序章 明日より、山陰地方に小旅行
明日より家内と2泊3日のある旅行会社の周遊観光ツアーに出かける。
羽田空港から伊丹空港に出て、天橋立で散策した後、城崎温泉で外湯めぐりをし、宿泊する。
翌日は山陰の浦富海岸よりフェリーで海上から鳥取砂丘の景観を楽しみ、
賀露港で下船し、鳥取砂丘を鑑賞した後、
海沿いの羽合温泉に宿泊する。
その後、足立美術館で庭園を眺めた後、
松江の堀川めぐりの遊覧船に乗り、
出雲大社で参拝した後、米子空港より帰京する。
私は海上からの鳥取砂丘、そして初めての足立美術館の石庭に魅了されて、
ツアー旅行に参加するした。
梅雨の時節、雨が心配であったが、
先程ネットで現地の天気予報を検索したら、
東京の郊外と同様に暑い晴れ間が続きそうである。
私は暑さが苦手であるので、
帽子、サングラス、そして扇子が欠かせないのである。
第1章 旅の始りは、里山の情景・・♪
私は伊丹空港は初めてであり、
これからの宮津の天橋立までの自動車道からの車窓の景観も初めてであった。
伊丹空港を9時半過ぎに下り、周遊観光バスに乗り込み、
三田市、篠山市の付近を通り過ぎ、舞鶴自動車道をバスは快走した。
西紀S.A.で最初の休憩でバスから降りると、
煙草を喫いながら周囲の景観を眺め、豊かな里山の山並みを見詰めると、
初めて旅に来た、と実感できた・・。
そして、福知山市の周辺に通り過ぎると、JRの山陰本線と交差し、
これからの旅先で国道と鉄道がお互いに道ずれになるので、
私なりに複雑な思いで、かぼそい山陰本線の線路を見詰めた。
綾部市からは綾部宮津自動車道を通り、
天橋立に着いた。
私は学生時代の最初の夏季に、
所属したワンダーフォーゲル部の夏季合宿で2週間ばかり歩いた後、
金沢の周辺で解散となった。
私はザックを背負いながら、金沢から京都に出て、
山陰地方を一人旅を1週間ばかり、山陰本線を頼り、周遊した体験があるが、
昭和38年の夏のことなので、遠い昔のことでもある。
果たして、天橋立の情景は記憶が薄れ、
こうした風景だったかしら、とバスから下り立った。
第2章 されど、天橋立
日本の三文殊のひとつと知られている智恩寺から
黒松の中の遊歩道を歩き始めた・・。
私は神社仏閣に興味が薄れて折、
ボケ防止に良いかしら、と思う程度で、
黒松を誉(ほ)め、小判草のたわわな黄金色に染めた群生を見詰めながら、
どうして海沿いの黒松の樹木の下に群生した小判草が・・
と家内と驚いたりした。
遊歩道は日曜日の為か、市内の多くの家族連れが見られ、
私達の観光客と共に、宮津湾からの風に涼しさを享受したりした。
4キロ弱の遊歩道を歩いた後、籠神社で家内は参拝していたが、
私は鳥居の外れで、煙草を喫いながら、数多くの観光客を眺めていた。
周遊観光ツアーの多くは、自由昼食を予約し選定された昼食を頂くことがあるが、
私達夫婦は出来うる限る制約を避けて、
自分達で食事処を探して、その地なりの料理を頂いている。
昼食後、ケーブル・カーで昇り、傘松公園からの展望は、
先程歩いた遊歩道が黒松の弓状と景観となり、
一望できたりした。
あとは私は興味がないので、退屈を紛(まぎ)らすために、
股のぞきをし、海上と空を観たりしたが、失望感の方が多かった・・。
リストで下方に降り時、群生させたアジサイの花の色合いに慰められ、
天橋立を後にした。
一度、景観を楽しめば良い処であり、
二度目の私としては、たとえ季節を変えても私は失望するところかしら、
と思ったりした。
