銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

人は誰でも死んで行くのだ。どう死ぬか、それが、問題だ。

2010-12-08 14:02:53 | Weblog
 昨日、7日(火)海老蔵君の記者会見があった模様です。「事件後、二週間以内なのに、顔がきれいだったことには驚いた」と、言わせてくださいませ。私の場合は、7週間程度、あざが消えませんでした。最初の3週間は完全にお岩さん状態でした。

 ひがむわけではないが、私の場合は、健康保険を入れて、自分が支払う分が『三万円』の手術だったのに、有名人として、特別室に入院している彼には、相当に高度な手術が行われたその差だろうと、感じます。

 私はこれでも、女ですから、相当に気を使って手術をしてもらったと感じます。部分麻酔ですが、5センチ程度の裂け目の縫合に40分も掛かったのです。救急車の人が病院を探す間、車内で30分間も待たされたので、「個人クリニック(私は上手だと思って信頼しています)で、結構です。早く縫合をしないと、肉が引っ付かないから」といったのに、彼らは、個人クリニックには電話を掛けませんでした。

 こめかみというのは、肉が薄いですから、レンズが切った傷は、深く割れていたと思います。で、救急隊員は『これは、大変な怪我だ』と思ってくれたらしくて、都心の大病院へ次から次へと、電話を掛けてくれたのです。だけど、怪我がひどいので、みんなが断った可能性はあります。ウィークデイの夜の七時だったのですから、大病院はすべての人員がそろっていて、十分な臨戦態勢だったはずなのに、断られ続けました。最終的に、引き受けてくださった慈恵医大の救急病棟は、責任感が強い方の病院なのでしょう。

 脳神経外科医が責任者として縫合して、そばに整形外科医がついていてくれたのですが、整形外科医の方が、「僕が過去に経験した顔の怪我のうち、上から三番目くらいです」といわれて、その後も、顔全体のお岩さん状態が、三週間は続きました。それでも当夜入院しないで帰宅をしたのです。以前に流産に気がつかなかったケースでも、普通の生理だと誤解して一週間も自宅待機をしていたので、お医者さんにその気丈さを誤解されて、麻酔を使わないで残っている胎盤の除去手術がなされ、ショック状態に陥ってしまい、待合室の患者さんが『あの人、様子がおかしい。死にそうに見えます』とお医者さんに掛け合ってくれて、お医者さんが謝罪をしてくれたときがあります。(横須賀共済病院での話し)
 スカーレット・オハラではないが、気丈な女性は、周りから大事にしてもらえません。残念だが、そうです。私はしろウサギみたいで、一見すると気が弱そうですが、いざとなると、芯が強い方みたいです。

 五センチ大に縮小した後も、あざは合計2ヶ月は消えなかったのです。あの会見の海老蔵君どころの、話ではなかったのです。当時は、暗澹たる思いにとらわれていました。怪我の出血って、外にも流れるのですが、顔の内側でも、組織の間を伝わって流れて行き、顎までが青あざとなるのです。

 それに比べると、海老蔵君は、ほとんど何も無いので、(白目の充血は主人がよく罹るもので、時間が経てば治ります)

 『へえー、セレブ病院で威信(プラス支払いが入院費も込めて何百万円?)も掛けた手術だと、こうなるのだわ』と感慨無量でした。『外へ、傷を見せないで、内部から吸引した』という記事をどこかで見ましたから、口か鼻の中から微細なテューブを入れて、皮膚内に溜まっているうっ血を、吸い出したのだと思います。こうなると有名人は得だとなりますが、今の私はほとんど顔の怪我は気になりませんので、慈恵医大も名医だったといいたいです。「64枚ぐらいの脳のスキャン映像の現像と、48針の縫合手術をあわせて、3万円だったら安いです。ありがとうございました」とここで、いっておきたいです。海老蔵君自身については、また別の機会に。
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 昨日の私は専業主婦としては大活躍の一日でした。朝から夜まで充実していました。しかし、例のごとく、監視をされていて、敵方に注目をされている事は、しこたまといってよいほど感じました。それによってどういう影響があるかというと、書くことの内容に影響を確かに受けるのです。思い切った事を書くことが、できなくなります。分野についても相当に影響を受けます。で、創作をするものとしては、残念です。その現象そのものを書くかどうかは、迷いますが、自分を、一個の人間として、確立していくために、今日はそれを、逐一、分析させていただきましょう。

