夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

欽ちゃん、自宅で転倒し救急搬送、翌日YouTubeに1時間出演!、私は学び、恐れ入りました、と呟き・・。

2021-11-15 14:06:25 | 喜寿の頃からの思い

先程、ときおり愛読している公式サイトの【 日刊ゲンダイデジタル 】を見ている中で、
『 欽ちゃん「80歳の挑戦」どこまでやるの? 
      自宅で転倒し救急搬送、翌日YouTubeに1時間出演! 』、

と題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む年金生活の無力な77歳の身であるが、
何かとお笑いの世界の御方は苦手であるが、長年活躍されている萩本欽一さんは、
30数年前にテレビの番組で視聴した程度であるが、
未だに第一線でご活躍らしく、思わず記事を精読してしまった・・。

この記事は、【 日刊ゲンダイデジタル 】に於いて、11月15日に配信され、
無断であるが、記事を転載させて頂く。

《・・

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。 
 
 

今回、長年第一線で活躍されている萩本欽一さんが、
自宅で転倒し救急搬送、翌日YouTubeに1時間出演!、
と私は学びながら、80歳の御高齢なのに、恐れ入りました、と呟(つぶ)やいたりした・・。

この記事に記載されていた88歳の仲代達矢さんは、
《・・主演舞台「左の腕」の巡演を石川・能登でスタート。
「我々、演劇人は作品を作り続けなければいけない」と衰え知らずの情熱を見せている・・ 》

こうしたことを学び、私は驚きながら、恐れ入りました、と思いを重ねたりした。



私は都心の郊外の調布市に雑木が多い小庭の中で、古惚けた戸建に住んでいる。
そして近くに生家があり、1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受けた。

こうした中、この頃に生家にある本と云えば、農協の発刊する月刊誌の『家の光』ぐらい記憶にない。

やがて小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
居間にある書棚に本が並んでいたを見た時は、私は少年心でも、眩暈(めまい)を感じたりした。
                                   
こうした中で、私は1955年(昭和30年)の小学4年生の頃から、
独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
やがて都心の高校に入学した直後から、遅ればせながら授業は楽しく感じて、
読書の魅力にも取りつかれたりした。

こうした中、新潮文庫本、岩波文庫本を中核に読み、ときおり単行本を購読したのであるが、
創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。

こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞し、
映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、付随しているシナリオを読んだりしていた。

こうした中で、脚本家の橋本忍さんの『切腹』(主演・仲代達矢)を脚色された作品
(原作・滝口康彦、監督・小林正樹、1962年)を観て、圧倒的に感銘させられ、
やがて東京オリンピックが開催された大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。

                                                           

やがて専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、数多くの作品を映画館で鑑賞しながら、シナリオの習作をした。

その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を喰(た)べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。

この当時の私は、中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいの文学全集を読んでいたが
その後に講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた全22巻の文学全集を精読したりした。
こうした中で、純文学の月刊誌の『新潮』、『文學界』、『群像』を愛読していた。

或いは中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりしていた。

やがて私は契約社員の警備員などをしながら、生活費の確保と空き時間を活用して、
文学青年のような真似事をして、この間、純文学の新人賞にめざして、習作していた。
                      
しかし大学時代の同期の多くは、大学を卒業して、社会人として羽ばたいて活躍を始めているらしく、
世の中をまぶしくも感じながら、劣等感を秘めて私の方からは連絡も避けていた。

そして私はこの世から取り残されている、と思いながら、
明日の見えない生活をしながら、苦悶したりしていた。

こうした中で確固たる根拠もなかったが、独創性はあると思いながら小説の習作したりし、
純文学の新人コンクールに応募したりしたが、当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、
こうしたことを三回ばかり繰り返し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

こうした時、私の実家で、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤された。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向を決意した。

             
                                              

そして大手の企業に何とか中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
          
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部の大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられ、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。

そして最後の5年半は、リストラ烈風が加速される中、あえなく出向となったり、
何とか2004年(平成16年)の秋に定年を迎えることができたので、
敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。

このような定年退職するまでのつたない半生記であり、
もとより長年、その世界で第一線で活躍することは、突出した才能と努力、英知、
そしてたゆまぬ気力で、成し得ると思い深めているので、
ただ恐れ入りました・・と私は思い深めたりしている。
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健康長寿に導く「コーヒー」、肝機能改善、糖尿病の予防に良い飲み物、77歳の私は学び、微笑み・・。

2021-11-14 14:10:09 | 喜寿の頃からの思い

先程、ヤフージャパンより配信されたニュースを見ている中、
『 健康長寿に導く「コーヒー」習慣。
      肝機能改善、糖尿病の予防...健康ドリンクとして注目 』、
と題された見出しを見たりした。

こうした中、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフの私なりの健康体の三種の神器として思い、年金生活を丸17年を過ごしてきた。

そして体力の衰えた私でも、何かと健康に関して学びたく、
《・・健康長寿に導く「コーヒー」習慣・・》って、
どのようなことですか・・と思いながら、記事を読んだりした。



この記事は、【 毎日が発見ネット 】に於いて、11月14日に配信され、
無断であるが、記事を転載させて頂く。

《・・・

毎日が発見ネット

健康長寿に導く「コーヒー」習慣。肝機能改善、糖尿病の予防...健康ドリンクとして注目


近年、コーヒーは健康ドリンクとしての側面に注目が集まり、高く評価されています。

また長引く自粛生活で、「おうちでおいしいコーヒーを飲みたい」という方も増加中。
コーヒーの香りは、さまざまな緊張から、ホッと心身を緩めてくれる効果も期待できます。




☆意外とスゴい!! コーヒーの健康効果

コーヒー好きが高じて、医師としてコーヒーの健康効果に注目。

最新科学に基づいた著書も出版する北品川藤クリニックの院長・石原藤樹先生に
コーヒーの高い健康効果についてお聞きしました。



☆コーヒーは健康長寿に導く

「健康に良いといわれる食品は数々ありますが、
おそらくコーヒーほど、膨大な人数での健康調査が行われているものはないでしょう」と石原先生。

2012年、アメリカの権威ある医学誌(※)に40万人以上の健康調査において、
コーヒーの摂取量と生命予後の関連を分析した論文が掲載されました。

1日6杯以上コーヒーを飲む人は男性で10%、女性で15%、
飲まない人に比べて、有意に総死亡リスクが低下、
心臓病や脳卒中、糖尿病、感染症などによる死亡リスクも飲む人で
低下していることが認められました。

世界的な大規模調査で、コーヒーが寿命を延ばす健康ドリンクであると分かってきたのです。

「以前から私自身の5000人ほどの患者さんへの聞き取りで、
1日3杯以上コーヒーを飲む人は、糖尿病になるリスクが、減少することが分かっていました。

ただ、この大規模調査は衝撃で、ここをターニングポイントに
それまでの "健康に良くない"というコーヒーのイメージが激変しました」


石原先生は「コーヒーは嗜好品ですが、多くの病気を予防する強力な働きがある」と断言します。

その後もさまざまなコーヒーの健康効果が発表されています。

「コーヒーが含む特定の物質が体に良い、何々に効くというような単純なものではなく、
コーヒーという飲み物が、複合的に健康長寿に貢献してくれるというのが
現在分かっていることです。

カフェインも体内では、すぐに代謝され、代謝物が良い働きをすることもあります。
これからは何が健康に良いのかなど、特定物質についても解明されていくと思われます」

※「ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」



【coffee 1】クロロゲン酸が豊富


コーヒーの代表的な成分が、クロロゲン酸というポリフェノールです。

ポリフェノールは、植物が自らを酸化から守るためにつくり出している物質で、
クロロゲン酸は、動脈硬化や炎症を抑えることが分かっています。

コーヒーは特に含有量が高く、日本人が摂取するポリフェノールの半量は
コーヒーから摂っているともいわれています。


【coffee 2】血糖値を改善

最も多くの研究で確認されているのが、糖尿病の予防効果です。

一例ですが、110万人以上のデータを解析して、
2014年に糖尿病の専門誌に発表された論文では、
コーヒーをたくさん飲む人ほど、糖尿病になるリスクが低下していました。

クロロゲン酸は、食後血糖値を低下させる働きがあるので、
食前にコーヒーを飲むのが効果的です。


【coffee 3】1日3~4杯がおすすめ

これまでの世界中の調査から、糖尿病だけに限っていえば、
多く飲む方がリスクを軽減できたという結果が得られていますが、
その他の病気なども含めると1日3~4杯のコーヒーが
最も健康への効果を得やすく、総死亡リスクを減らします。

また、カフェインレスのコーヒーでも、健康効果は同じように得られます。



【coffee 4】肝機能を改善する

コーヒーに肝機能の数値を改善する効果があることは、すでに1986年から報告されています。

その後の研究でも、1日3杯のコーヒーを飲むことで、
B型肝炎、C型肝炎、非アルコール性脂肪性肝疾患、アルコール性肝機能障害、肝硬変といった、
ほとんどの慢性肝臓病の予防、改善効果が認められています。


【coffee 5】脳へも働きかける

以前から、コーヒーをたくさん飲む人に、パーキンソン病が少ないことが報告されてきました。

他にも認知症の予防効果や脳卒中のリスクを減らすといった論文もあります。

コーヒーには、生理活性物質だけで100以上の物質が含まれています。

さまざまな物質が、複合的に健康長寿に働きかけているようです。


【coffee 6】紙フィルターが〇

レギュラーコーヒーは、紙フィルターやサイフォン、カフェプレスなど
さまざまな入れ方がありますが、風味は別として健康効果の点からは
紙フィルターで抽出するのがおすすめです。

コーヒーが含むジテルペン等の油分は、少ないながら体には良くない成分で、
紙フィルターは、それらを取り除くことができます。


☆《インスタントコーヒーについて》

クロロゲン酸やカフェインといった健康効果は、
インスタントコーヒーも、ほとんど同じで大差はありません。

インスタントコーヒーは、約140mlのお湯に、
小さじ1杯のコーヒーが、カップ1杯分を入れるときの目安です。
カフェオレもおいしくできますが、少し濃いめに入れるのがコツです。

取材・文/石井美佐 撮影/吉田篤史  ・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。 

 
 
私は2年前の75歳の頃、知人よりコーヒーは健康に良い飲み物、
と教わってきたが、本当かしら、微苦笑したりした・・。

しかしながら1カ月前、書物で少し学び、
今回、1日3杯のコーヒーを飲むことで、肝機能改善、糖尿病の予防など、
健康に良い飲み物・・遅ればせながら判明させられたりした。

私はこの寒い時節の日常生活の飲み物は、
煎茶が大好きで、お寿司屋さんから頂いた大きめの湯飲み茶碗ふたつに淹れ、
そしてインスタント・コーヒーのゴールド・ブレンドをマグカップに、
お盆に載せて、居間にある机の近くに置き、愛飲している。

熱い季節には、冷蔵庫で冷やした煎茶をこよなく愛飲して、
インスタント・コーヒーもアイスコーヒーとして飲み、
ここ30数年習性のように頂いている・・。

このような平素の飲み物であり、若い30代の頃は、煎茶よりコーヒーの方が多かったが、
今や煎茶の方が圧倒的に多いのが実態となっている。

今回、健康長寿に導く「コーヒー」を学び、これからコーヒーを意識して、
1日3杯以上を飲み、健康寿命の延長戦にしょう、と微笑んだりしている。
コメント (2)
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認知症進行予防のコツは「不安感の除去」と「成功体験の誘導」、77歳の私は学び、多々教示させられて・・。

2021-11-13 15:10:28 | 喜寿の頃からの思い

先程、ときおり愛読している【 マネーの達人 】を見ていたら、
【 認知症進行予防のコツは「不安感の除去」と「成功体験の誘導」
           必要な介護費用も知っておこう 】、
と題された見出しを見たりした。

 
私は東京の調布市に住む年金生活の76歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
そして私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。
 
こうした中、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフの私なりの健康体の三種の神器として思い、年金生活を丸17年を過ごしてきた。

そして私は何よりも認知症、心筋梗塞など恐れ、
殆ど毎日のように自宅の周辺3キロ範囲にある遊歩道、公園、住宅街を歩き、
ときおり認知症だけは勘弁してねぇ・・と秘かに祈願しながら歩く時もある。


 
こうした心情を秘めている私は、
《・・認知症進行予防のコツは「不安感の除去」と「成功体験の誘導」・・》って、
どのようなことなのですか・・と思いながら、記事を読んでしまった。

この記事は、介護の世界に精通された第一人者の佐々木政子さんの寄稿文であり、
【 マネーの達人 】の『介護』に於いて、11月4日に配信され、
無断であるが、記事を転載させて頂く。

《・・
親が高齢になってくると心配なのが、認知症の発症です。

認知症にもさまざまな種類がありますが、程度によって目が離せないという時期もあります。

認知症にならないように、認知症予防のための習慣なども注目されている理由には、
認知症を発症してからの介護を見据えてのことも大いにあります。

そこで今回は、認知症と診断されても慌てないように、
認知症介護に必要な介護費用についてスポットをあてていきます。



☆認知症介護必要なお金は?