ただ、一度はこうした景観も観ればと思い、されど天橋立、
と家内と話したりしていた。
第3章 香(かお)りある城崎温泉
陽が高い3時半過ぎに城崎温泉に近づくと、
円山川の水量の多さに私は驚いていた。
私は城崎温泉は初めてであり、
小説家・志賀直哉の『城の崎にて』を若き日々に読んだりしていたが、
内に綴られたことは忘れたが、きのさき、じょうがさき、などと混同している・・。
感覚的なイメージとしては、歌人・吉井 勇が京の祇園で詠まれた、
かにかくに 祇園はこひし
寝るときも 枕の下を 水のなかるる
と著名な歌に、どうした想いか分からないが、重ね合わしている・・。
街中の『喜楽』の一室に通されたが、昔からある旅館のたたずまいであった。
畳の井草(いぐさ)の香りが匂い落ち着いた和室で、
和花の名前が部屋名として名付けられていた。
4時過ぎに、浴衣と下駄、そして扇子を持ちながら、外湯めぐりに街の中に出た。
日中の熱気が残る中、扇子で扇(あお)ぎながら、街中の店先を眺めたりした・・。
店先の椅子で地ビールを呑める処で、
私はビール、家内は特性あるアイスクリームを頂いた。
この街は、外湯めぐりと称され、
外湯の七箇所がそれぞれ特色ある湯処となっているので、
私達と同様に、浴衣と下駄、草履姿が多く
、宿泊している旅館により、浴衣が差異があり、
特に女性の華やいだ浴衣に好感し、私は眺めたりした。
その後、外湯に一軒に入浴後、
家内を外湯の前のベンチで待ったいた時、
花菖蒲(ハナショウブ)の咲いた一角で20代の4人の女性が
お互いに記念撮影をしたりしていた。
そして、この中のひとりが私にシャッターを押して、
と言うしぐさで近寄ってきた。
私はシャツターを押した後、
華やいだ浴衣もさることながら、
携帯電話を持ち合わせていない若き女性の4人に好感を増した・・。
外湯めぐりをしながら、浴衣と草履で街中を散策する時ぐらいは、
せめて日常の携帯電話を持たないで歩いて欲しい、
と思っていたのからである。
このことは情緒、情感であり、少なくとも文化の問題と確信している。
夕食後、夜の街を散策し、射的などの遊技場で戯れ、
外湯で入浴し、地ビールの香りと味を甘受け、
浴衣姿の人々を眺めたりした。
その後、家内と散策したら、前から4人の女性と合い、
若き女性達は黙礼をした。
私はほんのひとときであったが、日本の文化も健在であった、
と微笑みながら、黙礼をした。
夜のとばり、街の中を歩く下駄を音を聴きながら、
私は眠りに付いた。
第4章 余情のある山陰の情景
城崎温泉を朝の8時過ぎに後にし、香住で日本海が観えた時、
呑兵衛な私は車窓から香住酒造の看板を探した・・。
私に住む近くの日本酒専門販売店に於いて、
7年前頃、香住の方達が『香住鶴』5種類の試飲の招待を受けて、
私は参列し、試飲しながら、
香住酒造の人々と私なりの山陰地方の旅の思いでを重ね、談笑した。
さわりのない美酒と感じ、2本の1升瓶を抱え、
タクシーで帰宅したことがあったりした。
私は香住の街並みを意識したのは、昭和63年頃であった。
今は亡き紀行作家・宮脇俊三・著の『途中下車の味』の中で、
『一円電車と松葉ガニ』に於いて、
香住の蟹、余部鉄橋が綴られ、
私は深く感銘を受けた作品であった。
このような想いで、
山陰本線の線路が国道の車窓から樹木の林から見え隠れした後、
余部鉄道が観えた時、これがあのお方が感動を享受した鉄橋か、
と想いにしたった。
そして、教養人なのに恥じらいを知る含羞ある宮脇俊三・氏の残された作品が数々想いだされた。
