銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

海老蔵よ、・・・ペールギュントに、なりなさい。

2010-12-03 17:04:28 | Weblog
副題1、『松竹にも大きな責任がありますね。彼一人の責任ではない』
副題2、『幸せの大きな要素である、自主性を、誰が、いつ、どう育てるか?』
副題3、『どうして、彼は不良と付き合ったのか?』
副題4、『好青年よ。ペールギュントになりなさい』 

 今週の週刊誌が、木曜日に出揃いました。月曜日から三日の違いでも、ずっと、情報が多い模様です。私はまだ、買ってはおらず、ただ、新聞の広告で見出しを見るだけですが、今週の大記事として、海老蔵殴打、(私は負傷と呼びたいが)事件が取り上げられています。週刊文春と週刊新潮は大きく売れるでしょう。月曜日の週刊誌より、おもしろそうに見えますから。

 という事は、『庶民へ為政者が自らの非を見せないがために与えるといわれる、例の、パンと、サーカス』の犠牲者としての、海老蔵を感じて、気の毒でなりません。出版社全体をあわせると、五億円は儲けさせたと見えます。

 ちょっと、スピンオフに入りますが、母が死んだ事によって、弟と妹にあう必要性が頻繁に出てきて、兄弟とデートをします。2日は、家庭裁判所で、遺言書を開いたあとで、簡単な食事を一緒にいたしました。遺産の配分は、喪主である弟が丁寧に、他の二人に説明をしてくれていて、微妙な調整もしてくれているので、揉め事は一切無く、食事をしながらの話題は、世間話へと入っていきます。

 三人のデートの場所を評判のよい、おいしい店(ホテルのレストラン)に設定しようとした私ですが、お昼の零時をたった15分過ぎただけで、満席となり、1時間以上の待ちになったと聞いて、しかたなく、チェーン・カフェに入りました。で、サンドイッチをほおばりながら、どこのチェーンカフェがおいしいとか、おいしくないとか、という話題にはいり、そのあとで、妹が、「お姉さん、そういうレストラン情報をブログに書くの?」と質問をしてきたので、「違うのよ。ぜんぜん違うのよ。たとえば、最近では海老蔵は、離婚をした方がよいとか、・・・・・」というと、「まあ、言いたい放題ね」と笑っていました。

 そして、二人は、こういう話題には、興味が無さそうでした。テレビはほとんど見ないそうです。決して、兄弟とか、みうちの自慢をするわけではないが、中流の上としての育ちのままで、その生活パターンを、子供のころから一切変えておらず、ほとんど崩していないことを、二人から感じます。で、このブログの世界の読者さまも、同じようなレベルの人が多いと思いますので、海老蔵君の事件など、遠い世界とお考えかと感じます。ここで、君付けで彼を呼ぶのは祖父の海老蔵を、こどものころ、何度も親に連れて行ってもらってみているので、区別をしたくて、そのように書くということもありますし、12月1日に公開している一報目で、彼を気の毒な混沌状態にある少年だと規定していますので、こういう呼び方をさせて頂くのです。

 しかし、私が彼の事件を取り上げるのは、興味本位ではなくて、ひとえに、心理学的な問題、または、哲学的な問題を考える例題として、使わせて頂きたいからです。

 幸せになる権利は誰にでもあります。でも、それもとても難しい。まず、幸せとは何かが、わからない。簡単には定義できないものです。私はこの事件に接して、海老蔵君が、幸せではないという事を、潜在意識の中で、自分で知っていた事に気がつかされ、それに驚かされているのです。

 大事件がおきると、それが、一種のきっかけとなって、われわれはわが身を考え直す事ができます。

 海老蔵負傷、事件も、私はそういうものとして捉えるのですが、世間は違うように捉えているようです。で、もう一回、海老蔵(君)が、どうして、六本木(または、麻布)へ飲みに行かざるを得ないかを考えたいのです。
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 他人が、普通にみれば、いわゆる『人も羨む』生活をしているのに、・・・・・本当は幸せではない人・・・・というのが、私にとって、一番気に掛かることなのです。
 でも、今日の真実に入る前に、彼の何が、そして、どこが、幸せの根拠なのかを考えてみたいです。