 まず、朝、9時に、日吉に住んでいる弟に電話を掛けて「本日そちらに行く」と述べました。相続のことで、ちょっとした打ち合わせがあります。で、午後二時前に自宅を出たのですが、鎌倉駅へついた途端に、前日、自分の六冊目の本をそこに、預けた新橋駅のロッカーの鍵を忘れて出てしまったことに気がついて、そのために、いったん自宅へ帰りました。それは、同窓会があるので、その場所で、本を配りたく、前日に、わざわざ会場の近所のロッカーへ本を、準備しておいたのです。何事も慎重で、ありとあらゆる意味で準備をする人間と最近はなりました。

 昔は、その場主義で、場当たり主義で、一種の横着ものと言われていたと思います。この前もパソコン教室の先生に、「川崎さんは、横着なところがあるから、どうのこうの」といわれて、『おや、おや、お若い先生でも、私が<この方は頭がよい>と見込んで、10年間も通い続けている方は、人間観察の方も鋭い。鋭いなあ』と内心で感心したり苦笑したりだったのです。が、最近の私は相当に変わってきました。これは、体力の衰えを感じている証拠でしょう。

 本当は新橋までは切符代が高いので、横浜駅構内のロッカーにそれを入れたかったのですが、こちらの目的を見透かすように、それは、撤去されていました。5日の月曜日にそれに気がついて、『あれ、APECのころにはここには、ロッカーがあって、それが、新橋駅より遅れて、封鎖をされたことで、いかに自分の行動が、監視されているかも気がついたのだけど』と思いました。

 新橋駅とは、敵が私を攻撃するためによく利用をする箇所です。昨日火曜日も、新橋駅の外壁を伝って、私にぶつかるようにして対向方向から二人の警官がやってくるのです。何も目を合わせようとはしませんが、『おや、おや、前はガードマンという形で、頻繁に目の前に現れて、こちらを脅かした(それが、効果があると敵方は思っているのでしょう)が、今度は本物の警官が来るのだわ』と思いながら、それでも、『ふん、そうなれば、どんどん、本質を書くだけですね。せっかく最近ではおとなしくしてあげていて、海老蔵君などに、話題をそらしているのに、駄目ねえ。これらの攻撃策・発案者は、本当に幼稚だ』と考えながら、烏森口へ出て、ロッカーから本を取り出し、居酒屋へ向かったのです。ロッカーは二日分で、600円掛かり、遅れればさらにお金が掛かりますから鍵を忘れる事はタブーです。
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 ところで、午後から夜までテレビを見なかった間に、小沢一郎氏が、また大きく活動をされた模様で、そこも国際的・大資本家軍団→小沢氏→警察といういつもの行動パターンの踏襲でしたが・・・・・それは、おいておいて、

 時制的に少し前に戻りますと、新橋の前に、午後4時に日吉駅へ到着しました。その間、弟には、ファックスと電話で、時間が遅れる旨を告げてあります。

 日吉駅に着くと、サンヴァリエ(旧名下田住宅)行きというバスが遅れているらしくて、なんと、40人ぐらいの人が待っています。これは、自然な現象ではありません。私が自宅の電話を使って誰かと会おうとして、なにかの、アポを取ると、必ず『邪魔してやれ。特に到着が、遅れているのなら、さらに遅らせてやれ』という意地悪をされるのは、過去に何度も経験していることですから、すぐ、対抗策を考えます。

