私は以前、『年金生活3年生の生活・・♪』と題して、
2006年11月21日に投稿している。
先ほど、読み返したりし、微苦笑したりしている。
改めて、私なりの民間会社を定年退職後の日常を振り返ったりしていた・・。
私はあるレコード会社を定年退職をしたのは、
2004年の秋であり、まもなく丸4年を迎え、
この11月で5年生となる。
私は昭和19年生まれであるので、
年金の満額支給は満62歳からであった。
退職後の満60歳からは私は働く意思がなかったので、
報酬比例部分と称される年金を頂ただいていたが、
満額に対して5割強の受給額であった。
この間の生活費は、程々の貯金を切り崩して生活をしてきた。
私共の夫婦は、子供に恵まれなく、
定年の5年前にリストラ旋風の中で出向となった時、
定年後の生活設計を行った。
退職後どのような日々の生活をしたいか、このことが全ての基本とした。
前提条件としては、ある程度の資金が必要なので、
定年時の貯金残も試算はしたりした。
そして、お互いの趣味をそれぞれ大切にし、
夫婦の共通の趣味は国内旅行であるので、程々に日本の各地を訪れよう、
と話し合った。
年金が満額になった時は、通常の生活費は年金と相殺し、
旅行費、思いがけない経費は別枠とし、貯金から切り崩すというのが、
諸経費の基本とした。
この目標に向って、多忙な定年までの5年間の現役時代の終末期を過ごしてきた。
この間、1戸建てが25年を過ぎ少し古惚けてきたので、
多少のリーフォームをした。
退職後、半年も過ぎれば、ある程度の生活ペースが落ち着いてくるが、
最初の頃は試算通り生活できるのかしら、
と心配したのは本音でもあった。
生活費は現役時代はある程度使っていたので、
果たして年金支給額で大丈夫かしら、と不安はあったが、
交際費、衣服費、交通費、通信費などは激変した。
具体的に云えば、会社関係の親睦会は年に数回となり、
友人達との居酒屋に行く回数も激変し、
そして何よりスーツ、ワイシャツ、ネクタイ、靴、クリーニング代は殆ど不要となった。
振り返って見ると、それぞれ定年後はお互いの人生の再スタートなので、
退職後はいつまで職場の延長戦でもないし、
家族を中心とした生活基盤に移行したと思っている。
代りに、時間が出来たので、
自分達の趣味の国内旅行が経費も回数も増えたりした。
しかし、旅行は非日常生活なので、
毎日の生活で自身の生きがい見出して実施するのが、
何より肝要と思われる。
昨今、団塊の世代の人々が定年退職に際し、
1部のお方が、退職後なにをして好いか解からない、
というのを読んだり、聞いたりするたびに、
私は驚いている。
最近でも、駅前の『ドトール』などでコーヒーを飲んでいると、
時間を持て余した退職後の男性を見かけることがある。
私は貴方達は、何かご自分で生きがいとした趣味がないのですか、
と思ったりしている。
私は定年前より、明確に目標を持っていたので、
退職後は無職でいる。
私の日常は小説、随筆、歴史書、現代史を読んだり、
居間で音楽を聴いたり、
或いは古き良き時代だった映画の作品をビデオ、DVDを視聴したりしている。
そして、買物、散策をしたりして、
四季折々のうつろいを心にとめて、思考している。
その上、ときおり庭の手入れをしたりしている。
こうした中で、心に感じたこと、思考していることを文章に綴り、
ブログのサイト【gooブログ】、 ブログに準じたサイトの【OCN Cafe】に於いて、
原則として、毎日数通を投稿したりしている。
このように過ごせば、時間は限りなく必要である。
私は若い時、一冊の文庫本を近くの公園など読めば、
日中過ごせるタイプなので、
余りお金のいらない生活も出来る。
要するに自分の趣味を深めるのに、お金の大小ではないということである。
程々の感性と感覚があれば、後は自分の努力次第で、
それなりに深化していくということである。
定年退職後、贅沢と感じたのは、好きなときに趣味に触れ、
或いは人気の少ない時に散策できた時である。
そして、中年女性以上のしぐさ、言葉に興味を持ち、
眺めたり、さりげなく会話をしたりするのは、
幼年期から私の悪い癖で、齢も重ねても変らないのである。
私の父は小学2年の他界され、母は私の50代のはじめ死去し、
家内の父は私の定年退職の直前に他界され、
家内の母が独り住まいとなっている。
家内の母は、私より14歳齢上の高齢の身なので、
心身の状況を私たち夫婦は心配している。
家内は毎月4泊5日前後で大掃除などで実家に行ったり、
ときおり、私たちは温泉滞在とか要望された国内の地を旅行に誘ったりしている。
こうして私なりの年金生活を過ごしているが、
詳細は日々に綴って投稿しているので、省略する。
そして私は、何事も好奇心をなくしたら人生は終りだ、
と確信しているひとりだから、
時間は限りなく欲しいと身勝手に感じ、日常を過ごしている。
