おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

自分というプレッシャー

2017-03-22 12:59:53 | 福島

 3月20日で、地下鉄サリン事件から22年が経った。当時僕は、事件直前まで地下鉄丸ノ内線を利用していたが、仕事を変えたおかげで直接事件に遭遇することはなかった。地下鉄は3分に一本は出ているから、丸ノ内線に乗っていたからと言って事件に遭うとは限らないが、ちょうど通勤時間帯だったことを考えれば危なかったと言えるかもしれない。

 仕事場が永田町から新宿に変わり、その頃僕は病院でアルバイトをしていたが、事件発生と同時に病院内にサリンの扱いに関するチラシが配布され、被害者を収容するかもしれないと緊張が走った。僕はそれまでの報道から、オウム真理教が起こしたテロに違いないと確信していた。事件は教祖の逮捕により明るみになったが、未だにサリンの後遺症に苦しめられる被害者を思うと、人生なんていつどこで何が起こるかまったくわからない、としか言いようがないんだと強く感じる。

 事件に関与した人間の中には、今では若者に安易に宗教に頼る怖さを伝える活動をしている人もいる。そういう人の話を聞くと、神を信じる怖さとは、自己判断をすべて神に委ねてしまうことだと言う。神の御心は人間にはわからない。「神様はどうしてこんなことをされたのだろう」と考えても、最後は自分が至らないために神の御意思がわからないのだ、と考えるようになる。ついには、妄信的に言われるがまま行動するようになる。オウム真理教では、その御意思なるものがテロリズムだったのだ。

 自己判断を委ねるということで言えば、星占いや手相などにハマっているのも同じことだ。また、誰かの知恵を借りたり助言を求めると言うのも、ある種の自己判断の放棄と言えるかもしれない。人は自由に憧れるが、自由の代価は大きく、精神的なプレッシャーは重い。何かの拍子に弱ってくると、自由を放棄したくなるのも人間の習性だ。

 昔からそういうことを独裁者やカルトの教祖はよく知っていて、必ず利用してきたのである。

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