 まず、普通に言えば、「家柄がよい」です。歌舞伎という特殊な世界ではありますが、成田屋という、成田山新勝寺の豆まきに昔から参加する家に生まれ、主役に祭りあげられのが容易な立場です。父やおじに力が無くて、主役を張る事ができない立場の人から見れば、超がつくほど、恵まれた立場にあります。しかし、それが当然である彼自身には、比較の意識もないので、この側面は彼に、「自分は幸せだ」という充実感を与えなかったと思われます。
 真に幸福な人は、威張らないでしょうね。威張ったとか、自慢をしたといわれるのは、かわいそうな人だから、幸せではないから、自分の優越点を、強調したのでしょう。

 今回殴られた原点が、『こいつは、生意気だ』と相手が感じたから、でした。が、その過剰な自慢が、彼の欠落感から生まれてきていると、考えると、『かわいそうな人だ』となります。特に最終節にあげた・・・・・かれがあの不良グループに持っていた可能性のある・あこがれ・とかが、どこからきているか・・・・・と言う部分には、新説として自信があります。  

 週刊誌では嫌われる人として捉えられているそうですが、インターネットでも、馬鹿に、せめ立てられている模様です。「悪いやつだ」とか、「ざまーみろ」という感じで。でも、そうなると、抵抗したいのが私です。

 あらゆる人間は、その人個人として、プラスの側面とマイナスの側面を持ち、100%の悪人など居ません。急に責め立てられ貶められるのは、その前に、大いに持ち上げられていたこととともに、私には、気に入らない現象です。

 特に松竹が、「2011年の1月の初春・座長公演から、彼を、自粛させるかもしれない」と聞いたときです。

 出演を自粛させること自体には反対ではありません。ただ、私が問題としたいのは、手のひらを返すようなその処置なのです。「いやだな」とか、「いけないなあ」と、強く感じます。松竹と、報道されていると、その個人名が出てきません。だが、大卒のサラリーマンのはずです。才能があるわけでもないです。それが悪いわけではなくて、ビジネス感覚と、才能は両立しないから、それで、よいのですが、組織であり、大会社であるから、責任の所在が明確ではありません。

 それに、成田屋、の戦後三代を、総て同じ人が管理しているわけでもありません。その発想には、思想や哲学が、あるかどうかということも見えません。ジャニーズ事務所とか、渡辺プロダクションとか、ホリプロという会社は、松竹に比べれば小さい会社でしょうが、社長の個性が、社会に浸透しています。そちらがいいというわけでもないのですが、無名性の中に隠れていて、風向きによって、態度を変える事に、怒りを感じます。風向きとは、大衆の真実の気持ちです。

 松竹側としては、あらゆる路線と、方向性で、歌舞伎界のプリンスと言うスタンスで、海老蔵君を今まで売ってきたのです。その総仕上げとして、一月の大歌舞伎の座長を任せたわけです。たまたま、歌舞伎座建て替中なので、変則性が大きく許されるという好機に乗じたと見えます。内実を言えば、『どうして、彼が、今、こんなに若い立場で』といぶかしく、懸念を持ってみていた人材も歌舞伎界には、存在して居たとは思いますが、

 興行のより上位の主体者として、松竹はそういう企画を立てたのです。何のためにといえば、儲かるからです。会社の利益が、よりあがる方向がそれだと、認識をしていたからでしょう。でも、報道によれば、「パンツまで脱がされて、土下座をさせられた」という種類の、屈辱的な姿の写真を、撮影されたと言われています。