家族が認知症になり、介護が必要になると、お金がかかり、生活費に響いてきます。

金銭面の負担だけではなく、家族の労力という面でも、
介護休暇だけでは、在宅介護を支えることは難しくなるとも考えられます。

介護保険の介護サービスを限度額ギリギリまで利用することや
介護のために家族が転職や離職を余儀なくされるケースもあります。

認知症によって介護が必要になると、
どのようなことにお金がかかるのかを整理しておきましょう。

〇デイサービスやショートステイなどの介護保険サービスの利用

〇おむつや福祉用品などの日用品

〇ランニングコストの増加(水道光熱費)

〇家族介護にかかるガソリン代や交通費負担

〇その他

・ 介護離職や休暇取得が多くなる

・ 常時の見守り、付き添いという人手が必要になることの係る出費

・ 医療機関受診回数が増加

・ 服薬治療、服薬調整が細やかに必要になる

ランニングコスト(水道光熱費)や交通費などは、
お住まいの地域によっても大きく差がでるところですが、
介護費用として見落としがちになるポイントでもあります。

介護保険の介護サービス費用のほかにも、
家計には少なからず影響は及ぶということが考えられます。

介護する家族が、介護離職とならないように、
ここに挙げた費用を見込んで、今からできることは、
少しづつ準備しておくことをおすすめします。

☆認知症を進行させないコツ

いざという時に、少しでも家族の介護負担を軽減でき、節約できる暮らしをするためには、
普段から認知症予防を実践し、1日でも介護を必要としない日が、長くなることを目指しましょう

今、介護を必要としている状況にある方も、
これ以上認知症が進行せず、介護度が重くならないということが重要です。

認知症予防の本や実践できるドリル、リハビリ用具などさまざまありますが、
ここではお金をかけずにできる認知症進行予防のコツをお伝えします。

認知症の方や高齢者の方は、身体的な衰えや物忘れによって、
「今までできていたことができない」
「何かが違う」
という感覚から、不安感や喪失感を持ってしまいます。

そこで『不安感の除去と成功体験の誘導』という考え方で接するというコツがあります。



☆不安感の除去と成功体験の誘導☆

不安の除去は、認知症介護では鉄則です。

認知症の診断がついていなくても高齢者の方に安心感や、
「できる」という感覚を持ってもらうことは、認知症予防につながります。

具体的な接し方を2つご紹介します。

(1) 今までできてきたことが継続できるための手助け

   例)膝痛のため仏壇の水を取り替える日課が難しくなってきたとき。   
      → お盆をのせることができるタイプの歩行器を利用して、
       日課が継続できるように配慮する。

(2) 失敗しないような先回り支援

例)受け答えがうまく出来なくなっている方、誕生日はいつか、
  年齢は何歳かなどについて思い出すことができない場合。(※認定調査などの場面以外)

     → そばにいる人が「昭和・・・」まで声がけをしてあげると、
      続きを流れで、正確に答えられることがあります。

いずれの場合も「できる」ということを周囲が褒める、
認めるという態度で接するのが効果的です。

声掛けが大切


☆家族だからできる応用編☆

安心感や満足感、さらには役割を得ることで
認知症の方の「戸惑い」や「混乱」が打ち消され、
症状として出ている徘徊や聞き返しなどが、おさまる効果が期待できます

 

これらの関り方の手法は、慣れてくるとさまざまなシチュエーションで活用できます。

・ 洗濯物を畳む際に手順をさりげなく見せてみる

   → 模倣により「畳むことができる」

・ 箸の他にフォークも添えてみる

   → 見て自分で道具を選択「食べることができる」

・料理の味付けを聞く、手伝ってもらう

   → 教える「家族の役に立つ、自分の存在意義の確認」

家族だからできる、さりげない支援こそが、効果的で持続可能な認知症予防になります。



☆0円介護を目標に

認知症介護が必要になっても、必要な介護費用を知っておくことは
大きな安心感につながります。

また、ちょっといつもと違うかなと感じたときは
早めに「物忘れ外来」や主治医の先生に相談するようにしましょう。

本人の受診が難しい場合には、お近くの介護の窓口に相談することも有効です。

初めはどうしてよいかわからないのが、認知症介護です。

これからの認知症介護の道しるべとなってくれることでしょう。

介護保険を使って介護サービスを利用する以外にも、
家族にできる0円介護に目を向けて、介護費用節約を心がけていきましょう。

         (執筆者:現役老人ホーム施設長 佐々木 政子)‥ 》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。 
 
 

今回、介護の世界に精通された第一人者の佐々木政子さんの寄稿文に導かれて、
特に《・・認知症進行予防のコツは「不安感の除去」と「成功体験の誘導」・・》、
私にとっては未知の世界であったが、懇切丁寧に綴られた寄稿文を読み、多々教示された・・。

果たして、いつの日にか認知症に遭遇するかもしれないが、
もしも家内が認知症の初期になってしまい、私が気付いたら、
今回学んだ進行予防のコツは「不安感の除去」と「成功体験の誘導」、
ひとつひとつ思い浮かべて実践するのが、夫の私は役目だ、と思い深めたりしている。
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改めて瀬戸内寂聴さんの御著作から、つたない私でも、教示された人生の格言は・・。

2021-11-12 11:25:07 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の77歳の身であるが、
作家・瀬戸内寂聴さんが御逝去されたと昨日の夕方、テレビのニュースで知ったりした・・。

そして私は、瀬戸内寂聴さんを一言で表現すれば、
情念の人・・だったと思い深めたりした・・。

私は瀬戸内寂聴さんより、あまたの御著作から少し読んだりしてきて、
教示されたことがあったなぁ・・と思いながら、
過ぎし2016年6月1日に於いて、
『 瀬戸内寂聴さんの御著作から、つたない私でも、教示された人生の格言は・・。 』
と題した投稿文を再掲載する。



《・・
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
昼食後、ぼんやりとネットを見ていた中で、
【 瀬戸内寂聴さんが94歳に 闘病で「ウツになりかけた」 】と見出しを見て、
あの気丈夫な御方が、どうしてと思いながらクリックして、記事を読んだりした・・。

私は遅ればせながら読書に目覚めたのは、高校に入学してまもない時期であり、
1960年〈昭和35年〉の春であった。

創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力であった。

これ以来、小説、随筆、ノンフィクション、近代史、歴史書など乱読をしているので、
早や55年過ぎている読書好きのひとりである。

年金生活をしている私は、過ぎし2008年〈平成20年〉の初夏の頃、
たまたま石原慎太郎、瀬戸内寂聴の両氏に寄る『人生への恋文~往復随筆~』(文春文庫)を読み、
両氏から人生の哲学のようなことを数多く学んだりした。

この中で、特に瀬戸内寂聴さんの一節が深く心に残り、
温かみのある助言を頂ただけた、と私は今でも心の片隅に残り、感謝している。

            

私は瀬戸内寂聴さんとは、もとより未知の人であり、
東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の頃には、
この当時は瀬戸内晴美さんの名で上梓された初期短編集を読み終えた後、
この後の『夏の終り』の作品は、友人、知人に絶賛したひとりである。

その後、1970年〈昭和45年)に大手の民間会社に中途入社する時までは、
ある程度この御方の作品を読んでいたが、
その後は私なりに企業戦士の一員となり、この御方の作品を読むことなく過ぎていた。

やがて2004年〈平成16年〉の秋に、私は定年退職した後、
まもなく水上 勉さんとの共著の『文章修業』(岩波書店)で、
両氏の純文学の熱く深い思いを改めて学んだりした。

このように瀬戸内寂聴さんの愛読者とは、いえない立場の私であるが、
『人生への恋文~往復随筆~』を読んでいる一節に深く考えさせられ、
限りない人生の助言を頂けた、と思っている。

            

無断であるが、この『人生への恋文~往復随筆~』の中からの一節には、
《・・人間はひとりひとりが、この世に自分ひとりしか持っていない、
かけ替えのない個性と資質に、誇りを持って、世俗の常識に巻きこまれず、
わが道を独りでも行くという気概を失わないことが大切だと、
わたしもかねがね思っていました。

お釈迦さまの教えの中にも
「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」
というのがあります。
わたしはの大好きなことばです。・・》
注)「心に光を」ページ224から引用。原文よりあえて改行を多くした。

私の定年退職するまでの半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
この一節の文章から、つたない身ながら、
セカンドライフの残された人生の日々に、陽光を頂いた、と思ったりした。

そして、私は高校生の初め、読書に熱中し始めた頃、
古文の先生が授業の合間で、どのような本でも必ず学ぶ一行はあり、読書は心の栄養である、
と私たち生徒に明言されたことを思い馳せながら、
確かにそうですよねぇ、と齢を重ねた私は、心の中で呟(つぶや)いたりしている。

            

今回の記事は瀬戸内寂聴さんが著作された『老いも病も受け入れよう』(新潮社)を発刊に伴い、
『デイリー新潮』の編集部が、今回の御著作を紹介するような内容であった。
無断であるが、転載させて頂く。

《・・5月15日、作家の瀬戸内寂聴さんが、京都市の寂庵にて、およそ160人を前に法話を行った。

この日、94歳の誕生日を迎えた寂聴さん。
「まさかこんなに生きるとは」「(法話をするのは)これで最後だと思っているの」など自虐発言で会場を沸かし、
「愛するために人は生きるの」と語った。

法話は1時間半ちかくに及び、安倍政権への批判、
先ごろ呼びかけ人に名を連ねた女性支援のためのネットワーク「若草プロジェクト」についてのほか、
自身の健康にまつわる話題も。

88歳で腰椎圧迫骨折、92歳で再び背骨の圧迫骨折、胆のうガン切除手術を経験し、
二度の寝たきり生活の経験がある寂聴さんは、“さすがに、ウツになりかけた”と闘病を振り返る。


「普段、身の上相談されているから(自分がウツだと)わかるの。
“もう嫌だ”とか“早く死んだほうがマシ”とか思ってね。
なにか陽気なことを考えよう、って」(寂聴さん)

こうした経験に基づいて書いた『老いも病も受け入れよう』(新潮社)が、5月31日に出版される。

            

94歳を迎えた寂聴さんが、若さと長寿について初めて綴ったその思いは、本のタイトルにもこめられており、
「人間は老いるし、病気にもなる。
なりたくなかったら、早く死ねばいいの。

結局、反対したってなる。
いかに私が病気の時に嫌な思いをしたか、苦しかったか、
友達から優しくしてもらって嬉しかったか、その辺を全部書きました」

すべてを受け入れたという寂聴さんは、闘病中も、“仕方ないから戦わなかった”という。
法話では質疑応答の場が設けられ、参加者からの人生相談が寄せられたが、そんな人々に寂聴さんはこう説くのだ。

「お釈迦様は、この世は苦だと、おっしゃってらっしゃいますからね。
苦しみがないっていうのは、ちょっとおかしい(笑)。
でも、それが人生ですからね。
私一人がこんな目にと思わないで、これが人生だと思って生きてください」・・》

注)記事の原文をあえて改行を多くした。

                        

私は過ぎし日に確かテレビ番組で、瀬戸内寂聴さんは介護士に伴われて、リハビリの状況、
或いは執筆されている状態、或いは秘書の方たちと談笑されているご様子など、視聴したりした。

今回の瀬戸内寂聴さんの発言でも、《お釈迦様は、この世は苦だと、おっしゃってらっしゃいますからね。
苦しみがないっていうのは、ちょっとおかしい(笑)。
でも、それが人生ですからね。
私一人がこんな目にと思わないで、これが人生だと思って生きてください」》
こうした晩年期の人生哲学を私は学んだりした。

そして確か亡き作家・渡辺淳一さんは、その年にならないと解らない、
とこのような意味合いを記載されていたことを思い重ねて、私は学んだりした。・・ 》




このように私は、自身の投稿文を読み返して、確かに瀬戸内寂聴さんの御著作から、
つたない私でも、人生の格言を学んだ、と思い重ねたりした・・。

今回、99歳で御逝去された作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんと
親交があった各界の著名人からは、惜しむ声の記事を、たまたま新聞など読んだりした。

こうした中で、私が知る限り感銘を受けた記事は、
毎日新聞の中で、私は敬愛している宗教学者の山折哲雄さんの発露された御言葉であった。

無断ながら記事を転載させて頂く。

《・・ 
宗教家と作家の二つの道を見事に貫かれた。

日本文学の歴史を振り返ると、元々宗教と文学は切り離せないものだった。

源氏物語も平家物語も、後世に残り我々を感動させる物語は、
宗教と文学の入り組んだ関係を描き続けてきた。

寂聴さんは、そうした伝統の中にすっぽりと入る。
日本文学の最も正統な流れを引き受けて表現してきた。
だからこそ生々しいところもあり、大衆的な魅力もあった。

その意味で、源氏物語の現代語訳をする最も適した人物だったと言える。
寂聴さんとしては、言いたいことを言い、やりたいことをやり、書きたいことを書いてきた。
それがそのまま日本文学の伝統につながっていたというまれな人物だった。

明治以降の文学は、宗教的な要素をはぎ取ってしまった。
現代人は「あの人はお坊さんなのか、小説家なのか」という疑問をすぐに発する。
それが現実の文壇であり、論壇であり、ジャーナリズムなのかもしれない。
そういう意味では孤独な仕事だったとも言える。

晩年のエッセーでは、高齢になれば人間は変わると書いておられた。
信念や信仰や確信を貫くのが立派な人生とみんな思っているが、
そんなことはなく、人間は刻々変わる。それは高齢者の宿命だと。

僕も90歳になって同じことを感じる。
宗教や哲学や文学を超えた境地におられたのではないか。
そういう状況の中ですーっと息を引き取られたのだとすれば、きっと自然に帰っていかれたのだろう。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。 
 
 

今回、《・・晩年のエッセーでは、高齢になれば人間は変わると書いておられた。
信念や信仰や確信を貫くのが立派な人生とみんな思っているが、
そんなことはなく、人間は刻々変わる。それは高齢者の宿命だと。
・・》、

つたない人生航路を歩んだ私でも、定年後の年金生活17年が過ぎた今、
確かに齢を重ね、振り返った時、変貌してきた、と実感させられているので、
この人生の晩秋期に、《・・人間は刻々変わる・》同意しながら微苦笑をしたりしている。



余談であるが、「逝去」は、自分の家族や身内以外が亡くなった際は、相手を敬い「逝去」を使い、
「死去」は、家族や身内が亡くなった際に使う、と私は高校時代に国語の先生から学んできた。

昨今のマスメディアは、義務教育の『国語』を学んだのかしら、と苦笑している。
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「要介護」に認定される基準、 目安は「と・ふ・あ・き・た」、77歳の私は学び、多々教示されて・・。

2021-11-11 17:14:59 | 喜寿の頃からの思い
 一昨日、私はパソコンを立ちあげて、やがてニュースが表示された画面のひとつに、
『「要介護」に認定される基準とは?  目安は「と・ふ・あ・き・た」。
      「要支援」「要介護」の違いも詳しく解説! 』、
と題された見出しを見たりした・・。

私は東京の調布市に住む年金生活の77歳になる身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
そして私より5歳若い家内と共に、古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

こうした中で、私たち夫婦にとって難題は、
やはり晩秋期の不安は、いつの日にか、介護・要となり、
頼れる子供もいないので、在宅介護は難題と思い、やむなく介護施設にお世話になると思われる。

もとより私たち夫婦は、介護に関する実態は、
我が家より遠い地に住む家内の母以外は未知の世界なので、
今回の《・・「要介護」に認定される基準とは?  目安は「と・ふ・あ・き・た」・・》って、
どのようなことですか、と思いながら、記事を精読した・・。



この記事は、女性の有力な公式サイトの【 婦人公論.jp 】に於いて、
11月8日に配信され、無断であるが記事を転載させて頂く。


《・・ 災害や事故、介護や相続など、人生には不測のトラブルや、避けられない困難が訪れます。
とはいえ、気軽に聞ける弁護士や税理士が身近にいるとは限りません。

専門的な知識を得ることで、冷静な判断で被害を減らしたり、
計画的に備えたりすることができます。

ジャーナリストとして長年さまざまな現場を取材しているファイナンシャルプランナーの鬼塚眞子さんに、
暮らしに役立つ豆知識を聞きました。

第4回は「介護保険制度について」。

40歳から引かれ始める介護保険料、どのように利用できるのでしょうか?

