朝6時。快晴。外気温3度。ちょうど中央アルプスが朝日に赤く染まっていた。今日は村民運動会だったけど、部活動に出掛ける子どもを隣町のJRの駅まで送って、そのまま会場に行くと、ちょっと早いので、天気も良いし、思い立って隣村の陣馬形山に寄り道をする。すごく展望の良いところだとは聞いていたけど、本当に素晴らしかった。
西を見ると、中央アルプスと伊那谷が、辰野あたりから飯田まで遮るものなくずっと見渡せる。東を見ると、南アルプスが鋸岳から聖岳まで見える。まさに360度の大展望。望遠鏡も据えてあって、中央アルプスの紅葉の様子や千畳敷のホテルの建物までよく見える。しいていえば、鉄塔が気にはなるけど、山に雪がある季節にぜひまた来てみたいと思った。
ただ、小渋線の途中の四徳から行ったら、途中からすごくがたがたの未鋪裝路で、帰りは道を間違って別の道を下りたら、ずっと舗装道路だった。未鋪裝路を走ること自体は、うちの前の村道も前は未鋪裝路だったから、結構慣れている方だと思っていたけど、つい先日も近所の未鋪裝路で腹をすって、パーツがゆがんでしまったばかり。やはりあまり通りたい道ではない。今度は舗装道路の方から行こうと思った。
西を見ると、中央アルプスと伊那谷が、辰野あたりから飯田まで遮るものなくずっと見渡せる。東を見ると、南アルプスが鋸岳から聖岳まで見える。まさに360度の大展望。望遠鏡も据えてあって、中央アルプスの紅葉の様子や千畳敷のホテルの建物までよく見える。しいていえば、鉄塔が気にはなるけど、山に雪がある季節にぜひまた来てみたいと思った。
ただ、小渋線の途中の四徳から行ったら、途中からすごくがたがたの未鋪裝路で、帰りは道を間違って別の道を下りたら、ずっと舗装道路だった。未鋪裝路を走ること自体は、うちの前の村道も前は未鋪裝路だったから、結構慣れている方だと思っていたけど、つい先日も近所の未鋪裝路で腹をすって、パーツがゆがんでしまったばかり。やはりあまり通りたい道ではない。今度は舗装道路の方から行こうと思った。
お書きになっていらっしゃる上伊那と下伊那の分離というのは、外から来た人間にとっては本当に不可解な世界です。「南信」というときには諏訪まで入るのに、「南信州」というと飯田・下伊那地方なのも訳が分からない。「飯伊」というのも飯田・下伊那ですよね。
今調べたら、合併前の上片桐村は上伊那だったのですね。
①南信というのは長野県内を大きく区切って捉えるさいに使われてきたもので、県の行政にかかわった枠組みでしょう。
②本来飯田市下伊那は「飯伊」と言っていた。南信州という言葉を使った最初は地ビールの「南信州」ビールではないでしょうか。ようは飯田下伊那のことを指したわけではなかった。農協合併によってメジャー化してきた名称です。あまりに飯田下伊那を指していうようになって、この名称を広域的に使うのは既に抵抗のある人も出てきているのではないでしょうか。でも今でも伊那谷全体を言うケースもあります。
③もともとは伊那谷は伊那郡だった。明治になって治めにくいといって分離された。明治17年まで南向村や七久保村は郡界変更申請をしていた。さかのぼれば分離されて間もないころは飯島村まで郡の変更を願い出ていた。
④今でこそ上伊那の方が人口が多いが、昔は下井の方が人口が多く、北上するほどに「奥」といって飯田の人たちは馬鹿にしていた。
とまあ、歴史が今の現状を生んでいます。
②については、いつからということは特に意識したことはありませんでしたが、言われてみれば確かに農協合併あたりから頻繁に耳にするようになっている気がします。いずれにしても、外の地域から見ると、「南信」と「南信州」のずれは非常に分かりにくいように思います。
③もともと伊那谷が一つの郡だったのですね。なるほど。
④人の流れが北に向いてしまっているために、よけいに飯田の人たちにとっては、何とか南信の中心都市の地位を維持したいという思いが強いのかもしれませんね。
いろいろお教えいただき、ありがとうございました。