 たとえ、歌舞伎座を使わなくても、お正月の花形歌舞伎にふさわしいイメージではないです。そりゃあ、冷静に考えれば、「おろしましょう。かれが座長ではだめです」となります。当たり前です。単に顔の怪我が、問題なのではなくて、暗い汚いイメージが付与してしまったからです。


 でもね、ここで、海老蔵君自身が、「僕やります。座長公演には出ます」といって、病室に、筋トレ器具を持ち込んでいるとか、聞くと哀れになります。また、奥さんが、「110番をしたのは梨園の妻として失格である」と言うような記事を見ると、それこそ、結婚そのものが、まずかったのだと言う事がわかります。

 だって、普通の女性だったら、血まみれになって帰宅をした夫の裏に事件性を感じて、119番と、110番の両方に電話を掛けるのは、普通のことで失敗でもなんでもないです。だけど、奥様がしかられたのは、そのほかの側面で、『あの結婚はまずかった』と考えている手合いが多いと言うことを暗示しています。

 結婚式に大金を掛けたから、それで、その後がうまくいくわけでもないです。この結婚で一番問題なのは、海老蔵君の方に、まだ結婚したいと言う意識が、なかったのに、周囲がお膳立てして、誘導したという側面があることでしょう。有名人は行動の自由が無いので、恋愛だと言われているものも、実質上はお見合いだと、感じます。対談や、インタビューなどの仕事を与える。そこで、人間関係に化学変化が現れる・・・・・すなわち、恋に陥れば、それを、立派な正式な結婚に持ち込んでしまうという形。

 奥様に落ち度は無いでしょう。むしろ、うぶな普通の感覚の女性。その上、美人で、育ちがよくて、頭もよい。周囲にしてみたら、結婚前には、「これほど、すばらしい女性は他には居ないから、早く捕まえて、入籍して、披露宴を行いなさい」という事になる。

 とくに、海老蔵君の方が、ガールハントをしすぎるタイプで、いずれ大・問題を起こすであろうから、早く身を固めさせて、いわゆるセックス生活を安定させた方がよいという発想が、周囲にあったと思われます。

 だけど、結婚って、第一義的に言えば、子孫を残すためにするものです。何々のためという他の・きょう・ざつ・ぶつ・が入っていると不純になります。

 海老蔵君のように主役を張るタイプだと、人気という水物を相手にしないといけないので、すさまじいストレスがあるものなのです。でも、理想の男を演じて結婚した限り、お嫁さんに弱みを見せられません。また、この若奥様の方だって、梨園のプリンスと称されている夫が、実際には、悩み多い、子供だったなどと知ったら、幻滅するでしょう。だから、二人の結婚生活は、仮想の親しさというか、演技の中でのむつまじさに満ちていたと感じられます。根本的な悩みを、お互いに引き受けあうというような類のものではなかったと、推定されます。

 繰り返しますが、奥様が悪いわけではありません。奥様は一種のはめられた人形と言うようなものです。イプセンじゃあないが、さっさと逃げ出して、ご自分に、本当にふさわしい道をあらたにお探しになった方がよい。若いし、それを、天は責めないと感じます。

 ここで、ご両親や、松竹が、彼の更なるイメージダウンを恐れて、離婚をしないように、奥様を引き止め、これから先、すえながく、夫婦円満であることを強調し、かつ、近々やってくる、お正月の演目に海老さまが座長として、出演したと仮定をして見ましょう。

 見かけ上はハッピーエンドです。「これから先は、麻布にも六本木にも出入りしません」と、周囲に宣言すれば、『あ、痛い思いをしたけれど、彼は、成長したわね』となって、年配のご婦人方からの声援は、復活するでしょう。

 だけど、私に言わせれば、そういう解決方法は、対症療法にしか過ぎず、彼は、引き続き、自分の主体性を確立できず、したがって、次から次へと問題行動を繰り返すはずで、ご本人も幸せではないはずです。これは、週刊誌が報道した過去の恋人と、妻を取り替えて、再婚をしたら、解決をしたのに、という類の問題ではありません。