☆65歳未満でも介護保険の対象となる条件は

将来、ご自身が介護状態になることを心配される方は、多いのではないでしょうか?

でも、どんな状態になれば、「要介護」になるのか、
具体的にはよく分らないものですよね?

20年以上前までは、健康上の不安を抱えると、
親族に身の回りの世話をしてもらう「家族介護」が主流で、
介護施設に入れようものなら「親を捨てた」と
陰口を叩かれる風潮も少なからずありました。

しかし、今は女性の社会進出も増え、負担が増えたことを受けて、
社会全体で介護を支えることを目的に設立されたのが「公的介護保険制度」です。

「家族介護」では、介護を受ける人の年齢は関係ありませんが、
公的介護では、被保険者(介護保険制度の給付の対象者)の年齢を2つに区分しています。

(1) 65歳以上の方(第1号被保険者)と
(2) 40~64歳の医療保険加入者(第2号被保険者)で、
  第1号被保険者の方は、原因を問わず要支援・要介護状態となったときに申請が可能。

  一方第2号被保険者の場合は、末期がんや関節リウマチ、老化などによる
  16種類の特定疾病が原因で要支援・要介護状態になった場合に
  申請できるという大きな違いがあります。  
  (略)

 




☆「要支援」と「要介護」の違い

ここで気になるのが「要支援」、「要介護」ですが、どんな状態をいうのでしょうか。

「要支援」、「要介護」は法律で定められ、厚労省はHPで次のように明記しています。

 (略)

「要支援」には「要支援1」と「要支援2」の2段階があり、
「要支援1」の方が「要支援2」より介護度は軽く、
「要介護」は「要介護1」から「要介護5」まで5段階に区分され
数字が大きいほど介護度が高くなっています。

要支援1から要介護5までご覧になって、共通要素があることにお気づきでしょうか?

それは“足=歩く”です。

要支援1・要支援2から見ていきましょう。

【表】一目でわかりやすい! 介護認定の仕組みと手順

要支援1は、「立ったり、起き上がりが不安定」、
要支援2は、「立上がりがスムーズにできなかったり、立つのが安定していない」とあります。
要支援は、足元がおぼつかないことから始まるというわけですね。

要介護は、どうでしょうか。
要介護1は、「立ち上がりや歩行などに、不安定さが見られることが多い」、
要介護2は、「立ち上がりや歩行などが、自力ではできない場合が多い」、
要介護3は、「立ち上がりや歩行などが自力ではできず、介護を必要とする状態」。
要介護4は、「歩行、入浴や排泄、衣服の着脱などに、全面的な介助」、
要介護5は、「歩行や両足での立ったままの姿勢をキープすることもできない」と、

要介護でも要支援同様、すべてにおいて“足=歩く”の状態が、
盛り込まれていることがお分かりかと思います。

では、「歩く」以外の要素には、何があるのでしょうか?

要介護1から、排泄やら入浴が、要介護3になると、衣類の着脱が、
要介護4は、食事といった日常生活要素が複数加わっていき、
要介護5になれば、排泄も入浴も衣類の着脱も食事を取るのも
すべて人の世話=介護を受けることになります。

つまり、介護保険制度は、歩く、排泄、入浴、衣服の着脱、食事に関して
介護を必要とする人の制度と捉えることができます。


☆「介護はと・ふ・あ・き・た」

でも、もっとすっきりイメージを掴みたくはありませんか?
そんな方には「介護はと・ふ・あ・き・た」と覚えてみるのはいかがでしょうか?

どういうことか、説明していきましょう。

「と・ふ・あ・き・た」とは、
「トイレ(排泄)・風呂(入浴)、歩く・衣類の着脱(着る)、食事(食べる)」
の頭文字を取って覚えやすいように、オリジナルで考案したものです。

介護保険制度は、歩く、排泄、入浴、衣服の着脱、食事に関して介護を必要とし、
「あ=歩く」がベースになっていることから、
「あ」+「トイレ」あるいは、
「あ」+「風呂」の要素が増えていき、
最後は「と・ふ・あ・き・た」すべてが介護を必要とするもので、
介護というのがどういう状態かよく分らなくても、
「と・ふ・あ・き・た」に支障をきたすこと、と覚えておかれると理解しやすいかと思います。

ちなみに「歩く」に関しては、
要介護3で「車イスを利用する」とイメージしておけば介護度の目安になります。
 (略)


介護度に応じて、さまざまな介護保険サービスを受けることができる。

介護保険サービスを受けたい、あるいは相談したいなら、
窓口は、市区町村の介護保険課か地域包括センターに相談することとなります。
本人あるいは親族が相談しても大丈夫です。

認知症の場合も公的介護サービスが受けられますが、
単にもの忘れがひどくなったというのではなく、もの忘れがひどくなったことで、
日常生活に支障をきたすというのが目安になると思います。

認知症を疑う場合、かかりつけの医師に相談したり、
心療内科、脳神経外科などを受診したりするのもいいですが、
「もの忘れ外来」などの認知症の専門医に受診すると、事例を多く扱っているので、
本人の扱いにも慣れ、介護をしている親族にも寄り添ってくれて良かったという実例もあります。

どんなふうに介護度が進行するのかは、一人一人によって違います。
また長期にわたる場合もあります。いずれにせよ、早めの相談をお勧めしたいものです。・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。 
 
 

今回、ジャーナリストとして長年さまざまな現場を取材しているファイナンシャルプランナーの鬼塚眞子さんの寄稿文より、
多々教示されたりした・・。

そして「要介護」に認定される基準、 目安は「と・ふ・あ・き・た」、
「トイレ(排泄)・風呂(入浴)、歩く・衣類の着脱(着る)、食事(食べる)」と学びながら、
たとえ体力も衰えても、人としての日常生活の基本だよねぇ・・、と改めて感じ深めたりした・・。


私は年金生活を丸17年過ごしてきた中、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフの私なりの健康体の三種の神器として思い、過ごしてきた。

そして私は何よりも認知症、心筋梗塞など恐れ、
殆ど毎日のように自宅の周辺3キロ範囲にある遊歩道、公園、住宅街を歩き、
ときおり認知症だけは勘弁してねぇ・・と秘かに祈願しながら歩く時もある。



こうした中で、
70歳の頃から体力の衰えを実感し、
時折もの忘れもあり、独り微苦笑をしたりしている。

過ぎし日に、厚生労働省の公表によると、2016(平成28)年時点で、
日本人の健康寿命は、男性が72.14歳、女性が74.79歳と推計され、
平均寿命と健康寿命の差は、男性約9年、女性約12年と報じられている。


もとより「健康寿命」は、日常的に介護を必要としないで、
自立した生活ができる期間であり、
私は今年の9月で、満77歳となり、何んとか男性の健康寿命には、
何とか乗り越えている、
と思ったりする時もある。

しかしながら私の友人、知人の7人は、すでにあの世に旅立っているし、
或いは私より8歳ご年配の知人は、心身溌剌とされている御方もいて、
あくまで健康寿命も男性の平均であるよなぁ・・と思ったりしている。



介護に関して、私は要支援の範囲であるならば、自宅介護をするつもりであるが、
やがて、いつの日にか・・トイレまで間に合わないことがあった時は、
こうした後片付けを愛妻にさせるいたたまれず、
いさぎよく何かと制約の多い介護施設にお世話になる時だ、思い深めている。

果たして・・介護・要になる時期は、もとより日頃の自助努力は肝要であるが、
こればかりは神様か仏様の采配により・・と思い重ねている。

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「まさか」のその日のために、いま夫婦でやっておくべき準備、77歳の私は学び、多々教示して・・。

2021-11-10 13:17:47 | 喜寿の頃からの思い
昨夜、愛読している講談社の公式サイトのひとつの【 現代ビジネス 】を見ている中、
『 妻の死後「残された76歳の夫」が大後悔した、口座の「名義変更」での意外な落とし穴 』、
と題された見出しを見たりした。

こう語るのは神奈川県在住の宮田信之さん(76歳・仮名)だ。
3年前に妻を亡くしたが、最も大変だったのが
「出生から死亡まで、すべての戸籍謄本」を集めることだったという。

「妻の銀行口座の名義変更をするだけでも、この戸籍謄本の束を要求されます。
ところが、私は結婚前の妻の本籍地をすべて知っているわけではありませんでした。
妻が元気なうちに聞き出しておけばよかった」

Photo by iStockPhoto by iStock
 
 

宮田さんは、結婚前に妻が暮らしていた山梨県甲府市の役所から、
郵送で戸籍謄本を取り寄せた。

さらに1週間後に届いた書類を元に、
それ以前に妻の本籍があった兵庫県神戸市に戸籍謄本を請求した。

そして届いたのが、冒頭の古い戸籍だった。
「1994年に現在の戸籍謄本の様式になる前は、
改製原戸籍と呼ばれる縦書きの旧バージョンの戸籍謄本が使われていました。
相続手続きでは、こうした古い戸籍謄本も含めたすべての戸籍謄本が必要になります」(行政書士の稲吉務氏)



☆保険金がもらえない!

改製原戸籍の中には、役所の判断で、破棄されてしまっているものもある。
その場合、代わりに廃棄済証明書を発行してもらう手間が生じる。

「改製原戸籍は、内容が変わらない『古文書』のようなもので、
有効期限という概念がありません。

夫婦それぞれが、自分の古い戸籍謄本を集めておけば、
残されたほうは手続きがとても楽になります」(稲吉氏)

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アメリカの66歳女性教師、がんでホスピス入り、学童が賛美歌で見送る情景、私は学び、感銘して・・。

2021-11-09 11:03:18 | 喜寿の頃からの思い
『 がんでホスピス入り・・・米66歳女性教師を賛美歌で見送るサプライズに感動! 』、
と題された見出しを見たりした。
 

 《・・ がんと闘病するために、ホスピスに入ることになった米国の小学校の女性教師を、
彼女を慕う児童たちが、賛美歌を歌って見送る様子がニュースで報じられ、人びとの心を動かしている。


米ウィスコンシン州ビッグベンドの小学校クライスト・ルーセラン・スクールで47年間、
勤務したキャロル・マック先生(66歳)は、がんになり、現在はステージ4。


今年度も教鞭を取っていたが、病の進行で、それも不可能に。
11月3日、地元のホスピス「オーロラ・ヘルス・ケア」に入所した。


マック先生の同僚や友人は、彼女が入所する際、
同校の1~4年生の児童26人が、賛美歌を合唱して見送るサプライズイベントを企画した。



このイベントには、マック先生の元教え子たちも、たくさん集まった。
親子2代にわたって担任してもらったという人たちもいた。


この様子を撮影した動画は、地元テレビ局CBS58などによって放送され、
フェイスブックにも投稿された。


フェイスブックのコメント欄には、元教え子たちのコメントが数多く書き込まれている。 

同ホスピスのセラピスト、ニコル・バートニックさんはこう語った。
「マック先生には、自分の子供がいません。
でも数え切れないほどの子供たちがいます。
無私な愛すべき人に、あふれるような愛が返されるのを見るのは、まさに至福の光景でした」


そして当のマック先生は
「本当に特別なイベントで、心から感動しました。
児童と教師がどれほど愛し合い、わが校のコミュニティーが
どれほど一体になっているかを見てください」と語った。


CBS58が放送した動画を見たいという人は、
フェイスブックで「carol mack」で動画検索してみてください。・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。 
 
 

今回、アメリカの66歳のある女性教師、がんでホスピス入り、学童が賛美歌で見送る情景、
たまたま私は学び、私は瞼(まぶた)が熱くなったりし、感銘したりした・・。

《・・このイベントには、マック先生の元教え子たちも、たくさん集まった。
親子2代にわたって・・担任してもらったという人たちもいた。・・》、
こうしたことも学び、このマック先生の良き人柄、その上に教師冥利と羨望したりし、
何かと感性、そして想像力も衰えた私でも、圧倒的に感銘を受けている。
 
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ときには体力の衰えた77歳の私でも、家内のボディガード、お供そして荷物持ちをして・・。

2021-11-08 15:50:13 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の77歳になる身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
そして私より5歳若い家内と共に、古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

こうした中で、
私は年金生活の当初から、我が家の平素の買物は、 私は自主的に買物専任者として宣言し、
家内から依頼された品を求めて、 独りで殆ど毎日、スーパー、専門店など歩いて行き、
買物メール老ボーイとなっている。