 今、山手線と中央線を中心として、相当数の、遅延現象が日常的に起きていますが、これもそもそもは、私をいじめたり、困らせたりする事が発生源で、それをブログ等で、分析すると、『違う。本当の事故だ』といいたいらしくて、さらに、事故と遅延現象が多発するので、ちょっと、分析をやらないでいたのですが、目の前で、また、また、やられました。子供じみているが、ともかく、何でも機会があれば、どれでも利用して、いじめたいと、彼らは思っています。
 で、考えて別の路線を使うことを、選んで、そちらに乗った途端に、サンヴァリエ行きが来たのです。『ふーん。敵は、今、やってやったと、大喜びをしているところですね。210円は損となるが、やはり乗り換えるか、時間が三分得をするし』と考えて運転手さんに相談をすると、こういう際に使う切符をくれて簡単に乗換えができました。

 この日は、パソコンを持っていないのに、ここまで追跡をされるので、私をいじめているのは、革○(早稲田では、全滅されたと言われているが、一種の汚いことを請け負う集団として、いまだ闇の世界で機能をしていると考えられる)かもしれないし、警察かも知れません。

 でも、ともかく、弟の家で、用事を済ませた後で、また、バスに乗って日吉駅まで出ようとすると、東急バスの車内放送が、「不審者が見つかったら、運転手等へ、教えてください」と言う放送をします。東急を利用するときは最近は、必ず、この形で、『お前がどこにいるか、こちトラはわかっているのだよ』と言う形で脅かされます。昔は横須賀線でもやられたのですが、そちらについては、徹底的に、鎌倉春秋社の社長伊藤玄二郎氏と結びつけて、分析できますので、それを、やりぬきましたから、今は抑えているみたいです。

 しかし、この東急を利用した脅かしやら、嫌がらせも、突き詰めてみると、上記の伊藤玄二郎氏に決定的に結びつくのです。2008年の初春に、この山で、町内会の回覧板がまわされて、その中に、『不審者が居たら、通告をしてください』という文言がありました。この山は、非常に静かなところで、ありえない発想の回覧板です。が、その当時は、敵方は私を見くびりきっていて、やりたい放題だったのです。と、同時に、自らに対する負い目もありました。2007年の春から、彼らがやりぬいた悪行を全部、集めれば、それこそ、こちらは、5億円から20億円の損害となります。それを法治国家としての日本の明るみに出せば、やはり、伊藤玄二郎氏と、その裏で、アイデアを提供した、井上ひさし氏は、その表向きの社会的な、評価が失墜する事が確かです。

 だから、必死になって、イジメてくるわけです。その案件は、詳しく書けば、一万件を越えると感じます。つまり、CIA側が私を抑圧する道具として、利用してきた石川和子女子がわがまますぎたために、猫のことで、ばかげた形で警官を呼び、その警官がまた、ばかげたことをやった(山の上なのに、無辜の人間たる私を脅かすために、交通事故の調書をとった)のを、糊塗するために、次から次へとばかげた策動を繰り返し、また、それを、私に見破られて、次から次へと書かれる訳なので、まあ、いたちごっことはいえますが、苛め抜いてきているわけです。

 この騒動やら、全体像については、まだ、三の一も書いてはおりません。『その続きを書いてもいいし、書かなくてもいいし』とは思っていました。むしろ、書かないでいる方が『こちらが高度である』という事と、天はごらんになると思いますが、弟の家(それは、私が育った家でもある)へさえ、自由には行かれないという、こんな人権侵害は無いから、それを防衛するためには、いきさつをさらに書かないと駄目でしょう。そういう形で、言論弾圧をしてくるのです。それ以外は、方法がないからでしょう。私は有名人でもないので、植草教授や、ウィキリークスのアサンジュ氏に対するような、一種の別件逮捕等は応用できないからです。
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 さて、私は7日の火曜日には、朝の九時から、その攻撃やら損失をわきまえながら、暮らしぬきました。『自宅の電話を使えば、自分にとって、損な、何かが起きる』とは覚悟の上で、行動をしました。というのも、夜の六時半から、クラス会がある。そこで、弟の家近辺で起きたこと以上の出来事が起きるだろうと感じていました。お知らせがメールで来ましたからね。敵は、私がそこへ出席をするのを知っているわけです。

