ビートルズの数多くの名曲の中に、『イエスタディー』がある。
私はこの曲を知ったのは、妹がビートルズを熱愛して、
数多くのレコードを聴いていた。
1966年(昭和41年)の初めの頃だったと思う。
この頃の私は、大学を中退し、映画、文学青年を気取っていて、
音楽には興味がなかった。
妹が応接間にあるステレオで、
ビートルズを大きな音量で聴いていても、
うるさい音楽としか聴こえてこなかった。
ある時、メロディー・ラインが良く、英語の詩も良い、
と直感した曲が、妹に曲名を教えて貰ったのが『イエスタディー』であった。
その後、妹はビートルズが来日公演の時、
学校では禁止されていたが、日本武道館に行って、
公演には満足した、と言っていた。
私はビートルズからは、音楽の影響は受けなかった。
私が1970年(昭和45年)にある企業に中途入社して、
音楽から影響を受けたのは、サイモンとガーファンクルであった。
私はメロディーも大切であるが、何より作詞を重要視していた。
このアーティストは、何を伝えたいのか、と思っていたからである。
その後、私はシャンソンに魅せられ、色々と聴き込んだ。
中でも、シャルル・アズナヴールには魅了させられた。
ある程度の年齢になり、若き日の青春時代を表現した『帰り来ぬ青春』(1964年)、
そして『遠い想い出』(1971年)は、友人達に絶賛した。
この時、『イエスタディー』(1965年)が甦ってきた。
ビートルズのメンバーが、あの若い時に《青春時代》を凝縮させた表現出来たのは、
天才という以外、言葉は見つからない。
この『イエスタディー』の曲は、世界の著名の歌手に多く歌われ、
日本に於いても名のある歌手が取り上げていた。
私は、少なくとも10人以上の歌い手をレコード、カセットで聴いている。
その後、映画の『ワンス・アホン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984年)に於いて、
ロバート・デ・ニーロが扮する主人公が駅構内で過去を回想するシーンに、
この曲が流れた。
この感覚には、私は絶賛した。
映画の音楽は、このように使うと映画の画面が引き立ち、
効果のある見本でもある。
このことは、監督・脚本のセルジオ・レオーネ、
そして音楽のエンニオ・モリコーネの功績であるのは、いうまでもない。
私はビートルズからは影響は受けてはいないが、
この『イエスタディー』の一曲は、
最初に聴いてから、ここ40年は絶賛している。
私はこの曲を知ったのは、妹がビートルズを熱愛して、
数多くのレコードを聴いていた。
1966年(昭和41年)の初めの頃だったと思う。
この頃の私は、大学を中退し、映画、文学青年を気取っていて、
音楽には興味がなかった。
妹が応接間にあるステレオで、
ビートルズを大きな音量で聴いていても、
うるさい音楽としか聴こえてこなかった。
ある時、メロディー・ラインが良く、英語の詩も良い、
と直感した曲が、妹に曲名を教えて貰ったのが『イエスタディー』であった。
その後、妹はビートルズが来日公演の時、
学校では禁止されていたが、日本武道館に行って、
公演には満足した、と言っていた。
私はビートルズからは、音楽の影響は受けなかった。
私が1970年(昭和45年)にある企業に中途入社して、
音楽から影響を受けたのは、サイモンとガーファンクルであった。
私はメロディーも大切であるが、何より作詞を重要視していた。
このアーティストは、何を伝えたいのか、と思っていたからである。
その後、私はシャンソンに魅せられ、色々と聴き込んだ。
中でも、シャルル・アズナヴールには魅了させられた。
ある程度の年齢になり、若き日の青春時代を表現した『帰り来ぬ青春』(1964年)、
そして『遠い想い出』(1971年)は、友人達に絶賛した。
この時、『イエスタディー』(1965年)が甦ってきた。
ビートルズのメンバーが、あの若い時に《青春時代》を凝縮させた表現出来たのは、
天才という以外、言葉は見つからない。
この『イエスタディー』の曲は、世界の著名の歌手に多く歌われ、
日本に於いても名のある歌手が取り上げていた。
私は、少なくとも10人以上の歌い手をレコード、カセットで聴いている。
その後、映画の『ワンス・アホン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984年)に於いて、
ロバート・デ・ニーロが扮する主人公が駅構内で過去を回想するシーンに、
この曲が流れた。
この感覚には、私は絶賛した。
映画の音楽は、このように使うと映画の画面が引き立ち、
効果のある見本でもある。
このことは、監督・脚本のセルジオ・レオーネ、
そして音楽のエンニオ・モリコーネの功績であるのは、いうまでもない。
私はビートルズからは影響は受けてはいないが、
この『イエスタディー』の一曲は、
最初に聴いてから、ここ40年は絶賛している。