この後は、やはり自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、

季節の移ろいを享受している。

例外として、家内のボディガード、お供そして荷物持ちで、3週間に一度ぐらい駅前で買物、
或いは年に3回ぐらい都心の新宿にある伊勢丹、小田急、京王などのデパートに買物、
そして庭の手入れ、国内旅行、懇親会、冠婚葬祭などで小用がない限り、過ごしてきた。

このような午前中の過ごし方を、一昨年の新コロナウィルスの烈風のまでは、
定例事項のように過ごしてきた・・。


たまたま本日、家内は最寄り駅の近くに有る眼科医院で検査を受けて、
老眼鏡のメガネを買い改めることとなった。

こうした中、医師より正確に視力を測定する為に『眼鏡処方』して、
この書類を持参して、メガネ店で買い求める事となったりした。

そして本日は秋日和のさわやかな天気の為か、
私たち夫婦は、調布の駅前に向かったりした。

やがて駅の近くに有るビルで、衣類などを見たりして、
こうした中で、紳士用の冬専用の帽子を見て、私は瞬時に魅了されて、
買い求めたりした。

この後、メガネ専門店で、家内用の老眼鏡を家内なりにフレームの選定して、
私は20分ぐらい待ちくたびれ、微苦笑をしたりした。

やがて、スーパーで買い物をして、帰宅したが、
体力の衰えた77歳の私は、家内のボディガード、お供そして荷物持ちをして、
疲れたょ・・、とこのサイトに綴っている。

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定年してからでも、遅咲きの花を咲かせて輝ける時代、77歳の私は学び、微苦笑して・・。

2021-11-07 14:35:12 | 喜寿の頃からの思い
先程、ときおり愛読している公式サイトの【 NEWSポストセブン 】を見ている中で、
『 人生100年時代 孔子の人生観も現代では「年齢×1.6倍」が適切か 』
と題された見出しを見たりした。


私は東京の調布市に住む年金生活の76歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
そして私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。
 
こうした中、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフの私なりの健康体の三種の神器として思い、年金生活を丸17年を過ごしてきた。

そして私は何よりも認知症、心筋梗塞など恐れ、
殆ど毎日のように自宅の周辺3キロ範囲にある遊歩道、公園、住宅街を歩き、
ときおり認知症だけは勘弁してねぇ・・と秘かに祈願しながら歩く時もある。



こうした中で、70歳の頃から体力の衰えを実感し、
時折もの忘れもあり、独り微苦笑をしたりしている。

過ぎし日に、厚生労働省の公表によると、2016(平成28)年時点で、
日本人の健康寿命は、男性が72.14歳、女性が74.79歳と推計され、
平均寿命と健康寿命の差は、男性約9年、女性約12年と報じられている。


もとより「健康寿命」は、日常的に介護を必要としないで、
自立した生活ができる期間であり、
私は今年の9月で、満77歳となり、何んとか男性の健康寿命には、
何とか乗り越えている、
と思ったりする時もある。


しかしながら私の友人、知人の7人は、すでにあの世に旅立っているし、
或いは私より8歳ご年配の知人は、心身溌剌とされている御方もいて、
あくまで健康寿命も男性の平均であるよなぁ・・と思ったりしている。

ここ数年は、世の中は人生100年時代、と公表されているが、
今回の《・・人生100年時代 孔子の人生観も現代では「年齢×1.6倍」が適切か・・》
って、
どのようなことなのょ・・と思いながら記事を精読してしまった・・。

この記事は、『女性セブン』の2021年5月20・27日号に掲載された記事で、
関連の【 NEWSポストセブン 】に於いて、5月15日に配信され、
無断であるが転載させて頂く。


《・・ 《吾、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る》。

人は30歳で自立して、40歳で迷いがなくなり、50歳で天から与えられた使命を知る──
この、中国古代の思想家・孔子による人生観は、よく知られている。

しかし、超高齢化とともに進む「人生100年時代」では、
寿命の延長に合わせて、年齢を調整する必要がある。


『遅咲き偉人伝 人生後半に輝いた日本人』(PHP研究所)の著者であり、
多摩大学名誉教授の久恒啓一さんが指摘する。

「孔子の言葉は、人生50年時代のものでした。
65歳でリタイアした後に、40年近くの時間がある
いまの世の中に当てはめるなら、孔子の言った年齢を1.6倍する必要があるでしょう」

実際に孔子の人生観を現代に置き換えるとこうなる。

《吾、五十にして立ち、六十五にして惑わず、八十にして天命を知る》

WHO(世界保健機関)の定義では、65歳以上は「高齢者」であり、
65~74歳を「前期高齢者」、75歳以上を「後期高齢者」と呼ぶ。

その基準に沿って、現代の日本は「超高齢化社会」とされ、
健康面や経済面でのリスク増加や、年金問題で国家財政が苦しくなることなど、
マイナス面が強調されてきた。

だが、65歳でやっと「不惑」となる人生100年時代は、
高齢者と呼ばれてからも「天命」を知るまでの準備期間がたっぷりある。
まさに、「遅咲きの時代」だ。

※女性セブン2021年5月20・27日号



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孔子の人生観を現代に置き換えれば、新しくチャレンジすることも怖くない

 

 

 

「孔子の時代では、50歳になったら、残り時間がほぼありませんでしたが、
現代の50歳は、まだ折り返し地点です。

『早咲き』していたら、時間が余って仕方がない。
これからは、定年してからでも、遅咲きの花を咲かせて輝ける時代なのです」(久恒さん)

現在、日本には100歳を超える人が8万人以上おり、
2050年には50万人に達すると予想されている。

世界で最も早く超高齢化社会に突入した日本は、
「遅咲き先進国」として、世界から注目を集めているという。

遅咲き時代を生きる私たちは、先駆者たちの生き方から学び、
ライフプランの参考する必要があるはずだ。・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。 
 
 

今回、
《・・定年してからでも、遅咲きの花を咲かせて輝ける時代・・》、
多々教示されられて、やがて微苦笑してしまった・・。

 

私は音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤めて、
2004年(平成16年)の秋に定年退職した身であるが、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

そして、私は出向身分であったので、リストラ烈風の中、
会社の首脳部が社員を自主退職させる希望退職優遇制度などの免れたのも事実であり、
定年前にやむなく退社を余儀された同僚、後輩に少し後ろめたく、
退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

しかしながら根底の実情は、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もなく、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまった。

このような拙(つたな)いサラリーマン航路である上、
定年退職するまで半生期は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりした・・。

私たち夫婦は、2人だけで第二人生の歳月を過ごすので、
結果としては定年後の長い人生は、お互いの趣味を尊重して、堅実な生活を過ごせば、
年金生活でも何とかなると、定年後に年金生活を始めたりした・・。

            

私は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
生家も近く、結婚前後の5年を除き、私としてこの地域に72年ばかり住んできた為か、
調布の里っ児、或いは原住民かしら、と思ったりすることもある。

最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。
そして小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となっている。

或いは私が長らく通勤で利用した小田急線の『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
根がケチの為か路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりすることが多い。

私は年金生活の当初から、我が家の平素の買物に関して、
自主的に買物専任者として宣言し、家内から依頼された品を求めて、
独りで殆ど毎日、スーパー、専門店など歩いて行き、買物メール老ボーイとなっている。

やがて私は我が家の買物の責務を終えて帰宅した後は、
やはり独りで自宅周辺の3キロ範囲を歩くことが多くなっている。

           

こうした中、付近に流れている野川の両岸にある遊歩道を歩いたり、
或いは小公園、小学時代に通学した旧市道を歩いたりしている。

ときには最寄駅の商店街に立ち寄り、知人と談笑したり、
都立の神代植物園に遠征したりすると、中学時代の同級生に逢う時もある。

こうした時、偶然だよねぇ・・、とお互いに再会を喜びながら、
過ぎし中学時代のそれぞれの同級生のことを話したりすると、長話になったりする時もある。
           

そして私は、亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖におしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

そして私は、遊歩道、公園などを散策していると、
見知らぬ男性、 女性グループの御方たちと、話しかけられたり、或いは話しかけたりして、談笑し、
殆ど毎日過ごしている。

或いは、知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらく、と私は笑いながら逢ったりして、
明るい日中だとコーヒーを飲んだり、 夕暮れすぎの場合はビール、水割りのウィスキーを呑みながら、
談笑をしたりしている。

           

或いは私が勤めていたあるレコード会社のOB会と称せられる懇親会に出席したりすると、
上司だった御方たち、或いは同世代の数多くの人と談笑したりしている中、
数人から、XXさんは感性もお若いですょ、と私は社交辞令のお世辞を頂くこともある。

或いは女性グループの中で談笑している中、たまたま音楽の話題となり、
他社の『いきものがかり』を定年後に偶然に聴き、
何かと吉岡聖恵(よしおか・きよえ)ちゃんの歌声に、励まされていますょ、
特に『YELL(エール)』は、高齢者の私でも心身のビタミン剤ですょ、と私は言ったりした。

こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

ときには遊歩道、公園などを歩いたりしていると、見慣れた情景でも、
樹木、草花など、 初めて気づかされて、こんなに美麗な花だったの・・新たなめぐり逢いに感謝をしたりしている。

           

このように私は日々散策したりすると、
イギリスの湖畔詩人と称されたワーズワースは、湖水地方の緩やかな谷と丘が連なる道、
或いは小さな町の田舎道を、何10キロでも平気で歩いたと伝えられているが、
私も少しばかり真似事をしているかしら、と微笑んだりする時もある。

私は無念ながらイギリスの湖水地方には訪れたことはないが、
確か20数年前の頃、 NHKのBSに於いて、湖水地方について連続番組を視聴し、
少しだけ情景は学んだりした。

そして肝要のイギリスを代表するワーズワースには、
何かと海外文学に苦手な私は、 詩にも素養がなく、恥ずかしながら無知なひとりである。

たったひとつ記憶しているは、私が高校2年生の下校時、
映画館に立ち寄って観た作品からであった。

エリア・カザン監督の『草原の輝き』(1961年)で、
ナタリー・ウッドが扮する高校女学生が、 教室で詩を朗読するシーンであった。

草原の輝き 花の栄光
再びそれは還(かえ)らずとも
なげくなかれ
その奥に秘めたる 力を見出すべし

私はストリーに涙ぐみ、そしてこの詩には瞬時に魅せられ、そして二回目を見て、
字幕スーパーを薄暗い座席でノ-トに書き留めて、
詩を創られた御方が、ワーズワースと知り、私は17歳の時であった。 

私は後年になると、ワーズワースも波乱に満ちた人生航路を歩んだと学んだが、
もとより詩に託した才能で、後世にも多くの方に敬愛されている人である。

そして私は《・・ワーズワースは、生まれ育った地で、生涯にわたってこの地を散策し続けた・・》に、
つたない私でも、瞬時に琴線(きんせん)が静かに奏(かな)で始めたのであった・・。

                        

私は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に生を受けて、
やがて都心の高校に通学して、都心の底知れぬ魅力に圧倒的に魅了され、
通勤を含めて45年ばかり彷徨(さまよ)ったが、
定年後に年金生活を始めて、私の住む3キロ範囲を歩き廻るのが、何よりも心身安らぎを得ている。             

そしてここ10数年、デパートに買物、懇親会、冠婚葬祭などで都心に出れば、
人出の多さに疲れ果て、やがて我が家の最寄駅のひとつ『成城学園前』駅に降り立つと、
何故かしら安堵している。

このような心情を秘めた私は、たとえ時代、住む国と地域、才能も天と地の差があるが、
ワーズワースさんのお気持ち・・少しは理解できますょ、と私は微苦笑を重ねたりしてきた。

そして私は、自宅から3キロ範囲にある遊歩道、小公園、住宅街を歩いたりし、
ときには45分ばかり歩くと深大寺があり、隣接した処に都立・神代植物園があり、
年金生活の中、幾たびも尋ねたりしてきた。

そしてここ15年、都心に買物、懇親会、冠婚葬祭などで出れば、
人出の多さに疲れて、やがて我が家の最寄駅のひとつの小田急線の『成城学園前』駅に降り立つと、
何よりも心身の安らぎを得ている。

こうして私は年金生活を始めて、早や18年生になるが、
つたない定年退職時まで歩んだ私でも、人並みに程々の年金を頂き、
平日の閑静な時に自由に散策ができることに、改めて倖せを感じたりしている・・。



そして帰宅後の午後の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを 心の発露の表現手段として、
ブログの投稿文を綴ったりしている。

このような私なりの年金生活を過ごしているので、
今回学んだ《・・遅咲きの花を咲かせて輝ける時代・・》には、
遠い世界かしら、と微苦笑してしまった・・。



多くの高齢者の世代に関しては、ファイナンシャルプランナーの長野 郁子さんが、
適言されていた。

《・・仕事をやめた自立期の高齢者は、手元のお金の多寡はあっても、
好きに使える時間だけは、タップリある。

何時に起きても、何時に寝ても、誰にも文句はいわれない。
こんな勝手気ままで自由な暮らしを10年、20年過ごしていると、
それを手放すのは本当につらい。

若い人は、自立期の高齢者の生活をよく知らないし、
高齢者の自由な生活を過小評価している。・・ 》

こうしたことを私は学び、そうですよねぇ・・と微笑んだりしている。

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65歳からは要注意、“介護寸前”を示す「なにげないサイン」、高齢者の私は学び、多々教示されて・・。

2021-11-06 16:00:28 | 喜寿の頃からの思い
先程、ときおり愛読している公式サイトの【 幻冬舎ゴールドオンライン 】見ている中、
『 65歳からは要注意・・・“介護寸前”を示す「なにげないサイン」』、
と題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む年金生活の77歳になる身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
そして私より5歳若い家内と共に、古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

こうした中で、私たち夫婦にとって難題は、
やはり晩秋期の不安は、いつの日にか、介護・要となり、
頼れる子供もいないので、在宅介護は難題と思い、やむなく介護施設にお世話になると思われる。

