私は新聞記事などで、感銘を受けた記事に関しては、茶色の整理箱に入れる習慣があり、
先ほど、たまたま開いて、一番奥底にあった記事のひとつを読んだりしていた。
そして、これから創作者をめざす人々に、
教訓と覚悟、そして自戒を提示させる名文である、と私は改めて深く感じたりした・・。
2005年8月19日の読売新聞の夕刊に掲載されていた記事であり、
文化部の鵜飼哲夫・記者が綴られている記事で、
『書くことの孤独と不安』と題している。
無断であるが、創作者をめざす人々に学んで頂きたく、あえて転記させて頂く。
《・・
「夫婦で小説を書くなんて、地獄だなあ」
若き日の吉村 昭さんと津村節子さんに、
痛ましそうな表情でそう言ったのは、作家の八木義徳である。
学習院の文藝部時代に知り合い、結婚した二人が、
いずれも作家として芽が出ず、
津村さんが
「書いても書いても波が消し去る砂絵のようにあてどない努力」を
していると感じていたころだった。
吉村さんは、芥川賞を4回落選。
津村さんは、3度直木賞を落ち、
1965年、2度目のノミネートで夫の取れなかった芥川賞を
37歳で受賞する。
夫婦の葛藤がいかなるものだったか。
吉村さんの著作『私の文学漂流』などでいくらか知っていたが、
このほど完結した『津村節子自選作品集』(岩波書店、全6巻)の
最終巻に収録された書下ろし『私の文学的歩み~遙かな光』を読み、
そのすざまじさに改めて息をのんだ。
1961年、津村さんの書く少女小説で、
なんとか生活ができるようになった時、吉村さんが勤めをやめ、
作家専業になった。
未熟児で生まれた娘を抱え、不安はあったが、
津村さんは
<彼の焦慮は、私のものでもあり、反対はできなかった>
と書いている。
しかし、それでも芽が出ぬ夫は2年後、
「俺は君の厄介になるのに疲れた」と、
再び働くと言い出す。
これに対して津村さんは
<疲れたのは、こちらのほうだ、と私は言いたかった。
「女房に稼がせて、悠々と自分の書きたい物を書いている俺を、
腹立たしく思っているのだろう」
彼は私の心の中を見通していて、反論できなかった。
軀の中を、野分が吹き抜けて行く様な気がした>
と書いている。
津村さんの芥川賞の翌年、
吉村さんは太宰治賞を受け、その後は読売文学賞など数々の賞に輝き、
二人は今、芸術院会員である。
しかしこの文章は、功成り名遂げた作家の安隠な回想ではない。
津村さんは、今も無名時代のように、書くことへの不安があるのだ。
<私はよく夜中にうなされてうめき声を出すらしく、
吉村に起こされる。
遙か海面に光が見えている深い海の中にいるような気持ちは、
今も続いている>
と記している。
松本清張も、晩年まで自作の出来を気にし、編集者に、
「面白い?」
と何度も聞く作家だった。
その清張を師と仰ぐ宮部みゆきさんも
「一作、一作ゼロからの出発ですから、不安なんです」
と語る。
書くことの孤独を思う。
それが文章を鍛えていくのだろう。
孤独の深さの中で、彼等が探り当てる日本語は、
読者の心を揺さぶる。
・・》
以上が全文である。
これから創作者をめざす人々には、
これ以上の教訓と覚悟、そして自戒はないと思われる。
私は、創作者もさることながら、
たとえ野球選手の一流バッターでも、
春先になると、昨年まで三割を打てていたのだが、
今年はちゃんと打てるのだろうか、とそのバッターの心境を私は思いめぐらす・・。
私は、若き日々に文学青年の真似事をして、挫折した私は、
改めて、このようなことを深く感じている・・。
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先ほど、たまたま開いて、一番奥底にあった記事のひとつを読んだりしていた。
そして、これから創作者をめざす人々に、
教訓と覚悟、そして自戒を提示させる名文である、と私は改めて深く感じたりした・・。
2005年8月19日の読売新聞の夕刊に掲載されていた記事であり、
文化部の鵜飼哲夫・記者が綴られている記事で、
『書くことの孤独と不安』と題している。
無断であるが、創作者をめざす人々に学んで頂きたく、あえて転記させて頂く。
《・・
「夫婦で小説を書くなんて、地獄だなあ」
若き日の吉村 昭さんと津村節子さんに、
痛ましそうな表情でそう言ったのは、作家の八木義徳である。
学習院の文藝部時代に知り合い、結婚した二人が、
いずれも作家として芽が出ず、
津村さんが
「書いても書いても波が消し去る砂絵のようにあてどない努力」を
していると感じていたころだった。
吉村さんは、芥川賞を4回落選。
津村さんは、3度直木賞を落ち、
1965年、2度目のノミネートで夫の取れなかった芥川賞を
37歳で受賞する。
夫婦の葛藤がいかなるものだったか。
吉村さんの著作『私の文学漂流』などでいくらか知っていたが、
このほど完結した『津村節子自選作品集』(岩波書店、全6巻)の
最終巻に収録された書下ろし『私の文学的歩み~遙かな光』を読み、
そのすざまじさに改めて息をのんだ。
1961年、津村さんの書く少女小説で、
なんとか生活ができるようになった時、吉村さんが勤めをやめ、
作家専業になった。
未熟児で生まれた娘を抱え、不安はあったが、
津村さんは
<彼の焦慮は、私のものでもあり、反対はできなかった>
と書いている。
しかし、それでも芽が出ぬ夫は2年後、
「俺は君の厄介になるのに疲れた」と、
再び働くと言い出す。
これに対して津村さんは
<疲れたのは、こちらのほうだ、と私は言いたかった。
「女房に稼がせて、悠々と自分の書きたい物を書いている俺を、
腹立たしく思っているのだろう」
彼は私の心の中を見通していて、反論できなかった。
軀の中を、野分が吹き抜けて行く様な気がした>
と書いている。
津村さんの芥川賞の翌年、
吉村さんは太宰治賞を受け、その後は読売文学賞など数々の賞に輝き、
二人は今、芸術院会員である。
しかしこの文章は、功成り名遂げた作家の安隠な回想ではない。
津村さんは、今も無名時代のように、書くことへの不安があるのだ。
<私はよく夜中にうなされてうめき声を出すらしく、
吉村に起こされる。
遙か海面に光が見えている深い海の中にいるような気持ちは、
今も続いている>
と記している。
松本清張も、晩年まで自作の出来を気にし、編集者に、
「面白い?」
と何度も聞く作家だった。
その清張を師と仰ぐ宮部みゆきさんも
「一作、一作ゼロからの出発ですから、不安なんです」
と語る。
書くことの孤独を思う。
それが文章を鍛えていくのだろう。
孤独の深さの中で、彼等が探り当てる日本語は、
読者の心を揺さぶる。
・・》
以上が全文である。
これから創作者をめざす人々には、
これ以上の教訓と覚悟、そして自戒はないと思われる。
私は、創作者もさることながら、
たとえ野球選手の一流バッターでも、
春先になると、昨年まで三割を打てていたのだが、
今年はちゃんと打てるのだろうか、とそのバッターの心境を私は思いめぐらす・・。
私は、若き日々に文学青年の真似事をして、挫折した私は、
改めて、このようなことを深く感じている・・。
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