2006年11月21日に投稿している。
先ほど、読み返したりし、微苦笑したりしている。
改めて、私なりの民間会社を定年退職後の日常を振り返ったりしていた・・。
私はあるレコード会社を定年退職をしたのは、
2004年の秋であり、まもなく丸4年を迎え、
この11月で5年生となる。
私は昭和19年生まれであるので、
年金の満額支給は満62歳からであった。
退職後の満60歳からは私は働く意思がなかったので、
報酬比例部分と称される年金を頂ただいていたが、
満額に対して5割強の受給額であった。
この間の生活費は、程々の貯金を切り崩して生活をしてきた。
私共の夫婦は、子供に恵まれなく、
定年の5年前にリストラ旋風の中で出向となった時、
定年後の生活設計を行った。
退職後どのような日々の生活をしたいか、このことが全ての基本とした。
前提条件としては、ある程度の資金が必要なので、
定年時の貯金残も試算はしたりした。
そして、お互いの趣味をそれぞれ大切にし、
夫婦の共通の趣味は国内旅行であるので、程々に日本の各地を訪れよう、
と話し合った。
年金が満額になった時は、通常の生活費は年金と相殺し、
旅行費、思いがけない経費は別枠とし、貯金から切り崩すというのが、
諸経費の基本とした。
この目標に向って、多忙な定年までの5年間の現役時代の終末期を過ごしてきた。
この間、1戸建てが25年を過ぎ少し古惚けてきたので、
多少のリーフォームをした。
退職後、半年も過ぎれば、ある程度の生活ペースが落ち着いてくるが、
最初の頃は試算通り生活できるのかしら、
と心配したのは本音でもあった。
生活費は現役時代はある程度使っていたので、
果たして年金支給額で大丈夫かしら、と不安はあったが、
交際費、衣服費、交通費、通信費などは激変した。
具体的に云えば、会社関係の親睦会は年に数回となり、
友人達との居酒屋に行く回数も激変し、
そして何よりスーツ、ワイシャツ、ネクタイ、靴、クリーニング代は殆ど不要となった。
振り返って見ると、それぞれ定年後はお互いの人生の再スタートなので、
退職後はいつまで職場の延長戦でもないし、
家族を中心とした生活基盤に移行したと思っている。
代りに、時間が出来たので、
自分達の趣味の国内旅行が経費も回数も増えたりした。
しかし、旅行は非日常生活なので、
毎日の生活で自身の生きがい見出して実施するのが、
何より肝要と思われる。
昨今、団塊の世代の人々が定年退職に際し、
1部のお方が、退職後なにをして好いか解からない、
というのを読んだり、聞いたりするたびに、
私は驚いている。
最近でも、駅前の『ドトール』などでコーヒーを飲んでいると、
時間を持て余した退職後の男性を見かけることがある。
私は貴方達は、何かご自分で生きがいとした趣味がないのですか、
と思ったりしている。
私は定年前より、明確に目標を持っていたので、
退職後は無職でいる。
私の日常は小説、随筆、歴史書、現代史を読んだり、
居間で音楽を聴いたり、
或いは古き良き時代だった映画の作品をビデオ、DVDを視聴したりしている。
そして、買物、散策をしたりして、
四季折々のうつろいを心にとめて、思考している。
その上、ときおり庭の手入れをしたりしている。
こうした中で、心に感じたこと、思考していることを文章に綴り、
ブログのサイト【gooブログ】、 ブログに準じたサイトの【OCN Cafe】に於いて、
原則として、毎日数通を投稿したりしている。
このように過ごせば、時間は限りなく必要である。
私は若い時、一冊の文庫本を近くの公園など読めば、
日中過ごせるタイプなので、
余りお金のいらない生活も出来る。
要するに自分の趣味を深めるのに、お金の大小ではないということである。
程々の感性と感覚があれば、後は自分の努力次第で、
それなりに深化していくということである。
定年退職後、贅沢と感じたのは、好きなときに趣味に触れ、
或いは人気の少ない時に散策できた時である。
そして、中年女性以上のしぐさ、言葉に興味を持ち、
眺めたり、さりげなく会話をしたりするのは、
幼年期から私の悪い癖で、齢も重ねても変らないのである。
私の父は小学2年の他界され、母は私の50代のはじめ死去し、
家内の父は私の定年退職の直前に他界され、
家内の母が独り住まいとなっている。
家内の母は、私より14歳齢上の高齢の身なので、
心身の状況を私たち夫婦は心配している。
家内は毎月4泊5日前後で大掃除などで実家に行ったり、
ときおり、私たちは温泉滞在とか要望された国内の地を旅行に誘ったりしている。
こうして私なりの年金生活を過ごしているが、
詳細は日々に綴って投稿しているので、省略する。
そして私は、何事も好奇心をなくしたら人生は終りだ、
と確信しているひとりだから、
時間は限りなく欲しいと身勝手に感じ、日常を過ごしている。