もとより私たち夫婦は、“介護寸前”の状況は、未知の世界なので、
真摯に学びたく、記事を精読した・・。



この記事は介護事業を運営する
株式会社アテンドの代表取締役の河北 美紀さんの
書籍『身近な人の介護で「損したくない!」と思ったら読む本』(実務教育出版)より抜粋・再編集した
連載記事のひとつで、【 幻冬舎ゴールドオンライン 】に於いて、10月31日に配信され、
無断であるが記事を転載させて頂く。

《・・ 高齢者が要介護状態になることをできる限り遅らせることを「介護予防」といいます。
介護予防には、早期のアプローチが大切です。

もしも表れたら、地域包括支援センターへ相談したい「サイン」について、
河北美紀さんが解説する。

65歳からは要注意…“介護寸前”を示す「なにげないサイン」 ※画像はイメージです/PIXTA

 

 

☆65歳以上の「こんなサイン」に要注意

65歳を超えると、徐々に心身の老化から、
気持ちが不安定になったり、外出をおっくうに感じるようになります。

親に「家から出たがらない」、「疲れやすい」、「小さな段差でつまづく」などの症状があったら、
地域包括支援センターへ相談に行きましょう。

要介護認定を受けていない高齢者でも、
必要なサービスが受けられるよう、さまざまな情報提供をしてくれます。

要介護認定を受けていない65歳以上の方は、
「介護予防・日常生活支援総合事業(一般介護予防事業)」の行う転倒予防教室や、
口腔ケア体操に通うことができます。

また、地域包括支援センターで地域のコミュニティも紹介してもらえます。

積極的な社会参加によって、家に閉じこもらず、
健康的で楽しい毎日を過ごすことができます。

 

[図表1]サービス利用に至るまでの流れ

 

地域包括支援センターに行ったら、「基本チェックリスト」を記入してみましょう。

その人にとって必要な介護予防項目を知ることができます。
もし生活機能の低下が見られた場合は、
「事業対象者」として「訪問型サービス」や「通所型サービス」を利用することができます
([図表2]参照)。

 

[図表2]基本チェックリスト(厚生労働省作成)

 

チェックリスト回答欄に「はい」、「いいえ」(0または1)の数字を記入していきます。
その結果、次のいずれかに該当するかを判定します。

●項目1~20の合計が10点以上(全5分野合計)

●項目6~10の合計が3点以上(運動機能合計)

●項目11~12の合計が2点(身長・体重測定合計)

●項目13~15の合計が2点以上(口腔機能合計)

上記のいずれかに該当した方は、
市区町村が提供する介護予防事業を利用できる可能性があります。
お近くの市区町村や、地域包括支援センターに相談してみましょう。


☆「介護予防」のためのサービスと日頃の心がけ

介護保険の「総合事業」とは

介護予防・日常生活支援総合事業には、
介護予防・生活支援サービス事業と一般介護予防事業の2種類があります。

それぞれの心身の状態に合った介護予防サービスが受けられますので、
要介護状態にならないよう現状維持・改善を目指し、積極的にサービスを活用しましょう。

 

[図表3]介護保険総合事業の対象者とサービス内容

 

☆☆ 生活の質を高める生活習慣 ☆☆

介護が必要になる原因の多くは、脳血管疾患、認知症、ロコモティブシンドローム、心疾患です。
こうした疾患を予防するためには、効果的な運動、社会活動、食事の栄養バランスが重要となります。

65歳以上の高齢者数は、2025年に3677万人となり、
日本の人口の30%を超える見込みです。

健康寿命を延ばし、生活の質を高めることが、日本全体の課題でもあります。
以下のことに気をつけて、日常生活を送ってもらうようにしましょう。

 

①睡眠時間を確保する

成人に必要な睡眠時間の目安は6~8時間ですが、
加齢とともに睡眠が浅くなります。

午前中に日光を浴び、食事時間を規則正しく、
寝室の室温や照明を調整するなどして、一定の睡眠時間を保つよう心がけましょう。


②適正体重を維持する

一般的に適正体重は、22×身長(m)×身長(m)で求められ、
年齢ごとのBMI(肥満や低体重の判定)は、70歳以上で21.5~24.9とされています。

高齢者の低体重は、筋力低下につながり、口腔機能や身体機能の低下のきっかけになります。
定期的に体重測定をしてリスクを回避しましょう。

 

③塩分を取りすぎない

高齢者の塩分摂取量は、1日6グラムが目安とされています。
高齢になると、腎機能が低下するためです。

日頃から減塩を心がけましょう。
成人男性は8グラム、女性は7グラムが目安です。

 

④アルコールを取りすぎない

高齢者の過度な飲酒は、健康寿命に影響し、
脳血管障害・骨折・認知症などを発症するリスクが上がります。

週に2日は休肝日をつくり、
飲む日でも缶ビールなら1本以下、食事と一緒にゆっくり飲むようにしましょう。

 

⑤他人と交流する

積極的に町内会や行事に参加することで、
会話の頻度が増え、日常生活にハリが生まれます。

また、自分の居場所や役割があると、生きがいを感じることができます。

 

⑥定期的に運動する

歩行などの身体活動は、寝たきりや死亡のリスクを減少させる効果があります。
約10分の歩行で、おおむね1,000歩となります。
毎日6,000歩を目標に、散歩を行いましょう。

 

⑦喫煙をしない

喫煙は呼吸器疾患の原因となり、肺や免疫系へ悪影響を及ぼす可能性もあります。
できることなら喫煙はさけましょう。・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。 
 
 

今回、介護事業を運営する株式会社アテンドの代表取締役の河北 美紀さんの懇切丁寧な解説を
私は学び、多々教示されたりした・・。

私は年金生活を丸17年過ごしてきた中、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフの私なりの健康体の三種の神器として思い、過ごしてきた。

そして私は何よりも認知症、心筋梗塞など恐れ、
殆ど毎日のように自宅の周辺3キロ範囲にある遊歩道、公園、住宅街を歩き、
ときおり認知症だけは勘弁してねぇ・・と秘かに祈願しながら歩く時もある。

今回、特に《・・生活の質を高める生活習慣・・》

①睡眠時間を確保する

②適正体重を維持する

③塩分を取りすぎない

④アルコールを取りすぎない

⑤他人と交流する

⑥定期的に運動する

⑦喫煙をしない

このような7か条に、私は微苦笑を重ねたりした・・。


特に《・・アルコールを取りすぎない・・》に関しては、
現役サラリーマンの時代から、お酒大好きなひとりで、
やがて65歳の時に、健康診断で糖尿病と診断された・・。

この後、最寄の内科に8週間毎に定期検査日、そしてこの間に検査結果日と健診を受けて、
お酒を一時断念して、散策を積極果敢にして、
やがて半年後には、糖尿病の範囲の対象から克服でき、糖尿病の予備軍のひとりである。
 

そしてこうした定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
 
しかしながら家内は、糖尿病の予備群ですから、程々に注意して下さい、と言われる時もある。

このように私は、私は最寄の内科に8週間毎に定期検査日、
そしてこの間に検査結果日と健診を受けて、早や12年目となっている。

ここ数年、お酒は冠婚葬祭、懇親会、旅行以外の平常時には、
缶ビールを5日ごとに1本となり、
かって呑兵衛と自任してきた私は、歌を忘れたカナリヤのようになっている。



 
或いは《・・喫煙をしない・・》に関しては、
私は長年タバコの愛煙者のひとりであった。
 
一昨年の2019年、予告もなく私は、
新年そうそうの1月3日の夜10時過ぎ、心臓の左胸が圧迫され、強く痛みを感じて、
やむなく救急車で循環器専門の『榊原記念病院』に搬送されたりした。

やがて『胸膜炎』(急性冠症候群)と病状とされ、
しばらく経過観察したく・・ と担当医師から宣言され、
結果的に8泊9日の入院となったりした。

この時に、大学一年の夏季合宿にタバコを喫い始めて、
長年こよなく愛煙者だったが、これを機会にタバコにお別れとなったりした。

こうした根底には、やはりタバコは身体に良くないと、医師から進められて、
何かを断念しなければ、この先はないと思い、断腸の思いで禁煙したのは本音であった・・。



このように私は晩秋期も、楽しく健康で過ごしたく、
お酒は少しばかり、タバコは禁煙となり、やはりに何かを断念しなければ、と思い深めて、
ときには微苦笑して過ごしたりしている。

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死にたくても死ねない、「100歳まで生きた人」が抱える胸の内 、77歳の私は学び、涙を浮かべて・・。

2021-11-05 11:33:19 | 喜寿の頃からの思い
私たち夫婦の両親は、今や家内の母だけとなっている。



私が2004年(平成16年)の秋に定年後する直前に、
家内の父が病死され、家内の母は我が家より遠い地で、独り住まいとなっている。

そして家内の母は自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っているのが、
11年ぐらい恒例となっていたが、これくらいは我が家では私は『おひとりさま』の生活となってしまったが、
気分転換で良好と思ったりしてきた。

やがて6年前の頃より、家内が家内の母宅に宿泊数が多くなってきたことは、
私にとっては、まさかの出来事のひとつとなっている。
                           
やがて家内の母が『要介護2』となり、長女の家内と家内の妹が交互に、
家内の母宅に宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしている。

こうした事情で、我が家では私が『おひとりさま』の生活が加速されて、
私たち夫婦の年金生活の予定事項が定まることが少なくなり、
少し困苦してきたことも事実となっている。

このように私たち夫婦は、年金生活の中、何かと家内の母の状態に左右されることもあり、
家内は老々介護の中で、家内の思いをできる限り叶えようとして、疲労困憊になる時もある。

『お義母(かあ)さんは・・娘ふたりに介護されて良いけれど・・
我が家では子供もいないので、頼れる人はいないし、お互いの頑張りだよなぁ・・』
と私は微苦笑しながら、ときおり家内に言ったりしている。

『そうよねぇ・・あたし達が晩年期まで・・しっかりとしないと』
と家内は苦笑しながら、私に言ったりしている。


                        
この間、確か15年近い頃だったと私は記憶しているが、
家内の母は年金として月平均14万円前後で貯金を少しづつ崩しているが、長生きを考えると心ぼそいわ、
とこのような意味合いの言葉を、長女の私の家内に言った。

そして私は家内から聞いて、毎月少し融資を受けられる『リバースモーゲージ』を本格的に調べたりした。
『リバースモーゲージ』は、老後資金がどうしても不足してしまう場合には、自宅不動産を活用し、
自宅を担保にお金を借りて、慣れた自宅を手放さず、死亡後に担保を売却して元本を返済する方法である。

まもなく家内は関係先に孤軍奮戦した結果、家内の母の住む市の社会福祉協議会より、
家内の母は、毎月3万円の融資を受けている。

家内の母は、家内に、お父さんの遺(のこ)された一戸建て・・私の老後で喰いつぶしてしまうけれど、
とこのような意味合いの言葉を家内に言った、と後日に私は家内から聞いた。
                         
私は家内に結婚してまもない時に、
お義父(とう)さんとお義母(かあ)さんが築きあげてきた財産に関して、
どのようにお使いになっても、僕は関係ないょ・・と私は家内に言ってきた。

こうした私の根底には、私が結婚する時、私の母から、
男子(だんし)たる者は、奥さんの実家の財産をあてにするのは、最低の男だからねぇ、
と私は叱咤激励されたので、もとより家内の母のいつの日にかの遺産は、あてにしてこなかった。

やがて家内の母は、年金に毎月3万円頂くので助かるわ、と家内に言ったと、
と私は家内から聞いたりして、悦んだりした。

そして家内の母は、自身の葬儀代を預けるから、と家内に程ほどの金額を振り込んだ、
と私は家内から聞いたりして、私は微苦笑しながら、
お義母(かあ)さんらしいねぇ、と家内に言ったりした。

                                                                       
しかしながら私は家内の母に対して、たったひとつだけ困惑することがある。

年末年始の時節になると、独り住まいの家内の母に年末に我が家に来宅してもらい、
私たち夫婦と共に新年を我が家で過ごした・・。

こうした過ぎし10年前のある日、居間の炬燵に入り、食事をしたり、談笑したりすることが多かったが、
ある時、家内の母が、『あたし・・やっぱり・・百まで生きたいわ・・』
と呟(つぶや)くように家内に言ったりした。

まもなく家内から私は聞いたりした時、私は家内の母が100歳になる事は、
私は86歳、家内も81歳の高齢者となるので、
私は困り果てて、勘弁してょ、と心の中で思いながら、笑ってごまかしたりした。
                                   
家内の母が百歳まで生きられたら、老々介護以前に、
私たちのどちらかは片割れになるか、或いは夫婦ふたりとも死後の世界、
と思ったりしたのが根底であった。

人それぞれ永(なが)らえるのは、自助努力も肝要であるが、
こればかりは神様か仏(ほとけ)さまの采配による、
と私は思い深めているひとりである・・。

                       

そして家内の母は、娘ふたりに介護されている中、
『私・・このようになること・・思ってもいなかったわ・・』
と数が月前に、私に電話で詫びたりしたことがあり、私は微苦笑したりした。

この後、家内は大病した後、体調はおぼつかなく、
やむなく家内の妹に介護をお願いして、
やがて家内の母は介護施設に入居して、月の数日だけ自宅に戻り、
この時は家内の妹が、宿泊しながらお世話をしている。

そして私たち夫婦が、どちらかがいつの日にか介護・要になったり、
やがてどちらかが死去して、おひとりさまになった時・・
予測した以上に多事多難があると思われる・・。

このように私たち夫婦は、年金生活の中、家内の母が老後で介護されるまで、
実感させられてきた・・。

こうした思いを秘めて、今回の《・・死にたくても死ねない、「100歳まで生きた人」が抱える胸の内・・》、
真摯に学びたく、記事を読んだりした・・。

この記事は、『週刊現代』2021年10月2・9日号に掲載された記事で、
関連の【 現代ビジネス 】に於いて、11月3日に配信され、
無断であるが、記事を転載させて頂く。



《・・

☆息子の嫁と二人暮らしで

薬も飲まず、風邪もひかないという浪川正二郎さん(104歳、千葉県在住、仮名)が、
遠い目をしながら明かす。

「15年前に妻が、長男も5年前に死んでしまいました。
日中は、庭の草むしりくらいしかすることがないから、
ただ悲しさとともに生きるだけです。

それまで空を照らしていた太陽が、地平線に隠れて、
すっかり辺りは、暗くなってしまった。
今の私は、そんな人生の日暮れ時を迎えています」

正二郎さんは現在、亡くなった長男の妻と2人きりで、戸建て住宅に暮らしている。

—自分を見守ってくれる家族との折り合いはどうですか?