 『何が罠として用意されているのだろう』と、覚悟を持って考えながら、そこへ向かっているわけですから、有楽町から新橋までの間に、機動隊の灰色のバスとすれ違っても『ふん、ふん』と平気でした。これも、よくやられる手なのです。鎌倉の覚園寺で、樋口恵子さんの講演会(それは、おはがきで樋口さんご自身からご案内を頂いたので、郵便チェックで敵は知っているわけですが)を聴いた後で、鎌倉の山すそを縫って歩いて家へ帰る途中、幅が、3メートルも無い狭い道路(清泉小学校のあたり)で、この機動隊用バスとすれ違った時から、『は、ハーン。そういうわけですか?』とはっきり認識している私用・イジメツールです。

 が、もちろん、ストレスは果てしが無いです。クラス会とは、最も楽しい場所のはずです。そこへ行く際に、覚悟をして向かわなければならないなんて、不幸のきわみです。だけど、『私って不幸せだなあ』と思わせ、ノイローゼにさせていくのが敵方のやり口だとすでにわかっていますから、鈍感そのものを、身にまとわせて、そこへ、向かいます。

 しかしね。もし、何かの罠に気がついたときは、とっさの判断で切り抜ける必要があるので、鈍感、100%でもいられないのです。2007年からの三年間は、毎日が、綱渡りの連続です。そして、最近ではクラス会に限らず、あらゆる場所で、そういう憂き目に会いますから、鈍感と敏感のすさまじい混合状態で生きています。

 罠とは、『必ず、こちらが怒ってしまう』ような設定で、企画をされています。だから、そこで私が、ぶち切れてしまったら、総ては終わりです。あとあとまで、悪口を言われるでしょう。だから、どんな失礼なことをされても、深いレベルで我慢をすることを覚えました。ただし、人間ですから、万能じゃあないです。全部はこなせないです。だから、罠として一度でも、使われた人には、以降、注意して接触するし、もし、イジメが耐えられなかったら、そこへ、出向かないことには、しています。

 ただ、そういう風に用心していたら、ありと、あらゆる機会を失ってしまいます。よいものにも接触ができません。だから、すれすれのところで、妥協をしながら、できる限りチャンスを生かそうとは思っています。
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 で、クラス会の会場たる居酒屋に入りながら、『決して、はしゃがないこと』と自らに命令しておきます。さて、みんな優秀な人たちなので、スピーチをすることが用意されています。

 私が卒業した学校は、小学校、中学校、高校、大学全部を含めて、少人数制の学校ばかりで、しかも優秀な人材が多いところなので、私の前の五人が、立派な、最近の日常を報告をしました。さて、6人目としての私です。どんなことを言うか、一切を事前には準備していません。

 この『準備をしていない』ということすら、私にとっては悲しいことなのです。私はひたすら前向きな人でした。あらゆるチャンスを捉えて、自分を芸術家として売り込むべきだと考えていました。創作は大切です。が、アーチストは、生前に大勢の人に、その作品が知られていないと、死後も復活ができません。