《つづく》
明日より家内と2泊3日のある旅行会社の周遊観光ツアーに出かける。
羽田空港から伊丹空港に出て、天橋立で散策した後、城崎温泉で外湯めぐりをし、宿泊する。
翌日は山陰の浦富海岸よりフェリーで海上から鳥取砂丘の景観を楽しみ、
賀露港で下船し、鳥取砂丘を鑑賞した後、
海沿いの羽合温泉に宿泊する。
その後、足立美術館で庭園を眺めた後、
松江の堀川めぐりの遊覧船に乗り、
出雲大社で参拝した後、米子空港より帰京する。
私は海上からの鳥取砂丘、そして初めての足立美術館の石庭に魅了されて、
ツアー旅行に参加するした。
梅雨の時節、雨が心配であったが、
先程ネットで現地の天気予報を検索したら、
東京の郊外と同様に暑い晴れ間が続きそうである。
私は暑さが苦手であるので、
帽子、サングラス、そして扇子が欠かせないのである。
第1章 旅の始りは、里山の情景・・♪
私は伊丹空港は初めてであり、
これからの宮津の天橋立までの自動車道からの車窓の景観も初めてであった。
伊丹空港を9時半過ぎに下り、周遊観光バスに乗り込み、
三田市、篠山市の付近を通り過ぎ、舞鶴自動車道をバスは快走した。
西紀S.A.で最初の休憩でバスから降りると、
煙草を喫いながら周囲の景観を眺め、豊かな里山の山並みを見詰めると、
初めて旅に来た、と実感できた・・。
そして、福知山市の周辺に通り過ぎると、JRの山陰本線と交差し、
これからの旅先で国道と鉄道がお互いに道ずれになるので、
私なりに複雑な思いで、かぼそい山陰本線の線路を見詰めた。
綾部市からは綾部宮津自動車道を通り、
天橋立に着いた。
私は学生時代の最初の夏季に、
所属したワンダーフォーゲル部の夏季合宿で2週間ばかり歩いた後、
金沢の周辺で解散となった。
私はザックを背負いながら、金沢から京都に出て、
山陰地方を一人旅を1週間ばかり、山陰本線を頼り、周遊した体験があるが、
昭和38年の夏のことなので、遠い昔のことでもある。
果たして、天橋立の情景は記憶が薄れ、
こうした風景だったかしら、とバスから下り立った。
第2章 されど、天橋立
日本の三文殊のひとつと知られている智恩寺から
黒松の中の遊歩道を歩き始めた・・。
私は神社仏閣に興味が薄れて折、
ボケ防止に良いかしら、と思う程度で、
黒松を誉(ほ)め、小判草のたわわな黄金色に染めた群生を見詰めながら、
どうして海沿いの黒松の樹木の下に群生した小判草が・・
と家内と驚いたりした。
遊歩道は日曜日の為か、市内の多くの家族連れが見られ、
私達の観光客と共に、宮津湾からの風に涼しさを享受したりした。
4キロ弱の遊歩道を歩いた後、籠神社で家内は参拝していたが、
私は鳥居の外れで、煙草を喫いながら、数多くの観光客を眺めていた。
周遊観光ツアーの多くは、自由昼食を予約し選定された昼食を頂くことがあるが、
私達夫婦は出来うる限る制約を避けて、
自分達で食事処を探して、その地なりの料理を頂いている。
昼食後、ケーブル・カーで昇り、傘松公園からの展望は、
先程歩いた遊歩道が黒松の弓状と景観となり、
一望できたりした。
あとは私は興味がないので、退屈を紛(まぎ)らすために、
股のぞきをし、海上と空を観たりしたが、失望感の方が多かった・・。
リストで下方に降り時、群生させたアジサイの花の色合いに慰められ、
天橋立を後にした。
一度、景観を楽しめば良い処であり、
二度目の私としては、たとえ季節を変えても私は失望するところかしら、
と思ったりした。
ただ、一度はこうした景観も観ればと思い、されど天橋立、