そう正二郎さんに尋ねたところ、苦しい胸の内を明かした。

「この家は、私と息子の資金で建てたので、追い出されずに済んでいます。

ただ・・・息子の嫁さんが、つくってくれるのは、
味気ない味噌汁に、野菜と魚を煮たものばかり。

塩分を気にかけてのことだろうけど、
あるとき『美味しくないよ』と愚痴をこぼしたら、怒られてしまってねえ。

本当はマクドナルドのハンバーガーが大好きなんだけど、
嫁さんが『そんなもの食べるな』と口うるさいから、
孫が家に来るときに、こっそり買ってきてもらうんだ。

嫁さんの機嫌が悪いときは、呼びかけても、無視されるんだよ。
私の生き死には、嫁さんに握られているし、
彼女は、『お前より一日でも長生きしてやる』って、そればっかり言うんだ。
もう聞き飽きたよ」

面倒を見てもらい、ありがたいと思う反面、自分が家族の足枷になっている、
その人生を奪っているのかもしれない、と考えてしまうつらさ。
家族関係のひずみもまた、長く生きるうえでは避けがたい悩みである。

 

103歳を迎える田岡ヨネさん(福岡県在住、仮名)は
戦後まもなく、夫とともに酒屋を創業した。
街の居酒屋やスナックなどに酒を卸し、生活必需品を提供する商店としても繁盛した。

80歳を超えるまで、一日も休まず、
その日の売り上げと利益を計算し、帳簿をつけてきたという。
ただ、最愛の夫は12年前に亡くなった。

ヨネさんを介護する長男が語る。

「母は時々、自分の預金通帳を眺めて、
『こんなに(残高が)減ってしまった』と嘆くことがあります。

私が介護などの必要な経費に充てているから、といちいち説明するのですが、
自分でおカネを管理できなくなったのが寂しいようです。

持病はなくても、筋力が落ちていくので、自分でできることが少なくなってゆく。
会話もおぼつかなくなっていますが、それでも生き続けてしまうことが、苦しいようです」



☆死にたくても死ねない

100歳まで生きる人の中には、
「死にたくても死ねない」という苦悩を抱く人もいるようだ。

孤独感や介護にかかる費用面での不安や、
介護してくれる家族に、いつまで迷惑をかければよいのか、という申し訳なさ。
本当は、早く死んでしまったほうがいいのかもしれない・・・ヨネさんもそう思っている。

「母は毎朝目が覚めるたびに、
『また、今日も生きている・・・』と思うそうです。
長女を78歳で亡くしたときは、『なぜ私だけが、まだ生きているのか』と嘆いていました。

母のベッドのそばに、父の遺影が飾られていて、
『お爺さんのところに早く行きたい』と言いますが、
身体に悪いところはとくにないから、死ねない。

母の世代は、天寿を全うするのが当たり前と考えていますから、
自死などはせず、自然死を望んでいます。

なので、死にたいと願いながらも、生き続けてしまうことに
葛藤を抱えているようです」(ヨネさんの長男)

100歳を超えての人生とは、生と死をめぐる葛藤と矛盾という微妙な感情を抱え、
自分も、周囲も、生きていくことに他ならない。



昨年、103歳の生涯を閉じた精神科医の高橋幸枝さんは、
亡くなる半年前に出版した著書で、「生きることとは、不安と共生しているようなものだ」と語っている。


普段は「いつ死んでもよい」と威勢よく話していても、
いざ発熱に見舞われたときは、とうとう死ぬのではないか、と不安な気持ちになる。
死への願いとともに、生への執着も、併せ持つ矛盾を抱えていると記すのである。


100歳を過ぎれば、すでに健康を失ってしまった人もいる。
幸せなのか、不幸なのかという気持ちを感じることも、
自分が生きているかどうかも判然としないまま、生きているケースも多い。

今年100歳を迎えた川崎ヨシエさん(東京都在住、仮名)は、66歳の時に下半身不随になった。
ほどなくして直腸がんが見つかり、認知症も患った。
それから実に33年間にわたって、ヨシエさんを在宅介護し続ける次女が告白する。

「10年前から認知症がひどくなり、
実の娘として判別してくれないこともあれば、
『食事に毒が盛られている。私を殺そうとしている』
と暴言を浴びせられることもありました。

今は、自分が100歳を迎えたことも、わかっていないでしょう。
マスコミが取り上げる元気な100歳というのは、ほんの一握りだと思います。

認知症が悪化しても生き続けているのは、
本人にとって幸せなことなのか、よくわかりません」

9月20日の敬老の日に合わせて、
ヨシエさんのもとに”ある物”が届いたが、それも意味がないと次女は語る。

「菅総理の名で100歳を記念する祝い状と銀杯が贈られてきました。
さらに地方自治体からは、巾着袋と布製のカード入れ、
そして袋に詰められた紙吹雪が贈られてきた。

お祝いに使うようにとのことなのでしょうが、
認知症の進んだ母にも、私たちにとっても、無用の長物ですよね」

これからの時代、あなたも100歳まで生きる可能性は十分にある。

日本では、人口が急激に減少してゆく一方で、100歳以上人口はどんどん増え続ける。
2067年にはなんと、100歳以上の人々(56万6000人)が、
日本に生まれてくる新生児の数(54万7000人)を上回ると予測されているのだ
(国立社会保障・人口問題研究所の推計による)。

100歳を超えてどう生きるかは、国民的な課題となっていくだろう。


☆成りゆきに任せて生きる

長生きすることは、果たして幸せと言えるのか。

どんなときに幸せを感じるか・・・
やや耳が遠い丸山平九郎さん(103歳、長野県在住、仮名)にそう尋ねた。

すると、長女を通訳代わりに、丸山さんはこう話してくれた。

「好きなときに起きて、好きなときに寝る毎日ですから、ストレスも不自由もありません。
時間は、たっぷりあるので、ゆっくりいろんなことを見ていますね。
見る角度で、お顔が変わって面白いので、仏様をずっと見るのが好きです。

それと今は、一年にたった一度しか咲かない月下美人を、温室で育てています。
5年以上も咲かなかったのに、急に咲きだすこともある。

時間と根気だけは、人一倍あるから、一人で黙々と育てているのが、何よりの幸せです。
若い人たちには、この先のことを心配していても、仕方がないから、
明るい世の中のことを想って、生きてほしいと伝えたいです」

 

103歳の野呂健吉さん(北海道在住)も、前を向いて生き続ける。

健吉さんは、趣味の弓道を12歳で始めて以来、
戦争への従軍などで、ブランクはあったものの、今まで続けている。
弓道範士九段という最高位を持つ腕前で、全国各地を飛び回って指導してきた。

「週に2回は、弓道場に出かけて弓を引いていましたが、
コロナ禍で、弓道場がすべて閉まってしまった。

今は前向きに、再び開くことを願いつつ、週4回ほどデイサービスに通いだしました。
軽い運動や体操、習字などで、大勢の人たちと交流する時間を共有できて、とても幸せです」

前編【周りはみんな死んでいったが…“100歳超え”のお年寄りに聞いた「リアルな生活」】に
登場した日本人男性最高齢者の上田幹藏さんもこう語る。

「年老いて人間関係に悩む人は、多いと思いますが、あまり深刻に考えても意味がない。
クヨクヨ悩まず、ただ成りゆきに任せて、生きることも大切な技術だと思います」

考えすぎても、キリがない。
長く生きれば、人生の重荷も増えていく。
だが、それも天の配剤だ。どんなことも、やがてあるべき場所に還り、なるようになる。

100歳を超える人々は、そう考えて今を生きている。・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。 
 
 

今回、《・・ 死にたくても死ねない、「100歳まで生きた人」が抱える胸の内・・ 》、
学びながら、 やがて目頭が熱くなり、涙を浮かべたりした・・。

特に私は深く学んだことは、
《・・103歳の生涯を閉じた精神科医の高橋幸枝さんは、
亡くなる半年前に出版した著書で、「生きることとは、不安と共生しているようなものだ」と語っている。

普段は「いつ死んでもよい」と威勢よく話していても、
いざ発熱に見舞われたときは、とうとう死ぬのではないか、と不安な気持ちになる。
死への願いとともに、生への執着も、併せ持つ矛盾を抱えている・・ 》

こうした晩年期の深淵を学び、復誦(ふくしょう)するように心の中で、
思い重ねたりしている。

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“100歳超え”のお年寄りに聞いた「リアルな生活」、77歳の私は学び、やがて深く溜息をして・・。

2021-11-04 13:39:19 | 喜寿の頃からの思い

先程、ヤフージャパンより配信されたニュースを見ている中、
『 周りはみんな死んでいったが・・・
    “100歳超え”のお年寄りに聞いた「リアルな生活」
』、
と題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住み、年金生活の77歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

こうした中で、私は年金生活を丸17年過ごしてきた中、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフの私なりの健康体の三種の神器として思い、過ごしてきた。

そして私は何よりも認知症、心筋梗塞など恐れ、
殆ど毎日のように自宅の周辺3キロ範囲にある遊歩道、公園、住宅街を歩き、
ときおり認知症だけは勘弁してねぇ・・と秘かに祈願しながら歩く時もある。



こうした中で、
70歳の頃から体力の衰えを実感し、
時折もの忘れもあり、独り微苦笑をしたりしている。

過ぎし日に、厚生労働省の公表によると、2016(平成28)年時点で、
日本人の健康寿命は、男性が72.14歳、女性が74.79歳と推計され、
平均寿命と健康寿命の差は、男性約9年、女性約12年と報じられている。


もとより「健康寿命」は、日常的に介護を必要としないで、
自立した生活ができる期間であり、
私は今年の9月で、満77歳となり、何んとか男性の健康寿命には、
何とか乗り越えている、
と思ったりする時もある。

しかしながら私の友人、知人の7人は、すでにあの世に旅立っているし、
或いは私より8歳ご年配の知人は、心身溌剌とされている御方もいて、
あくまで健康寿命も男性の平均であるよなぁ・・と思ったりしている。

このような深情を秘めている私は、
今回の《・・“100歳超え”のお年寄りに聞いた「リアルな生活」・・》って、
どのような日常生活をお過ごししているのですか、
と思いながら記事を精読してしまった・・。


この記事は、『週刊現代』2021年10月2・9日号に掲載された記事で、
関連の
【 現代ビジネス 】に於いて、11月3日に配信され、
無断であるが、記事を転載させて頂く。



《・・「とくに長生きしようと思っていたわけではなくて、
ただ自然のなすがままに任せていたら、いつの間にか長生きしてしまったんです」
今年5月で111歳を迎えた、日本人男性の最高齢者である上田幹藏さんは、ゆっくりと語った。

現在は、奈良県内の介護老人保健施設に入所し、
孫やひ孫とのオンライン面会を励みに、毎日を過ごしている。  

幹藏さんのような100歳を超える高齢者は、全国に約8万6000人いる。
昨年と比べて8%近く増えており、51年連続で過去最多人数を更新するという。

そのうちの9割を女性が占めているが、
男性の総数も今年初めて1万人を超えた(9月15日時点、厚生労働省の調査による)。  

医療の進歩などで、ご長寿が増えることは喜ばしいことであり、
実際に長生きしたい人も多いに違いない。

だが、その人たちは、毎日を幸せに過ごせているだろうか。  
喜びも悲しみも幾歳月。人生が長ければ、幸福を感じる機会も増える。

だが反対に、他の人が経験しない、
つらい出来事にも向き合わなければならないことがあるかもしれない。  

そこで、100歳まで生きる人たちに、
どんなことを思いながら、日々生活しているかを、ストレートに聞いた。
ご長寿の方々が明かしてくれた率直な気持ちは、この先の人生を考えるうえでのヒントになるはずだ。  



☆ご長寿の方々が明かしてくれた率直な気持ち

―100年を超える人生、長く生きていてよかったと思いますか? 