 不幸な死に方をして遺骨の存在すらわかっていないモーツァルトだって、生前に演奏会やら、オペラの公演をやっていて、楽譜が残っていたので、今、復活しているわけです。

 だから、少しでも、自分を売り込んでおく事は、7回も個展をやった人間としての私の当然の義務でもあります。「自己顕示欲が強い」とおっしゃる方もあるが、そういう批判は気にしません。で以前は、事前に歌を準備していました。美術が専門ですが、かさばる形での、絵や版画を、居酒屋やレストランへ持ち込むわけにも行かないでしょう。だから、短い時間で、印象を強く与える手段として選んだのが、お歌です。大体曲目を朝から選んでおいて、一時間前くらいから、歩きながら音を取ったりメロディを確かめたりします。だから、昨日だったら、有楽町から、新橋に掛けて、歩きながら、うたって準備していたはずです。

 しかし、この三年のイジメ、特に最近鎌倉で見聞きした現象を考え合わせると、もう、そんな気分ではないです。そこまでの深い程度で、敵にやられて居ます。で、お歌も準備していなければ、スピーチの内容も準備してはありませんでした。

 で、脈絡の無いことではありますが、以下のようなことを話し始めました。『私は、仕事も無ければ、肩書きも収入も無い人間です。(これは、前の五人が現代社会における勝ち組だったので、申し開き気味の前置きです)

 だけど、幸いに父から遺産をもらい、それで、活動をしてきました。ただ、それを使い切ってしまい、貧乏だ、貧乏だとここ数年、言い続けてきました。ところが、幸いな事に、また、母から遺産を貰いました。
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 ここですが、読者の皆様に向けてお断りをしたい点があります。「能天気な言い草だと誤解を受け、嫌われることを覚悟して、表現している」と申させてくださいませ。このごろでは、このブログの世界で、人気を得ることは、捨てております。主題をより深く説明する事が最優先です。

 そして、ここで、最もいいたいことは、・・・・・この世は、理性と計画だけで動いているわけではない・・・・・ということです。私は、今では、聖書の中にある言葉『天の鳥を見よ。野の花を見よ』という言葉は真実だと思っています。

 お金の事は大変な心配事でもあります。ないと駄目です。ある程度は無いと駄目です。安心して暮らすためには、流れ入る収入がないと駄目です。貯金があっても駄目だと感じています。人間は弱いですから、将来を見越してお金を使うということには、不得手です。年金が二月に一回入ってくるでもよいが、給料の形で、流入するお金があると最高です。でも、それが数十年にわたり、無かった私です。

 が、必死になって、やれる事はやってきました。それに対して、天というか、神様が報いてくださっていると感じます。父の遺産も母の遺産も、私が日々重ねている労働へ対する、天からのお給料だと感じています。

 ただ、ここにいたる道程については、大変でした。家族や親族から誤解をされたり反対されたり、軽蔑されたりしました。でも、どこかで、『これは正しいことなのだ』と信じて、突っ走ってきました。

 1998年から、2000年に掛けて、夫や子供を放ったらかしにして、海外武者修行に出かけていました。その海外行きの自由を得るために、日本にいるときも一人暮らしをしていました。これってものすごいわがままなことです。確かに、身近な人からこそ、批判をされています。夫と、子供が一番批判をしているでしょう。でも、『あれが私にとっては必要だった』と言う思いに、10年過ぎても、変りありません。

 『あれがあったから、現在の心の安定もあるし、将来も、脳は大丈夫だろう。認知症にはならないだろう』と考えています。

 ここで、余談となりますが、今、ハイソなご家庭で、認知症が頻発をしているのをご存知でしたか。みなさん、『家庭内の不幸は、外へ漏らさない』というたしなみがあるので、社会現象としては、まだ、捉えられていませんが、いわゆる上流の下とか、中流の上のご家庭で、現在70歳代以上の奥様の中に、認知症を発症をして、家事もできないし、あまつさえ、ご主人に暴力を振るうケースもあるのです。説得も効かないし、大変なのです。『折り梅』という自主上映・映画があるそうで、その監督は折り梅の成功の上で「レオニー」という新作を作られましたが、認知症の事は、はずしてはならない、老人問題の一つです。統計として世に出ている以上に、それに、困っているご家庭があるでしょう。
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 で、余談からもとへ戻ると、私にとって、アーチストとして活動する海外修行はすばらしい経験で、2003年ごろから、2008年ごろまでは、餓え渇くような思いで、『それが継続できる潤沢な資金があったら、よいなあ』と考えていました。若いとき、三十代なら、海老蔵君にそれを勧めたように、自分ひとりの力で道を開く可能性もあります。が、60を越えた女性が、海外で、一人で、暮らそうと思えば、先立つものはお金です。安全を確保するためにはお金が必要です。

