訊ねて、「あなた、外人?」といわれてしまった時を思い出しました。彼女は私をいたわるがごとく、その夜三十分以上を私のために、費やしてくれたのです。で、この秋葉原でも、まず、女性に質問をしました。

 すると、その若い人は、「あ、私、この辺りの人間ではないので」と断りましたが、それでも、言葉は邪険では無く、不親切だとは感じませんでした。その次に、小太りの四十代前半の優しそうな、男性に聞きましたら、「そこを曲がると、すぐですよ」と教えてくれました。もちろん、私は質問をする前に、人を選びます。彼は、ネクタイは取っていたが、きちんとした人間だと感じましたからね。秋葉原近辺に勤めている男性でしょう。
 でも、そんなきちんとした人だって、あの凄惨な事件のあった後だから、硬くなって、人を警戒する事もあるでしょう。でも、そうでは無かったのです。私は、たった、三十分程度の間に、秋葉原の人々が普通の感覚で、・・・・・例の親切な日本人として、・・・・・以前とかわりが無い雰囲気で暮らしている事を知ったのでした。良かった。良かった。                     
二〇〇八年七月三日

 というわけで、AOLの閉鎖されたメルマガ内で発表した古いものを二年半後に再録をしました。日付は15にちになっていますが、16日付の文章の続きとしてお読みいただくためにあげましたので、実際の公開は16日の未明です。
  では、2010年12月 16日(または、15日)  雨宮舜
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