と家内と話したりしていた。
第3章 香(かお)りある城崎温泉
陽が高い3時半過ぎに城崎温泉に近づくと、
円山川の水量の多さに私は驚いていた。
私は城崎温泉は初めてであり、
小説家・志賀直哉の『城の崎にて』を若き日々に読んだりしていたが、
内に綴られたことは忘れたが、きのさき、じょうがさき、などと混同している・・。
感覚的なイメージとしては、歌人・吉井 勇が京の祇園で詠まれた、
かにかくに 祇園はこひし
寝るときも 枕の下を 水のなかるる
と著名な歌に、どうした想いか分からないが、重ね合わしている・・。
街中の『喜楽』の一室に通されたが、昔からある旅館のたたずまいであった。
畳の井草(いぐさ)の香りが匂い落ち着いた和室で、
和花の名前が部屋名として名付けられていた。
4時過ぎに、浴衣と下駄、そして扇子を持ちながら、外湯めぐりに街の中に出た。
日中の熱気が残る中、扇子で扇(あお)ぎながら、街中の店先を眺めたりした・・。
店先の椅子で地ビールを呑める処で、
私はビール、家内は特性あるアイスクリームを頂いた。
この街は、外湯めぐりと称され、
外湯の七箇所がそれぞれ特色ある湯処となっているので、
私達と同様に、浴衣と下駄、草履姿が多く
、宿泊している旅館により、浴衣が差異があり、
特に女性の華やいだ浴衣に好感し、私は眺めたりした。
その後、外湯に一軒に入浴後、
家内を外湯の前のベンチで待ったいた時、
花菖蒲(ハナショウブ)の咲いた一角で20代の4人の女性が
お互いに記念撮影をしたりしていた。
そして、この中のひとりが私にシャッターを押して、
と言うしぐさで近寄ってきた。
私はシャツターを押した後、
華やいだ浴衣もさることながら、
携帯電話を持ち合わせていない若き女性の4人に好感を増した・・。
外湯めぐりをしながら、浴衣と草履で街中を散策する時ぐらいは、
せめて日常の携帯電話を持たないで歩いて欲しい、
と思っていたのからである。
このことは情緒、情感であり、少なくとも文化の問題と確信している。
夕食後、夜の街を散策し、射的などの遊技場で戯れ、
外湯で入浴し、地ビールの香りと味を甘受け、
浴衣姿の人々を眺めたりした。
その後、家内と散策したら、前から4人の女性と合い、
若き女性達は黙礼をした。
私はほんのひとときであったが、日本の文化も健在であった、
と微笑みながら、黙礼をした。
夜のとばり、街の中を歩く下駄を音を聴きながら、
私は眠りに付いた。
第4章 余情のある山陰の情景
城崎温泉を朝の8時過ぎに後にし、香住で日本海が観えた時、
呑兵衛な私は車窓から香住酒造の看板を探した・・。
私に住む近くの日本酒専門販売店に於いて、
7年前頃、香住の方達が『香住鶴』5種類の試飲の招待を受けて、
私は参列し、試飲しながら、
香住酒造の人々と私なりの山陰地方の旅の思いでを重ね、談笑した。
さわりのない美酒と感じ、2本の1升瓶を抱え、
タクシーで帰宅したことがあったりした。
私は香住の街並みを意識したのは、昭和63年頃であった。
今は亡き紀行作家・宮脇俊三・著の『途中下車の味』の中で、
『一円電車と松葉ガニ』に於いて、
香住の蟹、余部鉄橋が綴られ、
私は深く感銘を受けた作品であった。
このような想いで、
山陰本線の線路が国道の車窓から樹木の林から見え隠れした後、
余部鉄道が観えた時、これがあのお方が感動を享受した鉄橋か、
と想いにしたった。
そして、教養人なのに恥じらいを知る含羞ある宮脇俊三・氏の残された作品が数々想いだされた。
《つづく》