 でも、2008年ごろから考えを変えたのです。『駄目だ。もう海外へ行って修行をする事は不可能だ』と思い定め、方向転換を図り、ブログをはじめたり、そのブログで、1万字を越えるものを書いたり、現代政治を分析したりする事となりました。体力は無い方ですが、気力は充実している方だと思いますから、何事でもはじめたら、凝るほうです。

 さて、そういう進路の変更に関して、母の死を考えなかったといえば、嘘になるでしょう。母からいくばくかの遺産がもらえる事は、父の死以来、30年近くにわたって知っていました。でも、それを当てにして、銀行やら、どこやらから、お金を借りて、その海外修を続けるかどうかですが、『それは危ない』と感じました。で、もう挑戦は止めると決めた、後での、母からの遺産の話です。
 ここは不思議な矛盾です。でも、夫や子供にとっては、私が冒険を諦めた後で遺産を貰った事がラッキーだとなるでしょう。だから、これも天の采配かなあ?

 さあ、ここで考えを変えるかどうか変えないかです。2003年ごろの心構えから考えれば、ここは、すぐニューヨークへ向けて、飛び立つはずです。で、ここから先の考察は、昨日(火)の居酒屋でのスピーチへの情景へ戻らせて頂き、そこでのスピーチの報告という形で、書かせてくださいませ。
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 「私は、ここで、このお金を使って、打って出るかどうかを考えたときに、今、68歳なので、もう、それは止めて、そのお金を、これから、先、死ぬまで、どうやって生きて行くかに、使うことにしました」と述べたのです。すると、どこやらから、「それが、みんなが、考えていることなんだよ」と暖かい野次が飛びました。

 その途端です。朝からずっと感じ続けていた緊張が解けました。おもいがけずも、スピーチが受けたと感じましたので。望外の喜びというやつです。計算外の効果が上がってうれしかったですよ。

 確かに、母のように安全に死を迎えて(老人ホームに入ってから六年後であったが)、さらにその後、安全に納骨をしてもらうためには、年金以外の現金として、(預貯金という形でもいいが)一千万円は必要だと思いました。年金があっての話です。だから、夫婦二人が、安全な死を迎えるためには、一家庭に二千万円は、動産が必要だと言う事となります。

 その前に、癌などで手術をする必要があれば、その費用が掛かります。
 今まで、日本人は普通ですと、こどもの学費と、住宅ローンのことだけを考えていればよかったはずですが、いつの間にやら、老後、死んでいくまでの歳月のお金の事が大問題となってきたのです。これは、20年ぐらい前には、まだ、予測もされなかった事態でしょう。

 病気や事故で若くして死亡する人を除けば、老衰なら、90を超えて死ぬケースがざらなのです。で、死へ向かう準備には大金が掛かる時代となりました。

 このクラス会においては、もうひとつ大いなる感慨があったのです。それは、ここで初めて中野君(元朝日新聞記者)の死を知ったことです。
 それこそ、今日のタイトルに『死』を、使ったゆえんです。華やかな会の間中、通奏低音として、さまざまな思いに打たれていました。

 それは、深く、考えさせられるきっかけだったのですが、今、八千字近くになったので、それは、別稿として書かせていただくか、明日この文章の推敲案として、前の方を削ってそれを付与するかにさせてくださいませ。

  では、今日はこれで。2010年12月8日       雨宮舜(川崎千恵子)
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