 かれは実存的なレベルで言って、まだ、結婚をしてはだめな状況なのです。かれを本当に成長をさせるためには、五歳ごろから、生きなおさせて上げるべきなのです。何がいけなかったかと言って、一番よくなかった事は、ご自分で選択をする機会を、与えてこなかったということでしょう。

 かわいそうに、彼は、一種のよい子ちゃんであり、自分が本当に言いたいことを周囲には、まだ言っていないタイプなのです。病室に、トレーニング器具を持ちこんでいるとは典型的なよい子ちゃんの姿です。

 だから、正反対の不良に引かれて接触をしたと私はみています。

 彼が生まれた家には、すでに、大名代であった、祖父がいました。で、松竹をはじめ、周りは、一般の言葉で言えば、ちやほやしたのです。しかし、それと引き換えに、彼を、将来の金の卵とするべくレールを敷き、そこに埋め込むという束縛も始めたのです。その『レールに乗って生きるということ』が、簡単にできるタイプもいるのです。歌舞伎界には、親が大名大である、若手は他にも居ます。だけど、これほどの、スキャンダルにまみれた俳優は居ません。となると、どこが違うかですが、一種の天才としての、豊穣というか、過剰が、そうさせるのです。こういう人は育て方が、非常に難しく、今までのやり方が『実はあっていなかった』と思われます。父君の団十郎は、それを、本能的に知っていたと思われます。で、父君の方にも、一種のストレスがあり、それが白血病の発症に繋がったと私は考えています。

 ここにきて、大怪我という形で、その無理が顕現してしまいました。でも、災いを転じて福となすためにどうしたら良いかを考えましょう。
 まず、一番手っ取り早いのは、海外へ出向くことです。それも、今までのように、お膳立てをされた、歌舞伎役者としてではだめなのです。たった、ひとりで、海外で、生きる時間が必要です。英語が得意であろう、現在の奥様を一種の通訳として連れて行ってはだめです。絶対にだめです。無名の人として、第一歩から、一人で総てをやりぬく人生を、五年ぐらい経験しないとだめです。

 宇多田ひかるの母である、藤圭子さんも人気絶頂の時に、突然、海外へ向かってしまわれました。その裏側を知りませんが、海老蔵君もそれをするなら、前向きの修行のたびだと考えて出発すれば良いのです。ただし、マスコミにかぎつけられて、ニューヨーク(または、パリ)での生活が取材をされるようではだめです。主体性や誇りは保持したまま、ひっそりと、無名の人として生きる事が肝心です。オーディションを受けるのは、かまわないし、区立大学みたいな小さな大学へ入ってしまうのもよいでしょう。専門は演劇でなくてもよいです。文学でも美術でも音楽でも、『成田屋のお坊ちゃま』という地位から離れる事ができる時間が、必要です。そこに、別の可能性を持つ、人格を作り上げるべきです。

 これを実現させるのは非常に難しい事はわかります。特にこういう不穏なうわさも流れています。「成田屋のお台所は、実は火の車なんだ」というもの。「それは、あの若奥様のご実家がお金持ちなので、それで救われている」というもの。『成田屋は、現団十郎が、白血病で、闘病費が掛かった上に、パリやロンドンで公演したことでも、大金を使ったから』というものです。こんなうわさが真実であって、あのきれいな奥様との結婚が、一種の政略結婚であったとなれば、二人ともかわいそうです。大変かわいそうです。