☆もどかしい。けれど




私は1944(昭和19年)の9月に農家の三男坊として生を受けて、
今年は数え年77歳となり、9月の誕生日を迎えて満77歳となり、
お祝いの言葉で表現すれば、『喜寿(きじゅ)、』の年となる。

あと3年過ぎれば、満80歳のお誕生日となり、
これまでと同じように散策したりすれば、何とか「健康寿命」で迎えられるかしら、
と思ったりした・・。



過ぎし2010年8月下旬の頃に、私は医学博士で病院長の帯津良一さんに、紙上でめぐり逢えた。
新聞の出版広告で偶然に読み、この雑誌が女性月刊誌の『婦人公論』と知り、
私は恥ずかしながら買い求めて、精読したりした。

《・・(略)・・
人生は生老病死・・・つまり死も含めて、丸ごと自分の人生なのだから、
「死に時」も「死に方」も自分らしくありたいという考えが基本です。                                                         

「いたずらに死を恐れるあまり、不要に長生きしても意味がない」と考えるようになったのは、
このホリスティック医学の考え方に共鳴し、
その理念に基づいて自らの病院を設立した40半ば以降です。

・・(略)・・
年齢に関していえば、80歳くらいまで生きれば、十分ではないですか。
もちろん、肉体面でも精神面でも、人それぞれ個人差がありますから、一概には言えません。

しかし、自力で自由に動けるのは、せいぜい80代まででしょう。
90代になると、何かしら衰え、欠けてくる。
いくら頭がしっかりとしている人でも、足腰が立たなくなったり、その逆のケースも起こります。

ましてや100歳なんて、どんな人でもポンコツになっているはずですよ(笑)。
おめでたいと言うけれど、100歳以上は、やはり「生き過ぎ」だと私は思います。

これとこれができなくなったら、自分はそろそろ「死に時」かもしれない。
その線引きは、人それぞれですし、それがわかれば、
「生きているうちに、これだけはやり遂げておこう」という人生のテーマも見えてくる。

つまり、自分にとってベストな「死に時」を考えことは、
今、生きているこの時間を、最大限に充実させて生きていくことにもつながるのである。(略)・・》

                                                  
このようなことを私は深く学び、今後の確かな晩年期の導きの御人にめぐり逢えた、と深く感じて、
これ以降、帯津良一さんの言動、ご著書も購読したりして、信愛を重ねている。

そして私は、いつの日にか大病か介護・要になってしまった時、
自身で食べ物を口に運べなくなった時は、
この世にお別れする時だ、と深く思ったりする時もある。



このような思いを秘めてきた私は、
数え年88歳(満87歳)の『米寿(べいじゅ)』には、
あと10年かょ・・と漠然と思い馳せたりした・・。

こうした中で、日常生活を自立した言動で迎える健康寿命には、
余りにも高望みと思ったりした。

益々体力の衰えも実感して、生かされても要支援で過ごせれば、
幸いだよなぁ・・と微苦笑したりしている。

しかしながらこればかりは、自身の自助努力も大切であるが、
神様か仏様が采配される世界だよなぁ・・と微苦笑したりしている。



尚、今回、学んだ『 周りはみんな死んでいったが・・・“100歳超え”のお年寄りに聞いた「リアルな生活」』、
続編として、『 死にたくても死ねない・・・長寿大国の日本で「100歳まで生きた人」が抱える胸の内 』、
掲載されていたが、近日に私なりの思いをこのサイトで公表する。

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介護施設の入居時、遅過ぎた場合、早や過ぎた場合、77歳の私は学び、多々教示されて・・。

2021-11-03 16:07:11 | 喜寿の頃からの思い

☆いつ施設に入るかという問題

私は今年65歳、持病があっても元気だし、ボチボチ仕事もしている。

でも、20年ほどの自立期(自分で身の回りのことを処理できる期間)の老後を経て、
最後は、長い短いはあるが、必ず誰かの手を借りる=介護が必要となるだろう。


介護には、大きく分けて「在宅介護」と「施設介護」がある。

ファイナンシャルプランナー(以下FP)としてよく問われるのは、介護費用のことだ。
最近よく使われるデータとして「生命保険文化センター(2018年度)」の調査がある。

私の実感もそれに近いので、紹介させてもらうと、
「在宅介護」が月額4.6万円、「施設介護」が月額で11.8万円。
平均介護期間は、4年7ヶ月。

さらに、それぞれ介護が始まる段階で、
「在宅介護」の場合は、リフォーム・設備代がかかり、
「施設介護」では、入居金が必要な場合もあるので、
それらの一時金と月々の費用を足すと、概算で介護の平均総額は300万~1500万円となる。

これが高いか安いかは、人の懐具合による。

〔PHOTO〕iStock
 
 

平均介護期間は、4年7ヶ月だが、
介護が始まって、すぐ亡くなる方もいれば、
10数年寝たきりの人もいる。

介護に関しては、人それぞれなので、平均値は本当に目安にすぎない。

「在宅介護」は、支援の種類や金額がある程度決まっているので、わかりやすいが、
問題なのが「施設介護」だ。

一口に介護施設といっても、介護度や必要となる支援や費用の多寡により、
特養、有料老人ホーム、サービス付き高齢者住宅など10種類ほどに細分される。
選択肢も多くなってきた分だけ迷うし、入りたくても費用や空きがないと入れない。

肝心なのは、施設入居の場合、
誰が入居を決め、いつどこの施設に入るかという点だ。

私のまわりを見ても、本当に適切な時期に、適切な施設に入るのは、
かなり至難の業なのだ。



基本的には、自分の受ける介護は、自分で決めるべきだと思っている。
ただ、積極的に自分から進んで、施設に入る高齢者は少なく、
往々にしてぎりぎりまで我慢するため、
まわりが見るに見かねて、段取りする施設介護になりがちである。

こうした「遅すぎる介護」は、本人にとって不本意なものとなる。
一方まれに「早すぎる介護」で、老後がつらくなるという場合もある。

そこで私が知る事例で施設入居時期の問題を考えてみたい。

 

☆遅すぎた介護

まず遅すぎた介護だ。
この事例はFP相談でなく、友人のY子からの愚痴の混じった相談だった。
ただとても記憶に残り、かつ残念な結末であったので紹介する。

Y子と同じ市に住むA代さんという方が居た。
Y子の伯母である。

A代さんは、子供2人を一人前に育てあげ、
70歳の時に夫を亡くし、その後94歳で亡くなるまで、ほぼ四半世紀をひとりで暮らした。

A代さんの住まいは、一戸建ての持ち家、
勤め人だった夫の遺族年金、それに節約家の夫が貯めた金融資産(推定5000万円)があり、
つましい生活が習い性で、生活費の支出も少なく、
おまけに体が丈夫で、これといった持病もなかった。

健康でお金をもっている年寄りは強気で、
Y子がよく聞いた70~80歳の頃の口癖は「誰の世話にもならない」だった。

A代さんは、子供や孫の来訪を喜ぶ人ではなく、
年に数回アリバイ的に帰る子供たちのことも、快く思っていなかったようだった。
「お金がかかるし、ひとりの気楽な生活を乱されたくない」と言っていた。

子供たちのほうも「元気だから、ほうって置いても、ひとりで大丈夫」
と思っていたようだ。

こういう状態が何年も続き、連絡も時々の電話のみとなり、行き来はなくなった。
大げんかしたわけでも、何か事件があったわけでもないが、お互いに疎遠になっていった。




元気なうちはよかったが、85歳を過ぎたあたりから、
だんだんとひとり暮らしが、厳しそうな様子になったので、Y子やご近所が民生委員に相談し、
デイサービスや宅配弁当やヘルパーさんなどの生活介助を勧めたが、
「他人が、家に上がるのは嫌! だいたい掃除や炊事に、お金なんて払えない。もったいない」
とニベもなかった。

本人が強く拒否すれば、他人は手出しできない。

介護保険の認定も年々厳しくなっているが、
こうした介護保険未満の自立したひとり暮らしのちょっとした生活支援は、自費になる。

もし、施設介護をのぞんでも、比較的費用の安い特養老人ホームは
要介護3以上でないと入れないし、空きも少ないので、
自立型有料老人ホームかサービス付き高齢者向け住宅(食事付き)という選択肢になる。

その場合の費用は、ランクにもよるが、入居金を別にして毎月15万~30万円だ。

 

☆子供にも熱意がなかった

ほとんどの場合、高齢者がこういう状況になると、
離れて暮らす子供や、身寄りがなければ親戚、友人、それもいなければ、公的機関に連絡が行く。

子供や親戚や福祉の担当者が、介護の必要性を説いて、
高齢者も、まわりに見放されたくないから、渋々受け入れるものなのだが、
A代さんの場合は、そうならなかった。

なぜかというと本人が嫌がり、子供たちに説得する熱意がなく、
かつ親の財産が減るのを嫌がったからだ。

介護の世界では、子供は絶対的権限を持つようになる。
どんなに親切なケアマネでも、どんなに素晴らしい施設でも、
子供の意見を無視しては、介護できない。

認知症などの場合はもっと顕著で、本来なら最も尊重されるべき本人の意志より、
子供の意見が通る。
しかも、残された財産が相続対象になるので、お金に関しては実は子供は究極の利害関係者なのだ。

では、A代さんはどうなってしまったのか



☆家はゴミ屋敷状態に

A代さんが頑固に「まだ、大丈夫」、「家にいたい」というのを、
子供たちは、自分に都合よく解釈した。

まわりの心配を無視し、現実を直視することなく、
「本人が言うから大丈夫だろう」と放置した。
ひとり暮らしを続けてくれれば、大してお金はかからない。

とくに90代になってからの生活は、悲惨だった。

手押し車を押して、自力で買い物はできたが、
一歩家に入れば、ゴミの分別ができないので、缶や瓶が散乱し、
掃除はしないので、汚れ放題、垢じみた服は脱ぎ捨てたまま、お風呂はほとんど入らず、
冷蔵庫は、賞味期限切れのもので、一杯の状態。

晩年まで、確かに自由で自立していたが、とても人間らしい暮らしではなかった。

そして、やっと子供たちが、介護認定を受けさせ施設に入ったのは、死ぬ一年前だった。


この例のような「遅過ぎた介護」は、
本人が介護を受け入れる覚悟がなかったのが、一番の原因だ。

自分で家事や介護を無償で担ってきた人は、一般的に家事や介護に対する評価が低い。
家族が無償で、家事や介護をやるのはアリだが、
他人にお金を払ってやることではないと思うようだ。

その上、節約家は、往々にして有効にお金を使うという発想がない。

また、なまじお金を持っていると、猜疑心が強くなり、他人との交わりを避ける。
そして子供が非協力であったら、いくらお金があっても、介護にはたどり着けない。

これは特別な事例でなく、この程度の頑固な年寄りは、よくいるし、
親に無関心なくせに、遺産はできるだけ欲しいという子供もいる。

☆早すぎた施設入所

次は早すぎた介護の話。あまり例はないが、ご紹介する
(FP相談の事例を元にしているが、守秘義務があるのでかなり内容を変えてある)。

S子さんという公務員だった方のお話だ。

S子さんは高校卒業後、実家を離れ都会の大学へ行き、その地で就職した。
両親は、すでに他界、田舎の兄弟とも疎遠。

独身で子供はいない。
60歳で退職後、数年は非常勤講師をやって、65歳からは、本格的年金暮らしに入った。

そのころから自分の老後が心配になり、本を読んだり、セミナーに出たり、情報を集め出した。
そこで出した結論が「頼れる身寄りがいないから、
自分がしっかりしているうちに、終の棲家を探そう」ということだった。

健康なので、選択肢は自立型の有料老人ホームか食事付きサービス付き高齢者住宅。
早速、資料を取り寄せ、実際に自分で行って見学した。

老人ホームといっても、自立型なので、まわりは元気な高齢者ばかり、
狭いけど全室個室でありプライバシーはあるし、
建物は清潔、見守りや食事の提供はあるし、サークルもあり、
外出も届ければ自由で、介護が必要になったら、系列の介護付きホームに移れる。


もともと掃除やご飯作りが苦手なので
「家事から解放されたマンションみたい」とすっかりその気になった。

そこは一時金980万円、月々16万円と有料老人ホームでは、比較的安い所だった。
もちろん、年金や貯蓄を考えると、もう少し出せたが、
元気なうちは旅行もしたいし、安いに越したことはないと考えた。

荷物を整理し、ローンの終わった1LDKのマンションは、賃貸に出し、
身軽になってホームに入所した。

 

☆何かが違う…

そこでの生活は、最初から思ったのとは、微妙に違っていた。
食事も確かに作らないので楽だけど、薄味で、主菜は骨のない魚が多くワンパターン。
ご飯は軟らかく、カレーは甘口のみ。

刺身など生ものは、まず出ないし、野菜も熱を通したものが多く、
漬け物やサラダや果物は、ちょっとだけ。
香辛料や刺激物、ニンニクすら使わない料理ばかりで、インパクトがない。

おまけに大好きな麺類も、作り置きがきかないのでほとんど出ないし、
たまに出ても、箸で持ち上げられるほど、固まったそばやスパゲッティだった。

ビックリしたのは、新聞を取っている人が、ほとんどいないこと。
パソコンどころか携帯電話すらもっている人は、少数派だ。
S子さんは、パソコンなしの生活は考えられないし、ネット通販も大好きだった。

それでも、安心を手に入れたのだからと、ホームでの生活は我慢し、
外に楽しみを求めた。

毎日のように外出して、図書館や本屋さんに行き、
帰りは、喫茶店や公園で、ゆっくり大好きな本を読む生活。

行きたかった海外旅行に行き、
友人が誘ってくれれば、映画や小旅行にも出掛けた。
外に出れば、打ち立てのそばも、熱々ラーメンも、エスニック料理も味わえる。

 

☆入居者からの嫉妬

冷静に考えれば、ホームにいる入居者は、ほとんど80歳以上、
文化も価値観も違う他人同士の集団生活、生活時間も決められている。

有料老人ホームに入れる人は、一般的に経済的に恵まれているが、
低価格帯のホームは、経済的に余裕のない人も多い。

特養の空きを待つ人、一時金で預金を使い切り、月々の費用は厚生年金ギリギリ、
もしかしたら、一時金は自宅を売って工面し、
月々の費用は年金では足りなくて、子供たちから仕送りしてもらっている人もいただろう。

金銭的余裕がない人から見たら、
お金に余裕があり、若くて元気に外の世界にどんどん出て行くS子さんは、
羨望や嫉妬の対象だ。

暇をもてあました人たちの悪口大会になってしまったようだ。
ようは浮いてしまったのだ。

ひとり暮らしの孤独には耐えられても、集団の中の孤立は耐えられない。

毎日食堂で顔を合わせるのも苦痛になり、友達に相談し、
その友人のご紹介で、私の所にご相談に来たのだ。
結局、S子さんは2年たたずに、そのホームを出た。



一時金は、半額しか戻ってこなかった。
大事な老後資金を約500万円も減らし、
本人は「もう施設はこりごり」、「高い勉強代だった」と言っていた。

でも、たしかに今回は、入居が早すぎたが、いずれ介護は必要になる。
そのギリギリの時期まで、いろんな手助けを利用して、一人暮らしをすることにした。

具体的には、とりあえず家計費を見直して、5万円の別枠の予算を組んで、
このお金を「安心」のために使うことにした。

非常ボタンで駆けつけてくれるホームセキュリティ。
毎日届けてくれるおいしい宅配弁当(安否確認もしてくれる)。
週1回のお掃除サービスなどである。
そして今も呑気な一人暮らしを続けている。

 