 でも、彼を稼ぎ頭として、依存をする松竹と、その社員に対しては怒りが起こります。そもそも、お正月の座長公演が、彼の人格の実質的な成長に比べて、早すぎたのです。重荷だったのです。しかし、企画が持ち上がったときに、彼本人にもそれを、断る力が無かったし、父君にも、細君にも無かったのです。それで、彼の心身の本当の要求を見極めないまま、企画が進行したのでした。記者会見を、「体調不良を、理由にキャンセルした」と言って無責任だとかいって、責め立てられています。でも、私がマネージャーと言うか、親だったら、それは、進まないように、手配をする企画でしょう。いや、今ではもう無理だとしても、パリ公演を断ると、言う形で、海老蔵君が突出をしないように手配をしたと、考えられます。いわく言いがたいのですが、記者会見をキャンセルした意味を、誰も正しく理解をしていないようなので、一人の好青年のために、擁護したくて、この二回目の筆を取っているわけです。

 一回目のブログで、それに言及したように、飲みに行ったのは、重圧からの逃避です。彼は、弱いところを抱えているという報道がありましたが、当然の話です。たとえ、歌舞伎座が、改築中とは言え、お正月の座長公演というのは、全歌舞伎界を背負って立つ立場ですから、それが不成功であった場合への恐れは、すさまじい重圧として彼にのしかかってきていたでしょう。

 ここで、一つの残念なメッセージが出ました。父君が「記者会見をキャンセルしたのに、飲みに行って、申し訳ございませんでした」と世間に対して、お詫びをしたことです。対一般大衆に向けては、それが、必要だったかも知れません。しかし、心底からそう思っていらっしゃるのなら、父君に息子の不幸の、真因があったという証明になってしまいます。そして、病室では、息子に向かって「悪かった。お前の本心を、私たちが正しく理解をしていなくて」とおっしゃらなければなりません。そして、松竹という会社に対しても、ご自分が盾となって、息子を守らないといけません。

 難しいことですが、あの記者会見はなさらなかった方がよかったです。ことを穏便に済ませようという意図が、プロの芸能記者には、見え見えだったのでしょう。それが、逆効果を生み、今週の週刊誌が、この記事でオンパレードとなってしまいました。しかも、海老蔵君側も悪いと言う趣旨で、報道の方向が定められています。

 父として、できる事は、電話だけでもよかったから、松竹へ、『正月の座長公演は、出演を辞退をさせてくださいませ』と言うことぐらいでした。先手を打っておっしゃることだったでしょう。松竹側から、降板させようという申し出でが出ている中、病室に、筋トレよう器具を持ち込んでいると報道をされれば、哀れであると他人に感じさせたり、無反省もはなはだしいともなって、さらにイメージダウンをしてしまいます。

 ともかく、松竹は座長公演に彼の出演を認めない方針にした模様です。当面はそれが正しい処置といえましょう。

 ここで、スピンオフとなりますが、私は、実は京橋で転んで顔に怪我をした事があるのです。冬の夜の七時ごろ、当時はフェンスが無かった鍛冶橋通りの中央分離帯に足を引っ掛けて、顔から地面に突入してしまい、めがねが顔に刺さって、慈恵医大で、48針も縫ったのです。傷の長さは3センチぐらいでした。ただ、脳の損傷を疑われて、68枚も脳のスキャン写真を撮られました。高さ4メートルぐらいの壁一面に展示をされた脳の写真をチラッと横目で見ながら、40分間ぐらいにわたって(もしかするとこめかみの血管をレンズで切っていたからかな?)縫合手術を受けて、そのままその夜に、電車に乗って帰ったのです。が、その途中、何度も「貧血によるショック状態」に陥りました。めまいがして、むかむかしてあげそうで、本当に苦しかったのですが、周りの人が、親切で励ましてくれたので、心理的に、助けられました。

 先ず、京橋では、意識はあるのに、立ち上がれませんでしたし。手のひらに、ぽたぽたと、流れ落ちる血を見ながら、どうしても、体が動かないのです。『あれ、このままでは、道路照明が暗い(そのころは不況に陥りたてだったので、特に暗かった)ので、私が倒れているのに、気がつかない車に、足の方をひかれちゃうわ。そうなると、大ごとで人生が台なしになるから、すぐ、立ち上がらなくてはいけない』と思うのに、どうしても、立ち上がれません。だけど、歩道に居た、親切な三人のサラリーマン(男女)が気がついて、助け起こしてくれて、救急車も呼んでくれたのです。