☆いつ施設に入るのがいいのか

いろいろな方の施設入居を見ていると、安心と自由は、両天秤だなと思う。

仕事をやめた自立期の高齢者は、手元のお金の多寡はあっても、
好きに使える時間だけは、タップリある。

何時に起きても、何時に寝ても、誰にも文句はいわれない。
こんな勝手気ままで自由な暮らしを10年、20年過ごしていると、
それを手放すのは本当につらい。

若い人は、自立期の高齢者の生活をよく知らないし、
高齢者の自由な生活を過小評価している。

呑気に暮らしていた人が、いきなり生活の時間が決められた他人との集団生活に入れ
と言われても納得できないのもわかる。

では、どうするか? あくまで私の考える自分自身の介護だが、
まず介護認定を待たず、生活に不安や不便を感じたら、自立支援を出来るだけ早く受ける。

介護される状況に慣れていれば情報も入るし、次のステップに進みやすい。
介護度が進むにつれ、訪問介護や訪問看護を受ける。
近くに「看護小規模多機能施設」など「在宅支援事業」があったら支援を受ける。


その時、家族が近くにいるかどうかはわからないが、
もしいてもあまり無償の家族の手を当てにしないつもりだ。
家族だって生活があるし、まして介護離職は子供の未来を奪うことになる。

そして、ギリギリまで在宅介護をのばし、最期は施設に入居しようと思ってる。
目安としては要介護2~要介護3。

要介護2は、家事や身の回りのこと全般に見守りや介助が必要な状態。
要介護3は、立ち上がりや歩行などを自力で行えず、
日常生活で常時誰かの支援や見守りが必要な状態だ。

ここまで来ると自由より、安心というあきらめがつくだろう。
あきらめという納得がないと、施設入居になかなか踏み切れないだろうと思う。

もうひとつ大事なのが、誰を自分の介護のキーパーソンにするかを決めておくことだ。
もちろん自分の意志が一番だが、「その時」を自分で判断できるとは限らない。
「もう無理だよ」と後ろから背中を押してくれる人が、絶対必要だと思っている。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。 

 
 


今回、ファイナンシャルプランナーの長野 郁子さんが、
介護施設の入居時、遅過ぎた場合、早や過ぎた場合、懇切丁寧に記載された寄稿文であり、
私も、いつの日にか到来する介護される施設の入居時について、
真摯に学びたく、記事を読み、多々教示された・・。

私は年金生活を丸17年過ごしてきた中、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフの私なりの健康体の三種の神器として思い、過ごしてきた。

そして私は何よりも認知症、心筋梗塞など恐れ、
殆ど毎日のように自宅の周辺3キロ範囲にある遊歩道、公園、住宅街を歩き、
ときおり認知症だけは勘弁してねぇ・・と秘かに祈願しながら歩く時もある。

こうした中の2年前、ご近所の84歳の知人の男性より、
どんな高名の御方でも、長生きをされれば、体力は衰え、老体となり、
やがて誰でも紙おむつのお世話になるから・・、と私は教えられて、
少し動顛させられたりした・・。

もとより介護の難題は、いつまで介護を受ける必要な期間が判らず、
やがて永がられば本人の自己負担額が増し、貯金は切り崩しても資金不足となり、
当然ながら、退所が余儀なくされて、行き場がなく迷子のような介護難民になることである。

こうしたことを思案した上で、少しだけ安楽な晩秋期を過ごせば・・、
溜息をしながら、思い馳せたりしている。
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山村美智さんの36年半連れ添った亡き夫との日々を綴るエッセイ、77歳の男性の私は、真摯に学び・・。

2021-11-02 15:13:17 | 喜寿の頃からの思い
山村美智氏が新作について語る

山村美智氏が新作について語る

【著者インタビュー】山村美智氏/『7秒間のハグ』/幻冬舎/1430円


「私も闘病記の類を読むのは苦手だし、書こうとも思わなかった。
この本は『こんな夫婦もいるんだな』という面白い読み物として、
楽しんで下されば嬉しいです」


元祖ひょうきんアナとして知られ、現在は女優としても活躍する山村美智氏。
昨年12月、彼女は元フジテレビの名物プロデューサー、宅間秋史氏を1年半に亘る闘病の末に亡くし(享年65)、
その心身の空白を綴ったのが本書、『7秒間のハグ』だ。

表題は、夫婦が日課とした、ごくごく軽めの抱擁のこと。

「食道癌が見つかったのが2019年7月。
元々ハグは毎日していましたが、7秒すると絆が深まるらしいよって、
夫がどこかから聞いてきて。

体調の悪い時や喧嘩の最中でも、いーち、にーいってふざけた感じでいいの。
歯磨きなんかと同じで、ただの決め事だから。
でもその7秒を毎日やることで、本当につらい時も深く向き合えるようになるんです」

驚くことに第1稿完成は、夫の死からわずか半年後。

「最初は『書いた方がいい。少しは哀しみから抜け出せる』って人に勧められても、
『絶対無理』って逃げ回っていたんです。

でも毎日泣いてばかりもいられないし、彼がどんなにチャーミングな人だったか、
仕事の面も含めて知ってほしいという使命感から、
『書いてもいいかも』って、ふと思った。

ただ、いざ書き始めると、本当につらくて、
痛くて、涙を洪水のようにボタボタ流すことにもなった。
でも結果的に書いてよかったです。



彼は編成局のプロデューサーだったから、一般にはあまり知られていなかったし、
退院後に作りたい映画の企画が5本もあって、
全然諦めていなかった姿を書くこともできたので」

ドラマ『29歳のクリスマス』や映画『ウォーターボーイズ』等を手がけ、
ミスター・フジテレビとも呼ばれた秋史氏。

その横顔を、山村氏は〈モダン会〉なる気の合う局内の仲間同士で行った、
大磯の海から書き起こす。

顔ぶれは2人の他、現フジテレビ副会長の遠藤龍之介氏、
『東京ラブストーリー』や『ロングバケーション』を後に演出する永山耕三氏、
そして寺尾のぞみ氏の5人。

部署もバラバラな彼らは、青春を取り戻すかのように、夜の海ではしゃぎ、
その中の2人が結婚に至るのも、よくある話ではある。

「5人だからよかったんでしょうね。
どこか俯瞰的な感じがあって、1対1の時より人のことが多角的に見える。
その中で、あっ、この人、いい人だなって。

そうやって結婚前の話や局アナ時代の裏話、
あとは秋史の浮気が発覚した時の修羅場も交えつつ、幅広い層が読める本にしたかった。

それこそ浮気の証拠を見つけた時は、『これはドラマ?』って思いました(笑)。
昔、『徹底的に愛は・・・』というドラマで、外務官僚の夫に浮気された妻を演じたんです。

その時、大きな窓に鬼の形相で、花瓶か何かを投げつける場面があったんですね。
『さすがに激し過ぎたかな?』って後で離婚経験者の友人に聞いたら、
『全~然。現実の修羅場はあんなもんじゃないわよ』って(笑)。

まあうちは窓こそ割れなかったものの、
夫が独立したり病気になったり、ドラマ以上にドラマチックな36年半ではありました」


多忙ですれ違いも多かった夫婦は2003年、夫の転勤でNYへ。

父を早くに亡くし、母1人子1人で育った山村氏には、
母の呪縛から逃れるために、結婚した部分もあったが、
秋史氏は、そんな母に対する愛も憎も、丸ごと受け止めてくれた。


「私は3人以上の家族経験がなく、母といた時も結婚直後も、
ずっと1人で淋しかったんです。
それが何事も、2人単位のNYで夫婦の時間を持てて、やっと家族になれた気がした。

例えば再び1人になった私のことを心配して下さる方は、有難いことに大勢いる。
でも家族じゃないんですね。

こうやって取材を受けたり、女優のお仕事をしている時もそう。
私は元気なフリをしていて、本当の気持ちが、時々わからなくなるんです。
受け止めてくれる家族がいないから。

とりあえず今は97歳になった母や、ワンコがいるから
意地でも生きなくちゃって思ってますけど、いつかフリがフリじゃなくなる日がくるのかなあ・・・」


☆最後の最後まで奇蹟を信じた

夫婦は〈二心二体〉だと主張する夫に、一理あると思いつつも抗う妻の関係は、
最長110日にも及ぶ入院生活を通じて徐々に変化。

中でも北向きの窓から注ぐ日差し、
〈ノースライト〉に包まれた2人だけの時間は、コロナ禍で面会が制限される中、
たとえささやかでもあってよかったと思うほど、穏やかで、かけがえがない。


「祈祷も含めて、やれることは全部やりました。
『気が済むまでって何?』って言いたくなるくらい、
私たちは最後の最後まで、奇蹟を本気で信じた。
それしか、救われる術がなかったんですね。

そんな中、最後の病室が北向きで、微かな日光しか拝めない毎日でしたけど、
夫の隣で寛ぎ、体温を直に感じられたのは、本当に幸運でした。

確かに一心同体の危うさもわかる。
でも夫婦が運命共同体にならざるを得ない局面は必ずあって、
相手のダメな部分や綻びをむしろ愛おしく感じ、
長所より欠点で結ばれた存在が、家族なんじゃないかな?」

〈大切な人と別れることが、人間の宿命だから〉
という友人で脚本家の大石静氏の言葉を、彼女は最後に引く。

「それだけ大切な人との時間は、1分1秒も軽んじてはいけない。
いっそのこと夫婦や家族のナナハグ運動でも始めましょうか!(笑)」

おそらくその孤独も傷も、2人だけが分かち得た固有のものだからこそ、
人々を広く繋ぐ普遍たり得るのだ。

【プロフィール】
山村美智(やまむら・みち)/1956年三重県生まれ。
津田塾大学学芸学部英文学科在学中に東京キッドブラザースの東由多加代表にスカウトされ入団。
卒業後はフジテレビに入社し、「オレたちひょうきん族」等で活躍。

1984年に宅間秋史氏と結婚し、翌年退社。
以来女優業等で幅広く活動し、2002年に自ら脚本・主演・演出を務めた2人芝居「私とわたしとあなたと私」を発表。
NY滞在中の2007年には、同作の英語版をオフ・ブロードウェイで上演した。166cm、B型。

構成/橋本紀子 撮影/朝岡吾郎 ・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。 
 
 

今回、私は無念ながら、山村美智さん、そしての元フジテレビの名物プロデューサーの宅間秋史さん、
いずれも作品を鑑賞したことはないが、
宅間秋史さんの晩秋期の入院生活の中で、看病される山村美智さん、
いずれも情愛につつまれた情景・・多々教示されたりした。

果たして私たち夫婦が、どちらかがこの世と別れる時期・・、
どのような深情になるか・・と思い馳せたりした・・。

こればかりは、その時の置かれた状況に、
残された方が愛惜を秘めながら対処するのかしら、
と思い重ねたりしている・・。
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自民党の甘利幹事長、無力な年金生活の私でも、最も苦手なタイプの御方、と微苦笑を重ねて・・。

2021-11-01 14:45:35 | 喜寿の頃からの思い
先程、ときおり愛読している公式サイトの【 日刊ゲンダイDIGITAL 】を見ている中で、
『 自民・甘利明氏「令和最短の幹事長」に
         党ナンバー2が小選挙区で初めて落選の衝撃! 』、
と題された見出しを見たりした。
自民・甘利明氏「令和最短の幹事長」に…党ナンバー2が小選挙区で初めて落選の衝撃!

テレビ局のインタビューを受け、厳しい表情を見せる自民党の甘利幹事長=31日、東京・永田町の党本部(C)共同通信社

 

《・・ <もう言い訳はいらないんだよ>、
<お前は自分がやったことを全く反省していないんだな>、
<負けて当たり前。すっきりした>、
<言いたいことは東京地検でお願いします>


ネット上では、「歓迎」する投稿が目立っていた。

10月31日投開票された衆院選で、神奈川13区(大和・海老名と座間の一部)から
出馬した自民党の甘利明幹事長(72歳)が、立憲民主党新人の太栄志氏(44歳)に敗れた。


重複立候補した比例区で、復活当選したものの、
自民党ナンバー2の現職幹事長が、小選挙区で敗れるのは初めて。

これを受け、甘利氏は岸田文雄首相(64歳)に、幹事長辞任の意向を伝えたという。
幹事長交代となれば、これまた「令和の最短幹事長」となるに違いない。


テレビの選挙特番で「甘利劣勢」が報じられる中、
幹事長として、各局の番組にハシゴ出演した甘利氏。
その顔色は青ざめ、明らかに精彩を欠いていた。

東京メトロポリタンテレビジョンでは、自身の金銭授受問題に関する質問に対し、
「この種の話はエンドレスになりますから」とブチ切れ。

TBSの選挙特番では、爆笑問題の太田光氏(56歳)から
「戦犯ですよね」と問われると、
最初は「そうかもしれませんね」と苦笑いしつつも、
さらに金銭問題について突っ込まれると、「私自身は全く関与してないですね」と表情を変え、
苛立ちながら「そういうことを聞く番組ですか」と食って掛かる場面もあった。


この姿を見た視聴者などからは、
<これが、この人の本当の姿>、
<慌てて焦って、こういう時に人間の本性が出る>
といった書き込みがネットに投稿されていた甘利氏。

ほんの2、3週間前、安倍元首相(67歳)、麻生副総裁(81歳)と一緒に3AA」などと持ち上げられ、
「我が世の春」を満喫していたが、あっと言う間の転落だった。・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

 
今回、自民党の甘利幹事長、小選挙区で敗れ、比例区で、復活当選したが、
自民党ナンバー2の幹事長としての要職は、
自民党、公明党の有力議員、そして中堅の議員諸氏の中で、しめしが効かず、
辞任せざるを得ないよなぁ・・と苦笑したりした。

やはり心の節度が余りにも欠けた言動に、
小選挙区の神奈川13区(大和・海老名と座間の一部)の有権者、
或いは自民党、そして公明党の支持層から、お金と女の難題は険悪される、
そして傲慢な態度は、マスメディアからも険悪されて、
今回の敗退になった・・と専門知識のない私でも、このように解釈したりしている。
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