 海老蔵君が、大量の血を流しながら、しかもステテコで歩いていたというのに、誰も助けてあげなかったという、現在の日本の、人情の薄さに驚きます。それとともに、ともかく、そういう状態でも、救急車に逃げ込まず、自宅まで帰ってきたという海老蔵君の根性に驚きます。痛かっただろうに、ショック状態でもあった(出血が多量だと死にいたるショック状態を起こします)だろうに、よく帰ってきたと思います。『根性あるわね』と尊敬します。ディック・フランシスの小説の登場人物並みの根性です。

 私なんか、一人で転んだだけでも、相当にショックなのに、恐ろしい男たちに殴られても、助けを求めずに、自宅へ帰り着いたという、海老蔵君の意志の強さには感心します。だから、きっと、いい子なのです。巷間うわさをされているような、威張るという側面は、彼の芸術家としてのストレスの裏返しだと考えています。 

 で、その夜に彼が感じたであろう、恐怖、それから、痛みを考えると世間に対する贖罪はすんでいるとなります。しかし、事は根本的には解決していないのです。二つ、それが現れている裂け目があって、一つ目は当夜、救急車に付き添って行ったのが母君であり、奥様ではなかったと言うことです。それと、どうして、そういう不良グループと付き合ったかという謎です。一つ目は大体、理由を述べていますから、二つ目へ入ります。

 そんな危険な不良グループにどうして彼がひきつけられたかという問題ですが、多分、自分とは全く違う種類の人間だから、惹かれたのです。どこがといえば、彼らは正真正銘の、主張のできるタイプです。よい子とは、程遠い、悪い子です。でも、悪い子であることを許されているという意味では、恵まれています。海老蔵君は、本能的に、彼らと、自分との力量を測りあい、自分が勝てば、正月公演を、座長としてやりぬけると考えたのではないかしら。それを、ためしに行って、彼らに威張りまくったわけです。しかし、それらは、本能的な計算であり、自分が酔いつぶれる事によって、体力的な隙を見せてしまい、かれらに、屈辱的な写真を撮られるというようなところにまで発展をしたと、考えます。
 
 この考察は、ずいぶんと深い程度で、彼に味方をしている判断であり、推定です。
 顕在化した意識の中では、そこまでの計算は無かったかもしれませんが、本能の段階では、そこまで考え付いていたとみます。坂田藤十郎が、演技の勉強のために、人妻に恋を仕掛けたというような天才的な発想を、推定いたします。

 そう考えると、いろいろな事に整合性が出てきます。今までの人生で、選択という場面で、本当の自己主張ができなかった。そして、最後の座長正月公演という課題で、不安がいや増してしまい、かつ、その不安を誰にも打ち明けることができなかったと、考えると、総てにつじつまがあってきます。そんな彼をいじめる権利は誰にもありません。

 彼を、金儲けの道具としては、使役しないで、いっとき、解放をしてあげるのが、周囲の人間の役目です。松竹にそれができるのかな? 岡村君に療養をさせてあげた、吉本興業並みの判断ができるかな? 「海老蔵君は、海外へいきなさい」と私は主張をしたいです。「あなたはペールギュントになりなさい。今の奥様が、本当の愛の人なら、ソルヴェイグと同じく、あなたが修行を終えて帰ってくるのを待ってくれるはずです」とも。

 「そういう、見本がすでに、池端慎之介(ピーター)さんとか、山本耕史君とか、大勢居ます。で、見ならって、一人で旅立ちなさい。周辺の人たちから、金儲けの道具として使役をされる歳月を、ともかく、おやすみなさい」と、伝えたいです。かわいそうで、けなげな海老蔵くんへ。と、・・・・・では、今日はこれで、2010年12月3日、雨宮舜
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